第2章 千人針の全国的展開とその終焉
第3節 琉球地方、及び植民地での千人針
ここでは、千人針と琉球地方とのつながりについて検証する。岩田重則は、その点につ いて次のようにして指摘している。
まず千人針の最大の原則は、それを作るのが女たちであったことである。このこと は、ごくあたり前ののように思われ、見過ごされてきたことであるが、この事実の奥 底には、大きな広がりを持つ民俗的意味が隠されているように考えられるのである。
おそらく、それは、薩南諸島、沖縄及び離島のオナリ(姉妹)において、もっとも顕 著にあらわれていると思う。
岩田は、この後、瀬川清子の紹介する事例を引用し、自説を説明している。瀬川の事例は 以下の通りである。
与那国島 姉妹をブナイ、兄をビキという。(中略)千人針もブナイがTくり、病気 には特にブナイに祈願させる。(中略)
徳之島東天城村山部落 ウナイ神は姉妹のうち一人だけで、それが死ねばつぎの妹 がなる。(中略)千人針もウナイが縫いはじめて 虎 年の人に十針も縫わせて、それ(ママ)
からあみんなに縫わせる。必ずオナリが持ってまわる。オナリがいないと妻がするが、
遠方でもオナリに一針縫って貰う。(1)
本土で流行した千人針習俗と南島で見られるオナリ神信仰の関係性はどの様に解釈すれば よいだろうか。町健次郎は、奄美大島でも千人針が盛んだったことを聞き書き調査をもと に次のように報告しているので、要約して紹介する(2)。
大島でも千人針は盛んだった。赤い糸で糸玉を縫い、千人の女性から糸玉をもらうとい うやり方は同じだった。ただ、人口が少ないので、千人から集めるのが大変だった。隣の 集落まで行って、処女団や、親戚、仲間内で回って歩いて、それで何とか千人集めた。中 には「千人いるわけないから、もう、一人で何玉も縫ってもらってもよかったんだ、人間 がいないから仕方なかったんだ」という人もいた。また、寅年の女性は年齢の数だけ縫っ てもよいとされ、戦時中、寅年の女性が大変重宝されていた。さらに4銭9銭を越えて5 銭玉・10 銭玉を縫い込む例も見られた。ただし前述したようなオナリ神信仰との関わり は見られなかったという。
そして、町は次のようにまとめている。
この千人針を完成させるためにあちこち歩いていたのは全て女性ですが、直接的に「ヲ ナリ」だったという話しは全く聞きません。千人針は明らかに外から入ってきたもの
(1)『沖縄大学地域研究所ブックレット2(叢書第9巻) 奄美と沖縄、その同質性と異質性―奄美と 沖縄の協同をめざして― 第1回「をなり神信仰」をめぐって』沖縄大学地域研究所、平成19年、
pp.43-45。
(2)小島瓔禮『琉球学の視角』柏書房、昭和58年、pp.148-150。
(3)読谷村史編集委員会編『読谷村史 第 5 巻資料編 4 戦時記録 上巻』読谷村、平成 14 年
(2002)、p.726。
ですが、地元の文化素地に女の霊力が高いという地域性が、千人針そのものにこう重 なって働いていた可能性もみることもできそうですが、今のところ直接的に先輩の方 々からそういう話を伺えたことはありません。(1)
小島瓔禮もオナリ神との関わりについて『琉球学の視角』では、「兄弟の旅立ちに、姉妹 が手巾や髪の毛を与えて、旅の安全を祈る習慣は、琉球諸島全域に知られていた。ことに、
その観念が、第二次世界大戦のとき、千人針を贈ることと結びついて顕現している。」と 指摘しているが、「それにつけて疑われるのは、島に生活する兄弟にとって、そのヲナリ 神の守護が必要になるのは、どのようなばあいであったかということである。」とし、オ ナリ神を検証し、「古典のオナリ神を見ていても、千人針をもって、それを代表させるこ とには、ためらいを感じるのである。」(2)と千人針とオナリ神の関係性に触れている。
千人針習俗が沖縄や奄美に戦争習俗として流入してきた経緯は次のような経過であった ろう。全国的に婦人会が組織され、沖縄でも愛国婦人会、国防婦人会は結成されており、
こうした婦人会の活動をもとに千人針習俗が伝わったと考えられる。その状況を示すのが 次の事例である。(3)
事例40)「婦人会の役割」安里カメ(喜名・安里)大正3年(1914)生
私は昭和15年(1940)から沖縄戦が始まるまで、喜名の婦人会長をしていました。
昭和16~17年頃の婦人会長の仕事に「千人針」作りがありました。白い布の腹巻き に、武運長久と書かれ、すぐに糸の結び目をつけられるような印を入れたのが役場か ら配られて来ました。出征する兵士の数によって、多いときは四~五枚も来るときが ありました。最初の頃は一枚ぐらいでしたから各家庭を回ったり、時には人が集まる 役場前や郵便局前に立ってたくさんの人に赤い糸の結び目をつけてもらっていまし た。しかし、毎度のことのように連続になってくると家々を回って作ってはとても間 に合わせられなくなってきました。
この千人針は、寅年生まれの人は、自分の数だけつけることができるようになって いましたから、後になると寅年生まれの人を訪ねてやってもらっていました。それで も何度も何度も行くものですから頼むのも気が引けるし、農村ですから夕方になると 豚の餌をやったり、夕食の準備などで忙しい人々を訪ね歩くことも出来なくなり、ほ とんど私とウシーヤマチ(比嘉姓)の大きいおばあさんの二人で作りました。私も寅 年生まれ、おばあさんも寅年生まれだったのです。ほんとならたくさんの人に糸を通 してもらうのが建て前ですが、後からは自分一人で作って、役場に届けたものです。
ですから千人針がくると夜は一人で遅くまでかかって間に合わすこともありました。
(1)森南海子『千人針』情報センター出版局、昭和60年(1985)、p.261。
それを出征する人に贈りに行ったことがありましたが、この千人針の腹巻きと十銭硬 貨を贈りました。その十銭は出征兵士へのお菓子代と言っていました。お金は役場か らの支給だったと思います。千人針には五銭硬貨と十銭硬貨とを縫い付けました。あ の頃の話では腹部に弾が当たったが、運よく腹巻きに縫いつけてあった硬貨に当たり、
命拾いをしたという話しがありました。五銭は死(四)戦を越える、十銭は苦(九)
を越えるという意味だと言っていました。でもこの硬貨を縫い付けるのは、出征する 兵士の妻や家族が縫いつけていたと思います。ですから婦人会から贈るのは糸を通し た腹巻きと十銭硬貨だけでした。
千人針を贈ったのは昭和 16 年(1941)の初め頃まででしょうか、読谷山村からも 出征兵士が比較的少ない時代だったと思います。その頃、新崎秀さんが婦人会幹部を なさっているときでしたが慰問袋を贈ったこともありましたよ。もちろん上からの割 り当だったと思いますが、喜名婦人会で二〇袋ぐらい贈ったと記憶しています。
この千人針も太平洋戦争が始まる頃から毎日たくさんの人々が入隊しましたからい つの間にか無くなっていました。男はみんな兵隊になるという時代になっていました からとても対応できなかったのです。
以上のようにここでの事例では、役場から渡された材料を元に作られ、婦人会が中心にな って作成したことが分かる。沖縄を調査してみると残された千人針の少なさを感じるが、
森南海子もそのことを指摘している。
全島が壊滅状態と化した沖縄ではそのかけらさえ見つけることができなかった。この 地では送る者、送られる者の区別なく攻撃を受け、また自決という名の殺戮が強行さ れていた。私はその烈しい戦いの惨状を残された千人針のないことによって知らねば ならなかった。(1)
筆者は、沖縄における千人針の少なさについては、定着せず、戦後も千人針への関心が高 くなかったので保存されてこなかったのではと考える。先に挙げた瀬川清子が取りあげた オナリ神との習合した事例がどこまで定着していた事例か再検証する必要がある。
沖縄の事例と共通して、婦人会や役場によって伝えられたと考えられるのが植民地にお ける千人針習俗の事例である。昭和 12 年(1937)頃の植民地の千人針習俗についての新 聞記事を地域別に紹介する。
事例41) 昭和12年(1937)7月15日付『大阪朝日新聞(南鮮版)』
「全半島に描く非常事風景 神社参拝に千人針に沸る朝鮮同胞の至誠」
(中略)さらに街頭を見よ・・・そこには至るところに千人針風景が描き出されてい るではないか、京城本町通りをはじめ全鮮主要都市の繁華街には千人針風景が数十数 百描き出されてたのは北支駐屯の皇軍の武運長久を祈る愛国人の発露である、ここに も朝鮮婦人達が自から進んで愛国の熱誠をこめた一針が縫い綴ってゆく(下線筆者)