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太平洋戦争での千人針

第2章 千人針の全国的展開とその終焉

第6節 太平洋戦争での千人針

山中恒は、『暮らしの中の太平洋戦争』(岩波新書(新赤版)、平成元年(1989))の中 で、千人針習俗の終焉について触れている。

昭和 16 年(1941)に回覧された二つの文書を取り上げ、千人針を街頭で行うことが禁 止され、出征の見送りにも制限が加えられたことを紹介している。

事例80)「昭和十六年八月常会周知事項」

千人針一時停止ニ関スル件 今般上司ヨリノ通牒ニ依リ街頭ニ於テ千人針ヲ作製ス ル事ヲ一時停止サレマシタノデ当分ノ間作製セシメザル様周知方御配慮下サイ」

事例81)「昭和十六年八月常会周知事項

一、見送旗ヲ樹テ又ハ花輪等ヲ軒頭ニ飾ル事ハ一切禁止ス

二、小旗ヲ振リテ行列シ爆竹、提灯、楽隊ヲ以テスル等「御祭騒ギ」ハ一切禁止ス 三、応召者ニ「日の丸」ヲ携行サセ又ハ徽章等ヲ付サセヌコト(以下略、筆者)」

前者は、街頭での千人針禁止の通達であり、後者は出征兵士の見送りについての制限につ いて回覧である。この二つの文書から出征を隠す為に出された通達であったと説明してい る。

また筆者が入手した宮城県仙台市での「隣組回覧用紙」と記された書類には、「昭和拾 六年七月卅日」の日付があり、「二、従来学校停車場デパート前及道路ニ於テ千人針ノ縫 製ヲ他人ニ依頼スル慣習アリマシタガ右ハ防諜上将来之ヲ廃止セシメラレ度旨其筋ヨリ注 意ガアリマシタカラ御達シ致シマス」というように目立つ場所での千人針の縫製が禁止さ れることが常会で伝えられることが予告されている。(1)

また昭和館が所蔵する文書には、伊保村(兵庫県印南郡)の村長名で、「四、千人針ハ 繁華街、百貨店、停車場、劇場等ヲ避ケ成可、学校・工場等ニ於テナスコト」とし、「以 上ハ昭和十六年十二月二十日以降入除者厳守スルコト」と指示がある。昭和12年(1937)8 月当初は、防諜の為、厳格に千人針の人前での縫製を禁止しようとしたが、実際にはなか なかうまくいかず、最低限の禁止になっていた(2)

研究史で取りあげたように岩田重則は、山中恒の研究を踏まえ、次のように断定してい る(3)

十五年戦争の終わり近くには、召集があまりにも日常的になったためであろうか、

あるいは、本土爆撃が日常茶飯事になり、出征者のみならず「銃後」の人々の生命さ えも危うくなったためであろうか、いずれにせよ、千人針は消滅したのである。

しかし、実際には消滅はしていなかった。そのことを以下に論じていきたい。

まず、日中戦争の開戦以降、どのような頻度で新聞記事に千人針が取りあげられたかを 見る目安として新聞記事検索を利用する。朝日新聞と読売新聞では、CD-ROM により検 索が可能であるが、千人針をキーワードにして検索すると次の結果が表2-1「朝日新聞と 読売新聞の記事数」である。

2-4 朝日新聞と読売新聞の記事数

年 昭和12 昭和13 昭和14 昭和15 昭和16 昭和17 昭和18 昭和19

1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944

朝日新聞 80 18 6 5 3 2 2 0

読売新聞 41 13 4 2 3 2 4 2

朝日新聞では、12年(1937)10月が28件と最も多く取りあげ、読売新聞では12年11 月が最も多くなっている。年間の記事総数が12年に朝日80件、読売41件、13年に朝日18 件、読売13件であるのに対して、14年には朝日 6件、読売4件と一気に少なくなってお り、新聞に千人針が取りあげられた記事が最も多いのははじめの2年間であったことが分 かる。このことは後述するように千人針が行われなくなったのではなく、新聞が千人針を 取り上げるニュース性がなくなるほど日常化したと解釈できよう。

太平洋戦争以降、千人針が実際に作られたのかを確認してみたい。一つは、昭和館が所 蔵する千人針に関する聞き取りから類推することであろう。この表2-2「日中戦争以降の 昭和館所蔵の千人針の件数(応召年)」に見られるように、昭和16年(1941)以降も千人 針は贈られており、むしろ18年(1943)が最多であることが分かる。

2-5 日中戦争以降の昭和館所蔵の千人針の件数(応召年)

年 12 13 14 15 16 17 18 19 20 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945

数 11 4 9 3 7 10 13 4 2

もう一つは、次節で紹介する宮崎神宮の神社日誌に見られる千人針祓の件数から千人針 の作製が昭和20年まで継続されていることが分かる。

千人針が消滅したのではなく街頭の千人針風景が見られなくなっただけであった。しか し千人針が準備しにくい社会状況になっていたことは事実で、時代は物資不足となり、政 府は昭和 17 年(1942)1 月「物資統制令」にもとづいて「繊維製品配給消費統制規則」

を公布し、原料糸を除く繊維製品について全面的、総合的な配給消費の統制をおこなうこ ととなった。衣類や布、糸などが配給となると、千人針の材料も入手しにくくなり、千人 針も準備しづらくなっていた。旗屋で千人針を作る仕事を行っていた宮崎市の女性(大正 10年7月10日生)からの聞き取りによると、「布が配給になったので、片岡さん(旗屋)

に買い込んでいた布が無くなるまで続けたが、それが何年までだったかは覚えていない。

昭和 17 年頃からは、千人針を持たせるにも余裕が無くなっていた。仕事を辞めた後、片 岡さんに千人針を買いに行ったが、「今ないのよ」と言われて入手できなかった。」とい う。(第4章第4節聞き取り①参照)

(1)南博編『近代庶民生活誌 第4巻 流言』三一書房、昭和59年(1984)、pp.183-184。

グラフ2-1 宮崎神宮「神社日誌」にみる千人針祓の月別祈願数(件数)

日中戦争期には、千人針の賛否についての議論も行われたが、しばらくすると千人針は 当然のものとして定着していった。昭和 16 年以降、憲兵による流言飛語の取り締まりが 行われたが、基本的に千人針は俗信ではあるが取り締まりの対象とはならなかったらしく、

流言飛語の取締の事例には取りあげられていない。ただし、千人針に付随する迷信が災い して取り締まられた例がある(1)

事例82) 昭和19年12月15日「十月中ニ於ケル造言飛語」

9月30日、上磯郡上磯町字本町52、上磯町々内会長所得調査要員、呉服商、

八月二日自席ニ於テ妻ヨリ聞知セリ内容ヲ同月七日午前七時頃町内会ノ入営兵壮 行会ニ出席佐藤良作外十数名ニ対シ流布ス、

上磯ノ八幡様ガ人間ノ身代リニナツテ戦地ニ行ツテオ帰リニナツタトカデ梓ノ木 ノ裂ケ目カラ血綿ノ様ナモノガ出テ繃帯シナケレバナラナイト或ルオ婆サンガ御告 ゲシタト言ツテ千人針ヲ巻イテオサイセンガ上ツテキタノヲ警察官ガ持ツテ行ツタ ソウダガ大シタオ詣リノ人デアツタ云々

函館地方一帯ニ相当広範囲ニ流布セラレ老年婦人層ノ一部ヲ動揺セシメタリ所轄 署ニ於テ検挙科料三円、斯ノ種言動ヲ流布シ科料処分セラレタルモノ他ニ十二件ヲ 算シアリ

神様の出征の要素が加わったために、取り締まられたのであろう。昭和 19 年頃は、戦陣 訓などの影響で、出征兵士から千人針を受け取ることを拒否されたりしたという。

千人針の最大のジレンマは、特攻兵への千人針であろう。この攻撃を出征を見送る残さ れた女性たちは知ることはなく、弾除けのお守りとして贈ることになる。靖国神社に遺さ

0 50 100 150 200 250 300

127 1210 131 134 137 1310 141 144 147 1410 151 154 157 1510 161 164 167 1610 171 174 177 1710 181 184 187 1810 191 194 197 1910 201 204 207

(1)『英霊の言乃葉 社頭掲示集第五輯』靖国神社社務所、平成11年(1999)、pp.57-58。

(2)『海に消えた56人 海軍特攻隊・徳島白菊隊』童心社、平成2年(1990)、pp.168-177。

れている遺書に千人針について触れたものがある。(1)「神風特別攻撃隊第一八金剛隊 昭 和二十年一月五日 比島方面にて戦死 愛知県出身 二十三歳」という若者であった。

事例 83) 天の優しい御恵みと思ひますが、本日出撃の予定が、天候不良のため明 日に延期され、おかげで心のこもる千人針が私の手に入りました。

嬉しく身につけ南の決戦場にまゐります。

私は千人針はとてもまにあはないだらうと断念してゐたのですが、いよいよ出撃の 幾時間か前に私の手に入りました。

また好物たくさん、ありがたさで一杯でした。可愛い私の教へ子の練習生にもやり、

一緒に喰べて別れました。

母上様よりの「御守護札」肌身はなさず持つて任務に向つてまゐります。では御礼 まで。

この兵士は、千人針を弾丸除けとしてではなく、母親の思い出として持参して、特攻機に 乗り込んだことが分かる。また一方で千人針を遺して行った兵士もいた。学徒動員で出征 したある青年は、父から「この戦争は負ける。決して特攻に志願するんじゃないぞ」とい う言葉を最後に特攻隊として出撃したという。(2)その遺品を引き取ったときのエピソー ドが紹介してある。

事例 84)遺品のなかの寛治さんの、ほとんど新品のような千人針を見たとき、わた しは思わず言った。

「あら、千人針、持って行かなかったのかしら?」

「ええ、自分が弾丸ですもの。」

靖子さんが言った。

ああ、そうだったのだと、胸をつかれた。何とこたえていいのか、わからなかった。

お守りが、たくさんあった。大阪の有名な、いろいろな神社のお守り。死を決意し ていたから、もう、お守りも不要だったのだろうか。遺品のなかに、千人針やお守り を見つけたときのお母さんの気持ちが、たまらなくかわいそうだった。

千人針という善意に満ちあふれたお守りも戦争末期には、贈る側、贈られる側にとって大 きく意味が違ってしまい、大きなジレンマを抱きながら終戦となったことを記しておきた い。