第1章 千人針習俗のはじまりと展開
第3節 日露戦争後に記された千人結 第1項 千人結の全国的な普及
大正2年(1913)1月に刊行された櫻井忠温著『銃後』には、明治37年(1904)8月に 参加した日露戦争での経験談の中に「千人結び」についての記述がある。(1)
事例 9) 兵隊で千人結びといふものを持つてゐるものが非常に多かつた。動員の前 後に、停車場や町の角の多勢人の集まつてゐるところで、手拭くらゐの大きさの白い 布と針に糸を通してあるものとを出して、「御面倒で御座いますが、お願ひ致ます、」
などと一人づつひとりづつ、糸を通して結目をしてもらつてゐるのを見たことがある。
そうして之れを結ぶのは女に限つてをり、千人の女が結ぶのださうだ。甚だしいのは、
女学校の門などへ持つて行つて、生徒の帰りを待ち受けてゐるものもあつた。此の千 人結びは何にするかと思ふと、弾避けになるのださうである。腹巻にもしたり、服の 裏へも縫い付けたり、襦袢の上へ襷にもしたりしてをつた。この千人結びで可笑しか つたのは、予の連隊で戦死の魁をやつた何某といふ兵が、血まみれになつて担架で担 がれて山から下りて来たとき、この千人結びが担架の外に垂れてゐるのを見て、イヤ 千人結びは危いと、俄かに評判が悪くなつて、誰いふとなしに、コソコソと取つて捨 てたものもあつたやうである。折角女千人が一心を籠めた、弾の中らぬといふ重宝なあた お禁厭が、どこにもこゝにも棄ててあつた。(下線筆者)まじない
多く兵隊が「千人結び」を持っており、停車場や町の角の多勢人の集まっているところで、
手拭くらいの大きさの白い布と針に糸を通してあるものを出して、糸を通して結目をして もらっていた。これを結ぶのは女のみで千人に御願いする。女学校の門などで生徒の帰り を待ち受けているものもあった。千人結びは弾避けで、腹巻にもしたり、服の裏へも縫い 付けたり、襦袢の上へ襷にもしたりした。ある兵士が、血まみれになって担架で担がれて 山から下りて来たとき、この千人結びが担架の外に垂れているのを見て、千人結びは危い と、俄かに評判が悪くなって、コソコソと取って捨てたことがあったという。「腹巻にも したり、服の裏へも縫い付けたり、襦袢の上へ襷にもしたりしてをつた。」とあり、千人 結の形態には、腹巻以外にも服の裏に縫い込んだり襷にしたりするなど幾通りかあったこ とが分かる。
大正元年(1912)10 月刊行の『日露戦役 婦人の力』(松本恒吉著、洛陽堂)に、「戦 死は国家のため」と題して、日露戦争の南山の戦いの後、明治 37 年(1904)6 月、戦場 で亡くなった兵士たちを弔ったある兵士の報告に次のような記述がある。(2)
事例10)戦死者の母・守屋ちう(明治37年6月16日)「戦死は国家のため」
(1)『奇態流行史』半狂堂、大正 11 年(1922)、p.98(『宮武外骨著作集 第 4 巻』河出書房新社、昭 和60年(1985)、p.430)。
斯くて自分は差図して遺物たるべき貴重品を探させて見れば、両親の写真を持つあり、
お守札を身に着くるあり、千人縫ひの腹巻を為したるあり、是等をみるにつけても情 緒寸断する思ひであったが、更に膚に着たる真綿のチョッキを見ては、之亦最愛の母 が一念込めて作り為したるものでないかなぞと考へて、いつしか自分は唯涙にむせぶ のみ(下線筆者)
両親の写真、お守り札とともに、「千人縫ひの腹巻」と「真綿のチョッキ」を肌身に付け た者がいたことが報告されている。ここではじめて「千人縫」という言葉が「千人針」と いう名称に先行して登場する。おそらく千人結という名称以外にも様々な名称があったと 思われるが、記録に登場する言葉としては、この後「千人縫」という名称も取り上げられ るようになる。「結ぶ」から「縫う」にその意味が変化していることはその後の「針」へ の変化を考えると重要な名称であろう。
また、大正11年(1922)の『奇態流行史』に宮武外骨が寄稿している。
事例11)「出征軍人に贈る「千人結び」」(1)
日露戦争中の明治三十七年の秋頃、街路の四ッ辻に老婆又は薄汚い女が立って居て、
行人を呼止め「御面倒ですが、チヨツトこれへ糸を結んで下さい」と云って、手巾位 の布に糸と針を添へて出す事が流行した、これは「千人結び」といって、千人に結ん で貰った雑巾のやうな小切を出征軍人に贈り、軍人がそれを懐中にして居ると敵弾に あたらないといふ愚説が行はれたので、息子や夫の身の上を気支ふ連中がやつた事で ある、千人の念力が籠つて居る物だから、其念力で身体を保護するとの迷信に因つた のであらう、
昭和12年(1937)9月、若井積「随筆 千人針の思ひ出」(『日本婦人』第44号、大日 本婦人会)では、筆者が、明治38年(1905)3月10日の奉天陥落の朝のことを次のよう に記している。
事例12)その時、その軍曹は、ポケットから何か出してくれと頼むようにするので、
探り出してみると、それは方一尺位の布片で、黒木綿糸でブスブスさしてある雑巾よ うのものでした。(中略)近頃「千人針」について、赤糸の結び目にしらみが卵をう むから不衛生だとか、赤糸は血が流れたようにしみるから白糸がいいとかいう議論を 聞きますが、日露戦役当時私の見た「千人針」は此頃のように大きなものでなく雑巾 位の大きさでした。そして一人が一結びしなければならぬというものでもなく、誠意 をこめて一針づつ縫うたところに意義があったもので、その布の大きさとか、縫糸の 色合などは全然関係ないように思われます。(下線筆者)
この若井積という女性が目撃した千人結は、「方一尺位の布片で、黒木綿糸でブスブスさ
(1)早川貞水『早川貞水師講演 教育講談 愛国心 千人針』大江書房、大正 4 年(1915)、pp.2-6。
してある雑巾ようのもの」とあることから約 30 センチ四方の布に黒木綿糸で作られた物 であったという。日露戦争期にも様々な形の千人結が存在したことが分かる。
第2項 千人結から千人針への移行
ここまで日露戦争期に流行した千人結の事例についてみてきたが、この「千人結」とい う言葉が、日中戦争以降「千人針」と呼ばれるようになった。管見の及ぶ限りその初出は 次に紹介する講談本。大正 4 年(1915)5 月刊行の『早川貞水師講演 教育講談 愛国 心 千人針』(早川貞水著、大江書房)に明治 37 年(1904)7 月 4 日、東京の新橋駅の 街頭で腹巻に一針を乞う老婆のエピソードが紹介されている。(1)
事例 13) 明治三十七年の二月、日露の国交 断絶し、宣戦の詔勅下り、それより第一軍の 軍司令官黒木閣下が御出発になり、続いて第 二軍司令官の奥閣下が御出発になり、第三軍 の乃木閣下が五月の二十六日に御出発になり、
総指揮官の大山閣下、参謀総長の児玉閣下が 七月の四日に御出発になり、其の翌日、第四 軍の野津閣下が御出発になりました。
其の七月四日、大山閣下、児玉閣下御出発の 日、新橋の停車場前は、各区の有志が国旗又 は思い思いの旗を立てまして、総指揮官、参 謀総長閣下の御出発を御送りをする。実に全 市振っての奉送、新橋近傍は云うに及ばず、
御通行筋は立錐の地も無く、市民の熱誠、実 に湧くが如くで御座いました。
其の今、大山閣下の御馬車が停車場に 著 き(ママ) まする少し前、年の頃は六十三四になります
る老婆が「おばこ」に髪を結んで、鬢の毛は左右に垂れ、洗いざらした粗末な単物を 著て、心の現はれて居る如何はしい帯を締め、草履だか下駄だか分からないような、
歯の減った薄い下駄を穿き、手には四五尺ばかりの白木綿と針と糸とを持って、汗ビ ッショリ発いて、其の大勢の人込の中を割って、御婦人と見ると『モシモシ』と声を 掛け、美い服装をして総指揮官、参謀総長閣下を御送りしようと云って来て居らるる お御方を呼留める。
『御婆さん、何です?』『あなた、誠にすみませぬで御座いますが、どうか一針縫っ て戴きたいので御座います。私の倅が今度戦地に参るので御座いますが、千人の婦人 が一針づつ縫って下すった腹巻を締めて参りますと、敵の弾丸が中らないと申します
写真1-5 『愛国心千人針』表紙
から、誠にすみませぬが、どうか一針縫って戴きたいので御座います。』
(中略)
二
貴婦人たちは汚ない老婆が側へ寄って来るから、身を少し避けて居たが、出征軍人の 母であると聞いて『そうですか。お前さんの息子さんが戦地へ行きなさるのですか』
『ハイ、独っ子で御座います、戦争のことゆえ死ぬのは仕方が有りませぬが、成ろう ことなら無事に帰って参るように致したいので』『御尤もです。サア縫って上げまし ょう』『どうも有難う御座います。』
『あなたも御縫い下さいまし』『アア縫って上げますヨ』『有難う御座います。・・・
そちらに居らっしゃる束髪の御方、御縫い下さいまし。・・・丸髷の御方・・・夜会 巻きの方・・・花月巻きの御方・・・どうぞ御願い申します。・・・有難う御座いま す。大ハイカラの御方、どうぞ』『アラいやですヨ』。皆さんの御様子が分からない ので、老婆は頻りに 髪 の結ひ方を呼んで、一針づつ縫って戴きたいと頼んで居りまおつむり す。
てんでんに『サア縫って上げますヨ』と言 って、縫って下さる中に、何処の御令嬢だうち か分かりませぬが、女中を連れ、蝙蝠傘を 翳して、紫色の袴を召し、御年の頃は十二 三歳、誠に御容姿の美い、可愛らしい御方い が『御婆ちゃん』と柔しい声を御掛けにな る。『ハイ、ハイ』『お前さんの息子さんが 戦争に御いでになるなら、私も一針縫って 上げますヨ』『有難う存じます、さぞ倅が 喜ぶで御座いましょう』
之を観たる人々、ただ感心をして御嬢様を 見て居る。何れ良い御家庭の御教育を御受 けになった御令嬢だろうが、此の多くの人 の中で、老婆に満足を与えて御やりになる のは感服だ、さすがに日本も人智が進んだ りと、心ある人は喜んで居りました。
其所へ四十格好の立派な服装をした御婦人 が参りました。老婆は其の側に来て『誠に
済みませぬが、あなたも一針縫って下さいまし』。御婦人は、私は此の年齢になるま で、針を持ったことは無いのです、偶に持つと此の間も指を突っついて痛くしました。たま 私の所では糠袋でも何でも皆な三越に頼むのですヨ。此の節は調法です。お金さへ出 せば何でも間に合ひます。私は針を持つことは出来ないのですヨ』。言ふと、傍に居た人が ハゝゝゝと笑つた。其の御婦人は真赤な面をして、人込の中へ姿を隠して御仕舞ひになつ た。(下線筆者)
断った女性を見て、書生が私でもそれくらいは縫えると云って、縫おうとするが、おばあ 図1-3『愛国心千人針』挿絵