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旁称用法の“人家”に対応する日本語の形式

第 6 章 現代中国語の人称代名詞“人家”に対応する日本語の形式

6.1 資料体から見た人称代名詞“人家”に対応する日本語の形式

6.1.1 旁称用法の“人家”に対応する日本語の形式

本項では、資料体から抽出された旁称用法の“人家”に対応する日本語の形式を見

117 資料体には“人家”の2人称用法に該当する例は1例しかなかったため、“人家”の2人称用法に 対応する日本語の形式は扱わない。

る。旁称用法の“人家”に対応する日本語の形式をまとめると、表6-2のようになる。

表6-2 旁称用法の“人家”に対応する日本語の形式

旁称用法の“人家”に対応する日本語の形式 対応数(例) 割合

対応なし群 Ø 86 29.1%

名詞群

ひと(様) 79 26.8%

その他118 30 10.2%

みんな 19 6.4%

相手 12 4.1%

よそ(様) 10 3.4%

他人(様) 7 2.4%

動詞群

受身形式 42 14.2%

授受形式 5 1.7%

使役形式 5 1.7%

合 計 295 100%

表6-2によると、“人家”の旁称用法に対する日本語は「対応なし群」がもっとも 対応する割合が高いことがわかる。この結果は、日本語では一般に人称代名詞が省略 される傾向にあること、および、“人家”の旁称用法の特徴によって引き起こされた ものと考えられる。旁称用法の“人家”の特徴は、すでに見たように、話し手・聞き 手以外の不特定の人物を指す点にあった。また、第5章で見たように、旁称用法の“人 家”と類似あるいは置換可能と言われる“別人”は、「~ではない他の人」が示すよ うな、ある特定の集合を想定した上でその集合内の問題となる人以外の人を指すとい う点において、指示領域の分割が可能だったのに対し、旁称用法の“人家”はそのよ うな指示領域の分割はできなかった。つまり、旁称用法の“人家”において、重要な のは指示対象の同定ではなく、その指示対象について述べた文の内容ということであ る。このようなことから、旁称用法の“人家”に対応する日本語では、それに対応す る形式が明示されていなくても文の意味を理解することに支障が生じることはない のである。

以下、旁称用法の“人家”に対応する日本語の「対応なし」の例を示す。

(137) 可是 不 等 梁子安 再 开口, 朱竞新 早 又 笑着 又 说道:“喂,你们

でも 否定 待つ 人名 又 口をきく 人名 もう 又 笑いながら 又 言う おい 君達

118 「その他」の形式には、「ある人」、「客」、「お客さん」、「外国」、「向こう(様)」、「者」

「一同」、「他家」、「世間様」、「誰かさん」、「先方」などの名詞がある。

那个 什么 习艺,快 开张 了 罢? 人家 都 说 这是 新玩意的大锅饭119…”

それ 何か 授産 すぐ 始まる 強調 疑問[=ほかの人]皆 言う これ だ 新趣向の寄せ鍋

《霜叶红似二月花》

「しかし、梁子安が口をきくまえに、朱競新がにやにやしながらいった。「と きに君たちの授産なんとかいうの、間もなく始まるんだろ。もっぱらの噂じ ゃないか、あれは新趣向の寄せ鍋で……」」

(138) “哦,眼睛的 奥妙……”朱小姐随口 应着, 心里 却 在想着 竞新

まあ 目 の 神秘 人名 不用意 返答している 心 却って 考えている 人名

此时 是否 仍 站 在 门外,也 想到 竞新 那 一双会勾摄人家的心灵的眼睛。

この時 か否か まだ 立つ に 戸口 も 思う 人名 あの 数詞できる 誘惑[=ほかの人]の心の目

《霜叶红似二月花》

「「まあ、目玉の神秘……」克成は無意識に繰り返しながらも、心では、競新 はまだ戸口に立っているであろうかと考え、また、(φの)心をとろかすよ うな彼の目を思い浮かべていた。」

(137)、(138)を見ると、日本語では当該の“人家”に対応する表現がなくても文の

理解には支障をきたさないことがわかる。もし(137)、(138)の日本語文に“人家”に 対応する表現を加えるならば、それぞれ以下のようになる。

(137)’ 「しかし、梁子安が口をきくまえに、朱競新がにやにやしながらいった。「と

きに君たちの授産なんとかいうの、間もなく始まるんだろ。[みんな]あれは 新趣向の寄せ鍋で[って言っている]……」」

(138)’ 「「まあ、目玉の神秘……」克成は無意識に繰り返しながらも、心では、競

新はまだ戸口に立っているであろうかと考え、また、[ひとの]心をとろかす ような彼の目を思い浮かべていた。

中国語の(137)、(138)の日本語の訳文(137)’、(138)’では、旁称用法の“人家”はそれ ぞれ「みんな」「ひと」となり、日本語の訳にこれらの語を加えても特に文意に変化 は生じず、自然な文となる。(137)では「心」の前に「ひと」が示されなくても「ひと の心」と解釈される。「ひと」がなくても自然な文になるのは、その語だけで「ひと」

のこころという意味を示すからである。

119 “大锅饭”の意味の直訳は「大鍋で炊いた飯」であるが、実際は中国で1950年代から70年代まで の画一主義の現象を指す。その意味は、仕事の量の多少,質の良さにかかわらず、待遇が一律であ ることを言う。

次に、旁称用法の“人家”に対応する日本語の形式として二番目に対応数が多かっ た「ひと(様)」を見る。以下の例を見られたい。

(139) 母亲(略)笑 说:“元元,你 打扮得 太 和 别人 一样 了。 人家 抹

笑う 言う 人名 貴方 化粧 すぎる と 他の人 同じ 強調 [=ほかの人]塗る

红嘴唇, 你 也 抹 红嘴唇, 人家 涂 红指甲,你 也 涂 红指甲,这

赤い唇 貴方 も 塗る 赤い唇 [=ほかの人] 塗る 赤い爪 貴方 も 塗る 赤い爪 これ

岂非 反 不 引起 他人的注意?” 《关于女人》

じゃないか 却って 否定 引く 他人の注目

「母は笑っていったのだった。「ねえ、あなた。ほかのひとと同じようにお化 粧したのね。ひとが赤い口紅を塗っているから、自分も塗る。ひとが爪を赤く 染めているから、自分も染める。それだと、かえって目立たなくなるのじゃな いかしら。」」

(140) 大串联的时候我还 小,什么都 不 懂,起哄 似地 跟着 人家

大串聯 の 時 私 まだ 小さい 何も 否定 わかる 騒ぐ のように ついている[=ほかの人]

跑 了 几个 城市,又 抄 大字报 又 印 传单,什么也 不 懂。

走る 完了 いくつか 町 又 写す 壁新聞 又 印刷 チラシ 何も 否定 わかる

《插队的故事》

「大串聯の時はまだ小さくて、何もわからぬままに騒ぎに乗るように人にくっ ついていくつかの町へ行き、壁新聞を写したり、ビラの印刷をしたけれど、

何もわかっていなかった。」

(139)、(140)の“人家”はいずれも発話場面にいない不特定の人を指している。し

かし、その解釈のあり方はそれぞれ異なっている。(139)の「ひと」は、前文に出現し た「ほかのひと」に照応し、不特定の人を指す。一方、(140)の日本語「ひと」は、照 応先がなく、さらに発話状況が設定されないため、間接指示として働く。このことか らわかるように、間接指示という点において、“人家”と「ひと」は同様の働きをし ていると言える。

次に、“人家”の旁称用法に対応する日本語の動詞の受身形式を見る。

本研究の資料体では、“人家”のいずれの用法にも日本語の受身形式が対応してお り、その出現総数は55例であった。そのうち、“人家”が出現した中国語能動文は 34例で、これらに対応する日本語形式はすべて受身文であった。(141)を見られたい。

(141) 于是 就 有 那么 一位,在 城里的一次 舞会上 认识 了 一位姑娘。

すると 強調 いる そんな 一人 城内 の 一回 ダンスパーティ 知る 完了 一人の娘

人家 问 他 在哪儿工作,你 猜 他 回答 什么? 《丹凤眼》

[=] 聞く 彼 で どこ 働く 貴方 当てる 彼 答える 何

「そこでこんな奴も出てくる。彼は北京城内のあるダンスパーティで一人の娘 と知り合った。どこに勤めているのかとたずねられて彼がなんと答えたと思 う?」

上の例の中国語文“人家问他~”(その娘が彼に~を聞く)は能動文であるが、対 応する日本語は「(彼がその娘に)~とたずねられて」という受身文になっている。

一般に、動作主と対象からなる出来事を表現する際、能動的な表現と受動的な表現の 2種類の表現方法がある。日本語の受身文について、久野(1978:163)は「受身文で は、わざわざ行為主体を主語の位置から外し、行為対象を主語の位置にすえるのであ るから、話し手は、この構文パターンを用いる時は、何か特別な理由、即ち行為対象 に対する視点的な接近がなければならない」と述べる。さらに、久野(1978:129) は「視点」という概念を提案し、それは「話し手が何処にカメラを置いて、この出来 事を描写しているか」ということであると述べている。能動文の視点は動作主に置か れ、受身文の視点は対象に置かれる。以上のことを踏まえれば、中国語では話し手が 視点を動作主に置く傾向があるのに対して、日本語では話し手は視点を対象に置くこ とが多いと言えるであろう。しかしながら、動作主に視点を置く中国語ではあるが、

動作主という対象自体よりもその動作主がどのような行為をしたかということに焦 点をあてる場合には、能動文の構文を取りながら“人家”が使われるのだと思われる。

“人家”の旁称用法には、“人家(都)说~”(みんな~と言う)という形式もよ く見られる。以下の例を見られたい。

(142) 奶奶死劲 抓住 座板, 腹中 翻腾着 早晨吃下的两个鸡蛋,(略) 奶奶

祖母 必死に 摑まる 座席の板 腹の中 暴れている 朝 食べた二つの卵 祖母

命令着 自己,不 能 吐 啊,凤莲, 人家 说 吐 在 轿里 是

命令している 自分 否定 できる 吐く 強調 人名 [=ほかの人] 言う 吐く に 輿の中

最大的 不 吉利,吐 了 轿一辈子 没 好运…… 《红高粱》

一番 の 否定 吐く 完了 輿 一生 否定 好運

「祖母は死にものぐるいで座席の板にしがみついた。腹のなかでけさ食べた二 つの卵が暴れ、(略)(φは)はいちゃだめ、鳳蓮、輿のなかではくのは大凶、一 生幸せになれないんだって……」

(142)の“人家”は後続する内容の不特定の話し手を示しており、(143)、(144)の英