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太平洋戦争後のサムハラ信仰

第3章 サムハラ信仰の研究 第1節 研究史

第6節 太平洋戦争後のサムハラ信仰

戦後のサムハラ信仰については、前述の田中富三郎によるサムハラ神社の再建が重要な 出来事となった。戦後の田中富三郎の活動については次の通りである。

戦後マッカーサー指令により同社殿を再建。創始者 は続いて昭和二四年、大阪の豊国神社の隣接地を購入 し自費で同神社を建立。神前の扉材は伊勢神宮より賜 ったという。三七年には西区立売堀に遷座。現在、岡 山県苫田郡加茂町の神社を奥の宮としている。創始者 が昭和四二年に死去すると、養嗣子の田中好一が宮司 後継者となり現在にいたっている。(1)

サムハラ神社については、現在も活動をしており、松野 純孝『新宗教辞典』(昭和 59 年(1984)、東京堂出版)、国 学院大学日本文化研究所『神道事典』(平成 6 年(1994)、

弘文堂)などに紹介されており、井上順孝他『新宗教事典』

(平成 2 年(1990)、弘文堂)では、神社紹介の他に「法との 摩擦」「創始者・リーダー一覧」の項目でも取り上げられて

いる。また、大島建彦「 抬 神社の現状」(2)では、現在も続く大阪府にあるサムハ ラ神社、その現況について報告している。

サムハラ神社と別にもう一つサムハラのお札を頒布している神社がある。京都府南区に ある鎌達稲荷神社である。この神社は、「元、陰陽師安倍晴明が子孫、安倍・土御門家の 祭祀にして、万生業に福利を授け給う開運の神・倉稲魂大神と、広く人事を良きに導き、

交通安全の神でもある猿田彦大神が主神で、御鎮座地は元、西寺跡である。」とし、「鎌 写真3-9 サムハラ神社

写真3-11 サムハラ神社 写真3-10 サムハラ神社の御守り

(1) 大嶋一人「徴兵よけと弾丸よけの祈願」『昔風と当世風』第 69 号、古々路の会、平成 8

(1996)、p.9。

(2) 三橋國民『鳥の詩 死の島からの生還』日本放送出版協会、平成7年(1995)、pp.96-99。

(3) 田中富三郎の故郷岡山県苫田郡加茂町は、昭和13年(1928)に起こった猟銃惨殺事件の事件の 現場であり、この事件は後に横溝正史「八つ墓村」の題材となった。そのためこの事件と絡めて、論じ る研究者や、これを題材にした小説や記事が多い。

達さま御利益由来には、開運・勝負運を招き奇蹟を生む神さまの霊験ありと敬われ」、サ ムハラ呪符は災難除け、奇蹟を生むお守りとして人気がある。

また、福岡県糸島市には、雷山の中腹に真言宗の千如寺が安産、子育て、開運厄除など の祈願所として知られ、身代わりお守りとして「サムハラ」の木札が人気であるという。

戦時中には、弾丸除けの信仰として人気を集めたサムハラ信仰も平和な時代になり、江 戸時代のようにさまざまなバリエーションでの信仰になりつつある。前にあげた神社のお 札のみならず、自分で書いたサムハラの四文字を自らのお守りとする人もいるようである。

「昭和五五年ごろに御徒町駅のホームの階段で転げ落ちたとき、これを身につけていたお 陰で、眼鏡を壊しただけで大した怪我もしないですんだという。それから、店に来る人に 自身が記した 抬 という紙を配るようになり、近所で知られるようになった」(1)と いう事例もある。

戦後、戦時中を振り返るかたちで記された小説がいくつかある。代表的なものとしては、

飯尾憲士著『 抬 』であろう。飯尾憲士「 抬 」(『すばる』平成 5年 11月1 日 発行)、後に単行本『さむはら』(集英社、平成6年)として刊行されている。

手記としては、次のようなものが記されている。

「サムハラさま」

「私の左隣で砲の計器を忙しげに操作していた東田が、二日まえの戦闘中と全く同 じ口調で、おかしげな呪文を唱え始めた。

「サムハラ、サムハラ、サムハラ、サムハラ、サーマ」

全神経を砲の計測に集中している私たちの砲手は、この呪文が始まると手もとが 危うく狂いそうになってしまうのだ。(中略、筆者)

「てめえ、いまの戦闘中、おらが拝んでいた『サムハラサマ』に、なんで文句をつ けるんだい。おらはな、これでも、みんなの無事を一生懸命お願いしてんのに、バ カ笑いなんかしやがって・・・。」(中略、筆者)

「ハハア・・・。そうか。するってえとおめえは東京で生まれた男だってわけか。

それじゃあ昔っから、おらがのほうに伝わってる『サムハラサマ』のありがたみな んざあ分かるはずねえよなあ。こりゃあお笑いもんだぜ。へへへへへへ・・・」

東田は丹波の山奥の男らしく素朴な口調で言ってのけ、私を憐れむような目つきで 嗤いかえしてきた。」(2)

また、サムハラ様を小説化したものとしては、岩井志麻子の「サムハラ様」などがある。(3)

以上、太平洋戦争後のサムハラ信仰についてみてきた。戦争との関わりは見られなくな ったが、サムハラ信仰は大阪市のサムハラ神社が活動を続けており、その他全国各地にサ

ムハラ信仰を引き継ぐ神社仏閣が存在している。常光徹氏のご教示に因れば、高知県のあ る家の牛小屋にサムハラと記された木札が祀られていたという。サムハラ信仰はさまざま な形で人々の需要に応えていくものと思われ、今後も丹念に調査する必要がある。

小括

以上、江戸時代から現在まで、サムハラ信仰についての資料をある程度俯瞰できるまで に整理し、その信仰実態について考察した。

第1節において、サムハラに関する研究を整理した。第2節において、江戸時代の事例 を時系列に整理し、江戸時代には、怪我除け、虫除け、地震除けなどとして信じられてい たことを確認した。

第3節においては、明治期の事例を確認した。怪我除けとして日本刀にサムハラの文字 を入れる事例が見られた。また、日清戦争において玉尾需という人物が護身札を数十万枚、

出征軍隊に寄贈したことで、新聞に取り上げられる。

第4節において、田中富三郎という人物が、万年筆業にサムハラ文字を利用し、その活 動は宗教活動に引き継がれたことを特高警察の資料で明らかにした。現在のサムハラ神社 につながっている。

第5節においては、仁丹の広告による影響を指摘し、千人針に利用されたサムハラ文字 を紹介した。

第7節においては、サムハラ神社の現在、その他、寺社で配布されるサムハラのお守り など、サムハラ信仰の現在について述べた。

本論文では、千人針習俗を戦時下の弾丸除け信仰の中に位置づけているが、弾丸除け信 仰は多様であり、千人針習俗と深く結びついた信仰の一つとして、サムハラ信仰を取り上 げた。

千人針習俗が明治期の戦争の開始とともに始まったことと対比すると、サムハラ信仰は 江戸時代からあった怪我除けの信仰が戦争の開始とともにその目的が変化した事例の一つ ととらえられる。

こうした戦時下の全国的な弾丸除けの流行とは別に、牛の怪我除けや戦後の交通安全の お守りとして、地域に根ざした習俗化も見られ、そうした事例を収集することが今後の課 題といえよう。