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第2章 千人針の全国的展開とその終焉

第4節 銃後の護りと千人針

街頭での千人針風景は、一般の女性のみならず、多くの婦人会や女学生によりボランテ ィアとして協力の手がさしのべられた。

まず、街頭での千人針協力については、事例1(四高女愛国子女団員)、事例 5(洛陽 高等技芸女学校生徒)、事例 6(松山高女へは約十人、城北高女でも四五人、済美も四五 人その他東雲、松山技芸、専売局等それぞれ千人針が依頼されて来て居る。)、事例11(都 城高等女学校生徒七百八十名は炎天下の街頭に立ち道行く人々に呼びかけて千人針を作 成)、事例 12(宮崎都城両高女生をはじめ女学生)、事例 13(宮崎高等女学校一年生から 四年生専攻科生)、事例14(延岡高女生)、事例16(宮崎高等女学校生徒約三百五十名)、

事例 20(富高実業学校女子部と第一富高校女子生徒)などがあり、多くの女学生たちが 街頭に立って千人針作製に協力していたことが分かる。

更に積極的に学校内で千人針を作製したと思える事例がいくつかある。事例 7(県立加 古川高女では十五日午前九時全校六百五十余名の生徒が校庭に集合し千人針を行つた)、

事例 15(都城高等女学校では北支の広野に活躍する戦士に送るため真心をこめて千人針 を作成中であつた)、事例 18(宮崎女子高等技芸学校では、お小使いを貯めた金で全校生 徒三百八十名が白木綿を買ひ、可憐な愛国の情を傾けた千人針入りの褌三百八十枚を作 成)、事例 21(宮崎技芸女学校全生徒は二十六日越中褌を三百五十枚、千人針三百三十八 枚を在支皇軍将士宛に発送)などである。流れ作業で千人針を作製することは忌まれたと の証言もあったが、実際には多くの女学校で一斉に千人針作製が行われた。

こうした女学校での千人針の実状について理解できる文献がある。堀江優子編著『戦時 下の女子学生たち 東京女子大学に学んだ60人の体験』(1)には、アンケートに「千人針」

の項目が設けられ、60 人の東京女子大学の生徒だった方々が答えている。自ら街頭に立 って協力した、個人的に持ち込んで学校で千人針作製を行った、などの証言が目立ったが、

それ以外にも学校の関わりを示す事例もあった。

事例 50)千人針は個人的に持ち込まれたものではなく、学校の指導によって作りま した。クラスで何枚かずつ作ったものを集めて、学校から軍部に納めたのだと思いま す。(金井慰子、p.595)

事例 51)お兄さんや従兄弟などが出征する人が、千人針の布を学校に持って来て、

みんなに頼んでいました。千人針は普通一人一針ですが、寅年の女は年の数だけ結べ るととになっていて、寅年のクラスへ持っていくと非常にはかどります。私たちの学 年の多くは寅年ですから、小学校の頃からよく頼まれまして、休み時間などにセッセ と結んでいました。(久野知子、p.634)

事例 52)小学校五年生の時に日中戦争――当時は日支事変と言いました――が始ま

り、千人針はその頃からしていました。もちろん女学校でもしました。家族が出征す る人が千人針の布を教室に持ってきて、みんなに頼むこともありましたし、先生の指 導によりクラスで何枚か作って提出することもありました。また街頭に立って一針ず つ募っている人もよくいましたから、そうした求めにも応じました。小学校は男女共 学でしたが、男子と女子はクラスが分かれていました。男子のクラスでは千人針をし ていなかったと思います。(嶋津智恵子、p.850)

女学生の証言であるため、学校にどの様に指示が来て、作製された千人針がどのように処 理されたかは想像の域を出ないが、教師の指示により千人針作製を行った事例が少なから ず有ったことが分かる。また、このアンケートの回答を見ると、学校によって対応がさま ざまであったことが理解できる。

学校からの指導で千人針を作製した例としていくつか事例を見て行くこととする。まず は、文部省管轄の大日本連合女子青年団の記録を紹介しておく。宮崎県文書センターに所 蔵される資料の簿冊名「男女青年」(昭和12年度)の「女青時局第十三号」には、昭和13 年1月12日に、大日本連合女子青年団理事長名で、次のような調査が依頼されている(以 下、下線は筆者による)。

各加盟団体長殿

女子青年団銃後活動状況ニ関スル件

標記ニ関シ客年八月二十八日付、女青時ニ□ヲ以テ単位団体ノ実績二、三ニツキ御報 告方依頼致置候処今回更ニ左記事項□知致度候条御多忙中トハ被存候得共其ノ筋ヘ報 国ノ都合モ有之候ニ付、来ル二月十日迄御回報相願度此段及御依頼候

この依頼に対して、4 地区から千人針の活動を含んだ回答がなされている(下線は筆者に よる)。

○都城市 南女子青年団 団員数 一〇四名

1、出征軍人ノ慰問激励又ハ「遺家族救護等ニ関スル活動状況」

1、出征将兵見送。

2、出征将兵家族ノ訪問。

3、千人針ノ斡旋 4、慰問袋作製 5、遺骨出迎

6、出征将兵並ニ関係者ノ接待」

○都城市 大王女子青年団 団員数 四八名

1、出征軍人ノ慰問激励又ハ遺家族救護等ニ関スル活動状況

一、出征に先だち国防婦人会と合同にて武運長久祈願祭を県社神柱神社に執行、守 護札並千人針を携えて其の家庭を訪問、慰問激励をなす

二、慰問袋を作成、現地将兵に送付、戦線勇士の苦闘を労う

(1)『愛国婦人会四十年史附録』愛国婦人会、昭和16年(1941)。

(2)藤井忠俊『国防婦人会 ―日の丸とカッポウ着―』岩波文庫(黄)、岩波書店、昭和 60

(1985)、p.160。

○都城市 上長飯女子青年団 団員数 二六名

1、出征軍人ノ慰問激励又ハ遺家族救護等ニ関スル活動状況

一、毎月一回早朝小鷹神社ニ於テ皇軍将兵ノ武運長久祈願祭ヲ執行スルコト 二、皇軍将兵ノ送迎ヲナス

三、戦病死将兵ノ遺骨出迎ヲナス

四、出征兵ニ対シ千人針オ守リノ世話ヲナス 五、慰問品又ハ慰問文等ヲ発送スルコト 六、軍隊ノ演習ノ際ハ湯茶ノ接待ヲナス 七、毎月一回出征兵遺家族訪問ヲナス

○都城市 今町女子青年団 団員数 五九名

1、出征軍人ノ慰問激励又ハ遺家族救護等ニ関スル活動状況

1、国防婦人会員ト協力シ出征軍人遺家族訪問及ビ各支部ニ於テ団員輪番ニ該部落出 征軍人遺家ノ家事ノ補助ヲナス

2、皇軍武運長久祈願ヲナシ各支部ニ於テ該部落出身将兵ヘ千人針御守札ヲ贈呈セリ

婦人会の活動などにおいて、千人針作製に協力することについて、その活動内容を明記し た資料は少ないが、ここでは「千人針ノ斡旋」「守護札並千人針を携えて其の家庭を訪問」

「出征兵ニ対シ千人針オ守リノ世話ヲナス」「将兵ヘ千人針御守札ヲ贈呈」と記されてい る点は注目される。

また、中等教育段階の女生徒を団員として満州事変後に、愛国婦人会の下部組織として つくられた愛国子女団は事業として「千人針調製」を行っており、学校現場との関係が推 測される。(1)

第二 出動となりたる場合応召家族の先つ第一に求むるmのは千人針なるべく而も急 には之を得難きことを思ひ、支部長は七月十四日県下高等女学校愛国子女団四十一団 に向つて一週間内に之れが調製を依頼したるが栄ある武運を祈りつゝ、一針毎に真心 をこめて縫へるもの立つところに一万四千四百枚を準備せり(広島県支部、p.288)

「第六 稿軍」の「慰藉贈呈」に、「千人縫 22,962枚 3,125円6銭」(広島県支部、p.291)

「第九 子女団の奉仕」の項目に「1、千人針調製 22,962枚」とある。(広島県支部、p.292)

以上のように愛国婦人会及び愛国子女団においては組織として千人針調製に協力していた ことが分かる。特に広島県は愛国子女団の活動が盛んであったという(2)

ここで千人針を学校でどのように作製したか分かる具体的事例を紹介する。明治 39 年

(1906)生まれの大村はまという女性教諭が東京府立第八高等女学校(現東京都立八潮高

(1)大村はま「千人針と学校工場」『女たちの八月十五日 もうひとつの太平洋戦争 小学館ライブリ ー68』小学館、平成7年(1995)、pp.39-41

校)での千人針製作のようすについて記述している(1)

事例 53)私の勤めていた東京府立八高女は、定員一二五〇名、転校や病気による長 欠その他で、日々の出席者は、一一〇〇名前後であった。つまり、全校でかかれば千 枚の千人針ができるのである。全校挙げて授業は休み、千人針千枚を作ることになっ た。

まず、前日の準備、

(1)さらし木綿を適当の長さに裁断する。

(2)二つ折りにする。

(3)千個の印をつける。

(4)赤い糸を同じ長さに切る。この糸の長さがまちまちでは、いっせいに縫うのに糸 つぎのときが合わず、進行に差し支える。

(5)針をそろえる。

(6)布と糸をそろえて一組ずつ人数を合わせてまとめる。

そして当日、

(1)各クラス級長以下四名、布などを運んだり配ったり、その他連絡の係として、本 部付きにする。

(2)各組の出席者数を確かめて、前日そろえておいた布などの数を合わせる。縫う人 数を確実に千人にする。千人いない場合は、本部からもどらせる。多い場合は本部の 手伝いにする。

当時は、出征などがあると欠席、その他事故欠席が多く、また、病気欠席も多かっ たので、縫い手千人を確保することは容易でなかった。

(3)いよいよ縫う。その様子は、まったく機械のようであった。針は二本ずつ配られ、

その二本に赤い木綿糸を通して用意する。

第一のベルがリーンと鳴る。それを合図に一つ縫う。

第二のベルがリーンリーンと二回鳴る。縫えたのを次の人に渡す。

また、リーン。一つ縫う。

リーンリーン、次の人に渡す。

このようなぐあいで、一糸乱れず、一個ずつ縫い進める。二日がかりで千枚の千人針を仕 上げた。しかし、その後「戦争が激しく、きびしくなるにつれて、千人針がだんだん見ら れなくなった。」という。

日中戦争開戦直後の新聞記事には、女学生が街頭での千人針を手伝う様子が記されてい たが、臨時召集令状の数が膨大になると、千人針の需要も増え、学校単位で、大量生産す ることとなった。しかし、太平洋戦争に突き進むことで、千人針を作ることさえも厳しい 局面をむかえることになる。

第1章第6節「銃後の発見と国防婦人会の活躍」において、婦人会と千人針の関係性に