第 6 章 現代中国語の人称代名詞“人家”に対応する日本語の形式
6.2 中国語“人家”と日本語「ひと」に関する先行研究
6.2.3 中国語“人家”と日本語「ひと」
6.2.1および6.2.2では、「ひと」の先行研究および“人家”と「ひと」の対照の観
点からの先行研究を概観し、問題点をまとめた。本節では、提示された問題点を統一 的視点から議論する。6.2.2で述べた人称による分類に基づき、“人家”と「ひと」の 用法を分類すると、図6-2のようになる。
図6-2 “人家”および「ひと」の用法の人称に基づく分類
図6-2が示すように、“人家”と「ひと」には、旁称用法、3人称用法、1人称用 法、2人称用法を持つという類似点がある。一方、“人家”には、「関連対象喚起」
用法および「人家+名詞」用法があるのに対して、「ひと」には「総称用法」がある という相違点も見られる139。
以下では、まず、“人家”と「ひと」の間の相違点、すなわち、「ひと」の「総称 用法」、“人家”の「関連対象喚起」用法に焦点をあて、その後、“人家”と「ひと」
に類似する用法を見る。
6.2.3.1 “人家”と「ひと」の総称用法
139 先にも述べたように、本研究は人家の「人家+名詞」用法は対象としないため、以下、この用法には 触れない。
先行研究によると、「ひと」には総称用法があるとされる。しかしながら、“人家”
が総称用法を持つとする先行研究はない。そこで、本項では、先行研究が指摘する(あ るいは指摘しない)これらの点を確認していきたい。まず、安達(2006:108)が示 す「ひと」の総称用法の例および筆者による作例を見られたい。
(163) 人は誰しも何者かでありたい、どこまでになれるかという不安をどこかに抱え
ている。 松原孝臣『きっと大丈夫』(安達2006:108)
(164) ひとは必ず死ぬ。 (筆者作例)
(163)、(164)の「ひと」は、いずれも特定の人物ではなく、人間という範疇に含ま
れているすべての人を指す。安達(2006:108)は、「「人」の意味としては、種と しての<ひと>と言ってよい」、また、「述語が、その主格名詞につねに成り立つ性 質を表しているのがこのタイプである」と説明している。つまり、(163)の「ひと」は 一般的に誰もが何者かになりたいと思っていることを、また、(164)の「ひと」は、人 間はみな「死ぬ」という属性を持っていることを示しているのである。さて、このよ うな「ひと」を“人家”に対応させると、以下のようにいずれも非文になる。
(163)’ *人家 谁都 想 成为 优秀的人,但也在担心 不 知道 能 达到 什么程度。
誰も たい なる 優秀 人 でも 心配している 否定 知る できる まで 何の程度
(164)’ *人家 都 会 死140。
皆 はずだ 死ぬ
このように、総称用法の「ひと」を“人家”に対応させることができないのは、こ れまで見てきたように、一般に、“人家”が話し手あるいは聞き手以外の人を指すこ とに因ると考えられる。すなわち、話し手あるいは聞き手以外の人を指すというのは、
話し手および聞き手までを含む人間全体とは相容れないのである。以上、本項では、
“人家”には「ひと」の総称用法に相当する用法はないことを見た。
6.2.3.2 “人家”の「関連対象喚起」用法と「ひと」
本項では、第3章で述べた“人家”の「関連対象喚起」用法の例を改めて取り上げ、
「ひと」と“人家”の置換可能性の有無により、「ひと」に“人家”の「関連対象喚 起」用法もしくはそれに類似する用法があるか否かを見る。
まず、再び“人家”の「関連対象喚起」用法の典型例を提示しておく。
140 この例は、“人一定会死”(ひとは必ず死ぬ)という文にすると自然な文になる。つまり、中国語
“人”は日本語「ひと」と同じく総称用法を持つのである。
(165) 今天去 医院,人家 说 没事儿。 (筆者作例)
今日 行く 病院 [=医者] 言う 大丈夫
「今日病院に行って、[医者に]たいしたことではないと言われた。」
上の例の“人家”は、前文に出現した“医院”(病院)が喚起する人、すなわち「病 院」に関連する人のなかでも、特に、“医者”を指示すると理解される。第3章で記 述したように、これは、“人家”が元来「人の家」を表し、のちに「人の家」からそ の家に住む人を指すようになったという“人家”の語源およびその意味変化に由来す るものである。第3章では、この“人家”は3人称代名詞“他”との置換ができない と述べた。そういう意味で、この用法は従来の先行研究では指摘されなかったもので ある。
さて、ここで上述の“人家”を「ひと」に置き換え、「ひと」にも“人家”の「関 連対象喚起」用法に相当する用法があるか否かを確認してみる。
(165)’ a.*今日病院に行って、ひとはたいしたことではないと言った。
b.今日病院に行って、たいしたことではないと言われた。
(165)の“人家”を「ひと」に置き換えると、(165a)’が示すように、指示対象が不明
になり不自然な文になる。このように、「ひと」は「病院」のような機関名が喚起す る人を示すことができない。つまり、「ひと」には“人家”の「関連対象喚起」用法 はないということである。一方、(165)に対応する自然な日本語文を考えると(165b)’
の受身文になる。このような受身文では、“人家”の「関連対象喚起」用法と同様、
当該事態の動作主は不特定であるが、“人家”の「関連対象喚起」用法のように、そ の動作主が「病院」の関係者であることも示すこともない。
また、(165b)’の日本語の受身文を中国語の受身文にすると、(165c)’に示すように不
自然になる。
(165)’ c.*今天 去 医院,被 说 没事儿。
今日 行く 病院 受身 言う 大丈夫
上の例で受身文が不自然な理由として、次の二つがあげられる。ひとつは、中国語 の受身を示す“被”という動詞を使用した文では、被害や迷惑に感じられることが多 いという点、もうひとつは、上の日本語の受身文のように動作主が不特定なものは、
中国語の受身文としては不自然になるという点である。
以上、6.2.3.1では、“人家”は基本的に話し手と聞き手以外の人を指すことから、
話し手と聞き手までも含む「ひと」の総称用法に相当する用法はないこと、また、6.2.3.2 では、「ひと」には“人家”の「関連対象喚起」用法に相当する用法はないことを見 た。
以下では、図6-2で示された“人家”と「ひと」の旁称用法、3人称用法、1人称 用法、2人称用法の類似点と相違点を分析する。
まず、『中日対訳コーパス』から抽出された中国語の人称代名詞“人家”の旁称用 法、3人称用法、1人称用法に対応する日本語「ひと(様)」の出現数とその割合を 表6-6に示す。
表6-6 中国語“人家”の旁称用法、3人称用法、1人称用法に対応する 日本語「ひと」(合計122例)
“人家”の用法 対応する日本語「ひと
(様)」の出現件数
対応する日本語「ひ と(様)」の割合
旁称用法 79 64.8%
3人称用法 36 29.5%
1人称用法 7 5.7%
“人家”の旁称用法、3人称用法、1人称用法に対応する日本語「ひと」のうちも っとも多いのは“人家”の旁称用法に対応する「ひと」で、全体の64.8%を占めた。
この結果は、“人家”の旁称用法が日本語「ひと」に表出されることが多いことを示 唆するものである。次に多いのは“人家”の3人称用法で、その数は36例であった。
一方、“人家”の1人称用法の対応は7例で、対応数がもっとも低い。
では、中国語の“人家”はどのような場合に日本語「ひと」で表出されるのであろ うか。以下、“人家”の旁称用法、3人称用法、1人称用法、2人称用法とそれらに対 応する「ひと」の順で観察していく。141
6.2.3.3 “人家”と「ひと」の旁称用法
本項では、“人家”の旁称用法とそれに対応する「ひと」について、第3章で記述 したことを踏まえて分析する。
まず、第3章では、筆者作例および収集したデータを基に“人家”の旁称用法を観 察し、“人家”の同用法は間接指示専用であり、直接指示としては使用されないこと が確認された。また、6.1.1では、“人家”の旁称用法にもっとも対応することの多い
141 『中日対訳コーパス』には“人家”の2人称用法の例はないため、以下では先行研究にある例を引 用する。
日本語の形式は「ひと」であり、旁称用法の“人家”とそれに対応する「ひと」は間 接指示において同じ振る舞いをしていることを確認した。
以下では、大西(2000:55)があげた例を基に、“人家”の旁称用法に対応する「ひ と」に直接指示があるか否かを検証する。
(166)「人より二倍勉強するんだな。二倍勉強すれば二倍だけ出来るようになる。朝
起きても学校へ行くまで勉強。学校から帰っても、又勉強。-そうすりゃあ、
どこへだって入れる」 井上靖『あすなろ物語』
(166)の「ひと」の指示対象は、文脈から、話し手、聞き手以外の人を指しているの
がわかる。大西(2000)は、この「ひと」は「他の人」と置き換えができることから 不特定多数の人を指すと解釈している。つまり、(166)の「ひと」は“人家”の旁称用 法に相当するということであるが、この「ひと」の指示対象は発話場面にいない人物 であることも明らかである。以上のことから、“人家”の旁称用法に対応する「ひと」
は“人家”と同じく直接指示はないと言える。
次に、資料体から抽出された“人家”の旁称用法に対応する「ひと」の例を見てみ よう。
(167) 记得 我 小的时候很 胖, 人家 说 我 长的 像 奶娘(略)。
覚える 私 小さい頃 とても 太る [=ほかの人] 言う 私 成長する 似る 乳母
《关于女人》
「小さいとき私は太っちょで、ひとから乳母にそっくりだといわれた。」
(168) 听 人家 背地里 谈论,孔乙己 原来 也 读过书(略)。 《呐喊》
聞く[=ほかの人] 陰で 話し合う 人名 もともと も 就学した
「人がかげで噂しているのをきけば、孔乙己はもとは学問をした人間である。」
(169) 他小的时候,我 带着 他 到处 走,人家 一 见 他 就 夸:“看
彼 小さい頃 私 連れている 彼 あちこち 歩く[=ほかの人] 度に 見る 彼 すぐ 誇る 見る
这孩子的眼睛!” 《人啊,人》
この子の目
「子どものころ、わしはよくあちこち連れ歩いたが、人はやつを見るなり、「ま あ、この子の目は!」と賛嘆の声をあげたものだ。」
(167)から(169)はすべて“人家”の旁称用法とそれに対応する「ひと」の例である。