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明治期のサムハラ信仰

第3章 サムハラ信仰の研究 第1節 研究史

第3節 明治期のサムハラ信仰

江戸時代に見られたサムハラ信仰は、怪我除けを中心に、虫除け、地震除けなどさまざ まな用途で、全国的に行われていたことが分かったが、その後、明治期に入ってからの広 がりについて実証する資料は乏しい。この時期の資料としては、佐藤幸彦が紹介している 日本刀の銘がある。(1)「明治の刀工宮本包則の作品には中心或いは刀身に 抬 の四字 を彫ったものがある。」とし、「彼がさむはら信仰を何によって知ったか判らないが、明 治 19 年(1886)に上京して伊勢神宮御神宝の太刀を受注、靖国神社境内で製作、納入直 後、明治 21 年(1888)に最初のサムハラを切っているので、恐らく江戸期から残ってい たさむはら信仰を東京で見て、取入れたものであろう。」と類推している。以下にその銘 文を紹介しておく。

表3-1 サムハラ文字記載の宮本包則による刀 種 別 銘文

刀 伯 耆 国 大 柿 住 宮 本 能 登 守 菅 原 包 則 抬 明 治 二 十 一 年 十 二 月 吉 祥 日

太 刀 帝室 御刀 工 菅原 包則 七 十四 歳謹 作 之 明治 三 十 六 年八 月 吉 日 抬

短 刀 帝室 御刀 工 喜寿 菅原 包 則 明治 三 十九 年一 月 吉 日 抬 ( 刀 身 彫 刻)

短 刀 八十 二歳 菅 原包 則作 ( 明治 四十 四 作) 抬

刀 帝 室 技 芸 員 宮 本 包 則 八 十 八 謹 作 之 抬 大 正 六 年 八 月 吉 日 斉 藤 氏

次にサムハラ文字が脚光を浴びるのは明治37年(1904)3月4日付の『都新聞』(5頁)

に「不思議の四文字」として紹介されてからである。江戸時代の随筆を数点紹介した後、

玉尾 需 という人物の日清戦争の事例を紹介した。この記事は、その後、種々の質問が寄もとむ せられ、それに対する回答が 3 月 7 日付『都新聞』(3 頁)に読みが不明であることが説 明されている。その後、明治37年(1904)3月 18日付の『神戸新聞』(4頁)では、「

抬 の字義に就て」と題して、サムハラ文字の読みと意味について「護身の効ありと伝 ふ 抬 の字義に就て大槻如電翁の語る所如左 此護符はサムハラと申します 梵語で インドの古語でせう 此四文字は寄字でサムハラの意を顕した者です」と解説を加えてい る。ここではすでに「サムハラ」という読みを当てている。

玉尾需の事例は、その後、『滑稽新聞』にも「滑稽迷信 奇なる護身札」と題して取り 上げられる(2)

滑稽記者曰く、此奇なる護身札なるものは、智恵海、秘事 枕 、智 術 全書、などち え の う み じ まくら ち じゆつぜんしよ といへる古き本にも記されてあるが、此度征露戦地の某艦乗組軍人より左の寄書あき しよ りたり

前橋旧藩士玉尾需翁は、這般の征露戦に際し、報国の一にもとて、左の如き護身札しやはん ま も り ふ だ をば数十万枚、出征軍隊に寄贈された。

(1)松田定象『神道真言妙術秘法大全』高島易断所本部神宮館、昭和 8 年(1933)6 版、大正 6

(1917)初版、pp.127-128。

(2) 柳田国男『山島民譚集』甲寅叢書研究所、大正3年(1914)。

(3) 『靖国神社遊就館 図録』靖国神社、平成20年(2008)。

(4) 岩田重則「弾丸除け祈願としての「 」」『戦死者霊魂のゆくえ―戦争と民俗―』、吉川弘 文館、平成15年(2003)、pp.154-158。

(5) 大森禅戒「梵字・梵語の話(第三講)」『大法輪』第2巻第4号、大法輪閣、昭和10年(1935)4 月、pp.70-74。

数十万枚配られたこのお札には説明文がついていたという。前半には、江戸期の随筆の例 が挙げられ、それに続けて次のような記述がある。

明治二十七八年の役に、予が三男北澤友彦従軍せる故、予写して帽内に貼付け遣 はせしに、七度戦場に臨みて、身微傷だも受けざりき、七里口の戦の如きは、敵丸 背後に落ちて身恙なかりき、其友多田某、三男の此字を自写して、帽内に貼付けた りしが、敵丸帽を貫きたるに、頭は微傷だも受けざりき、

是等は予が実験する所なるを以て、今回の役にも、我が忠勇義烈なる兵士の身に微 傷をも受けずして、十分の奮戦を遂げ、皇威を世界に赫かし、英名を後世に轟かし 給はんことを希望するの余りに、謹で此四字を呈す、必ず之を帽内に収め給はん事 を請う。

七十九翁 玉尾需拝白たまおもとむ

この玉尾需の事例は、後に田中富三郎の活動の根拠の一つとなり、松田定象著『神道真言 妙術秘法大全』(1)という易学の書にも記されることとなる。

また、柳田国男も、「兎ニ角ニ是ガ百年前ノ稀有ノ出来事ニハ非ズシテ、現ニ日露戦争 ノ際ニモ、右ノ雉ノ守札ヲ身ニ帯ビテ出陣セシ勇士多カリシコトハ事実ナリ。」(2)とサム ハラの守札について触れている。

サムハラが記された千人針として現在実物を見ることができる最も古いと思われる物 は、遊就館所蔵の千人針である。遊就館の展示図録(3)には、昭和 7年(1932)2月21日 に戦死した高橋祥太郎という人物のサムハラと記された千人針が紹介されている。

岩田重則によると静岡県三島市小沢の竜爪神社所蔵の「竜爪山祭典帳」の昭和こ ざわ 7年(1932)

2 月に「昭和七年二月 前島家ニテ出事ニ致しました 弾丸除」としてサムハラ文字の木 版が押されているという。(4)

日中戦争以前に、サムハラについて触れた資料としては、駒澤大学学長である大森禅戒 が昭和10年に「梵字・梵語の話(第 3 講)」(『大法輪』第 2巻第 4号)に(5)「不思議の 四文字」と題してまとめている。

「日清日露の戦争や、欧州大戦の折の青島攻撃の際、更に近くは満州事変等に多数の出征 兵士が、丸除けの守符としてこの四文字を所持したということであり、某将軍の如きは、たま おまもり 千人針の襦袢にくまなく、この四文字を書き込んで身につけて出征したということであ

る。」と記し、満州事変や日支事変の守符の例を挙げている。また、「日支事変に於て、

不思議な功徳を現わしたというところより、それ以来この四文字は、益々民間に信仰され るようになり、遂に全国の各駅にては、鉄道事故防止の為、各従業員に所持させるところ まで行った。然るに不思議にも、災禍を免れたものが少なくなかったというので、更に消 防署員、自動車運転手、船員、飛行家等も、万年筆や携帯品に、この字を彫りつけるよう になり、女の人も、 簪 に彫って所持するようになった。」と記し、更に後述する田中富かんざし 三郎についても触れている。

「大阪の田中富三郎という万年筆業を営む人は、大いにこの功徳を有難がり、楠公婦人菩 提所たる楠妣庵で祈禱をして、この四文字を彫った万年筆を、日支事変に出征した将卒諸 氏に贈り、そればかりでなく、ギャングよけとして、政財界の諸名士にも贈呈したところ が、陸軍恤兵部や、宇垣、荒木、床次、山岡、内田(信也)等の諸氏より、礼状を受けた ということである。そして、今日に於ては、この四文字の信者からなる信光会という会が 組織され、大鉄沿線汐の宮に、その聖殿と一千余坪の村を建設するというほどの勢いとな ったのである。」とその時代の状況を書き留めている。この田中なる人物は、サムハラ信 仰を全国区にした重要な存在であり、次に詳しく述べることとする。