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第1章 千人針習俗のはじまりと展開

第4節 満州事変の頃

日露戦争開戦の明治 37 年(1904)から27 年後の昭和 6年(1931)9月 18日に、満州 事変が勃発。昭和7年(1932)2 月 18 日に一応の停戦を迎える。これは陸軍が主導で行 ったとされ、同年 1 月 28 日に起こった(第一次)上海事変は日本海軍が主導で行ったと される。

事例14)昭和6年(1931)11月19日付『朝日新聞』朝刊7面「弾丸除けの腹巻」

【新潟電話】弾丸除けには五黄寅年生れの千人の処女の手で縫われた腹巻がよいから と新潟市立女子工芸学校へ盛んに頼みに来るので同校では県立、市立の各女学校に応 援を求め一週間以内に同市出身兵士七十九名全部に千人縫の腹巻を贈る事になり十八 日森教諭が市役所へ送付方を申出た(下線筆者)

「五黄寅年生れの千人の処女」とは、具体的には大正3年(1914)生まれで、昭和6年(1931)

の段階で、満 17 歳を迎える女性のことである。「五黄寅年」の女性は、「性質寛仁で、運 気が強い」(1)とされることから、この後、「五黄寅年」にあやかるとされたようである。

管見の範囲においては、この新聞記事は「五黄の寅」の事例の初出である。この「五黄寅 年」とは、九星暦に基づく用語である。

事例15)昭和6年(1931)11月27日付『朝日新聞』朝刊11面「列車中で胴巻」

【千葉電話】二十六日の昼房総線の列車中でサラシをだした五六人の女学生「満州の 兵隊さんに贈る弾丸除けの胴巻です一針縫って下さい」と持まわると忽ちいくつも胴 巻が出来上がった、女学生は千葉市の学校に通っているものらしい(下線筆者)

事例16)昭和6年(1931)12月2日付『読売新聞』夕刊2面

「雷門に四少女 「千本針」の願ひ 巷に満つる後援の真心」

一日朝から雷門に現れて満州軍の弾丸よけの腹巻をつくるため白木綿に千人針の願 い、行人の足を止めて誰かれが一針づつ刺してゆく(下線筆者)

事例17)昭和6年(1931)12月10日付『朝日新聞』朝刊3面「銃後の者」

(前略)この寒空に夜のふくるのも忘れ、ひたすら民族的衝動に駆られて奔走する一 群の可憐な少女達を自分は見た。彼女等の手にしているのは一枚のフランネル、その 行人に求むるところは、二つ欠けるも一つ増すも許されぬ一千回の縫針だという。昔 から千人の女が縫った腹巻は弾丸除けに不思議な効目があるといわれます。(中略)

然し今も昔も弾丸は物理的法則に従って飛来すると同様に、迷信も日露戦役の時代と 同一の迫力を以て昭和人の精神を支配しているかも知れない。ただ我々は、千本針の 腹巻をかけていたにもかかわらず、鉄甲を与えられなかったために殺られたという戦 死者の遺骨がとどくのを、きょうきょうとして恐れるのである。(下線筆者)

(1)『国際写真情報特輯号 満州大事変画報』国際情報社、昭和7年。

昭和6年(1931)までのこれらの事例で分かるように、満州事変に入ってからの新聞記事 の千人針習俗に対する姿勢は好意的なものである。地域としては、新潟、千葉、東京と各 地に広がっており、名称も千人縫・千本針・千人針と様々である。

『国際写真情報特輯号 満州大事変画報』(国際情報社、昭和 7 年 1 月)にも「千本針 弾丸除け腹巻」が登場する。

事例 18)厳寒に苦闘する在満の我が戦死の為めに谷中真島町青年団では昔からその

利益を伝へられてゐる、千本針弾丸除け腹巻三百枚を慰問として贈ることとなり、廿 三日午前十時から上野松坂屋北側入口に団員多数出張つて買物に出入りする婦人客或 は通行の婦人達に一針の運びを懇望した。頼まれる婦人令嬢達も、お国の為めに奮闘 する派遣軍に心からなる奉仕として悦んで混雑の中に針を運んで行く・・・一針の運 びにも一目の糸にも真心こめた此の情景こそ涙ぐましいものである。同青年団では午 後から日暮里諏訪神社で祈願式を挙行し、直ちに是等の腹巻を満州へ送る筈である。(1)

(下線筆者)

昭和7年(1932)2月『アサヒグラフ 昭和7年2月5日 臨時増刊 満州事変写真全 輯』(朝日新聞社)の「国民の熱誠」というページの「千人針」という項目に「高岡市に て」「呉市にて」「東京市にて」「岡山市にて 広島県増川高女生たち」「奈良県御所高女 生たち」と説明のある写真が6点掲載されていることから、すでにこの時にはかなり全国 的な流行を見せていることが分かる。

事例19)昭和7年(1932)2月29日付『朝日新聞』朝刊3面「千人針の追撃」

浅草仲見世の二百メートルは針と糸とのざんごう地帯。戦地の兵隊さんに贈る弾丸除 けの胴衣を縫うため文字通り一騎当千の群ーーー千人針が参詣の女群を追撃する、参 詣人はこの渦巻に巻こまれて老も若きも女性のすべては針を握ってたん念に縫継いで 行く「そう、お父さんの腹巻-感心ねえ」と始めのうちは糸切歯で無器用に糸をかん でいたモガも、一人に二へんとして百からのざんごうだと都合で二百ぺんからの歯痛 ではたまらぬと計り駆足で観音堂内に逃避すれば、その先にも又伏兵(?)だ、今市 内では大通りや駅前で夜おそくまでこうした千人針の風景が見うけられる。(下線筆 者)

日露戦争での『風俗画報』の口絵の例同様ここでも浅草仲見世が千人針習俗のメッカであ り、ここでは結んだ糸を糸切り歯で切っていたことが分かる(後に千人針の糸はハサミで 切ってはならないと説明される)。

事例20)昭和7年(1932)3月10日付『読売新聞』朝刊7面

「京阪の戦時異変 支那趣味の没落 ニセ廃兵と千人針利用のスリ横行」

更に嘆かわしい現象は最近日毎に増した千人針の人込を利用して真心を込めて縫う婦 人達からスリを働く悪漢の激増した事で市内に毎日廿数件に及んでいる、街頭には婦 人の「千人針」に対して男子の「千人力」「千人忠」「千人大」などの進出目覚ましく これは一枚の紙上に墨で力、忠、大などの字を千人の男子に書いて貰い之を肌身に付 けて居れば千人の力と忠を一身に集めるので一人で千人の敵に匹敵し得るとの趣向だ がこの所千人針戦線も紅白とりどりの賑かさで何れも軍国ならでは見られぬ面白い光 景を現出している。(下線筆者)

ここでは女性による千人針だけでなく、男性が力という字を書く形式の千人力・千人忠・

千人大という男性版の千人針も登場している。

つづいて『軍国と新女性』と題して、「学窓を出る女学生座談会」の内容が連載されて おり、その中で千人針について触れている。

事例21)昭和7年(1932)3月10日付『読売新聞』夕刊2面

手島 (中略)また私としてしましたことは、お隣の方の御親戚に当る方がやはり満 州へいらつしやるとふうことで、一針でもいゝから千人針を縫てくれといていらしま したから、私、沢山縫てあげようと思まして、学校へ持つて行つたりして四百針ぐら ゐ縫ひました。

中村 私たちの学校では、お金を寄付いたしました。それから裁縫学校、これは私ど ものお姉さまのやうになつてゐる学校ですから、千人針をよく頼みにいらつしやいま す。それで大抵一日一枚ぐらいぐらゐづゝは、クラスを返して拵へることになつてを ります。(中略)

高橋 私の学校でもお金を送りました。また生徒たちで手紙を書いて、慰問のために 送つたことがあります。それに街頭で、千人針を頼まれて縫ひますし…。私たち五年 生は、五黄の寅年が多いといつて持ち込まれますので、お遊びの時間は千人針を縫ふ のが仕事のやうですが、皆もう我れも我れもと、我れ先きに一針でも余計に縫つてあ げようといふ気持ちで、これは私たちとして嬉しひと思ひます。私たちのために働い て下さる兵隊さんのために、私たち女学生としては、これくらゐのことはもちろんす るのが当然のことだと思ひます。(中略)

高木 私どもの学校では寄付金の箱を出しまして、一週間ばかり私たちのお小遣ひを 割いて、それをためて陸軍省へ送りました。千人針も方々から頼まれましたんで、学 校へ持つて行つて毎日々々、千人針が第一だか学校が第一だかわからんほどしてをり ます。道を歩いてゐても頼まれるなど、ほんたういへば面倒くさくなりますけれども、

やつぱり日本のために働いて下さる兵隊さんのためだからと思ふと縫はずにはゐられ ない気になります。(下線筆者)

当時の女学校は、5年制であり、昭和7年(1932)の5年生は、大正 3年(1914)生まれ の女性である。短時間に千人針を仕上げるには、女学校は特に重宝されたことが分かるし、

「五黄の寅年」生まれの女性の力が頼りにされていたようである。

次に紹介するのは、新聞に掲載されたカルピスの広告記事の一部である。