第1章 千人針習俗のはじまりと展開
第5節 日露戦争・満州事変の千人針習俗の特徴
ここまで紹介してきた事例1~29を項目ごとに整理したのが、表1-1「日露戦争・満州 事変の千人針習俗に関する事例分析」である。以下、「年代・地域」「名称」「依頼者」「被 依頼者」「糸色・布・用途」「理解・評価」の6項目に分けて分析を加えていくこととす る。
1、年代・地域
日露戦争期には、明治 37年(1904)4月頃に関西方面で流行し、同年6・7月頃には関 東でも流行するようになった。その他、神戸・広島・徳島などで行われていた。その後、
日露戦争を回想する形で、千人結・千人縫などの事例が紹介されるが、次に事例として現 れるのが、満州事変、それに続く上海事変の時期である。満州事変期には、昭和6年(1931)11
・12月頃に新潟・千葉・東京の記事が見られ、昭和7年(1932)2月頃には、高岡市・呉 市・東京市・岡山市・奈良県の例もあり広範な地域に広がっていた。
2、名称
名称について、日露戦争から満州事変において記録に表れる呼称を古いものから 順に みてみると、おおよそ「千人力」「千人結」「千人縫」「千人針」という推移が見て取れる。
事例3の明治37年4月29日付『都新聞』の「千人力」の記事には、「『千人力』といふ 唄」ができるほど大流行したとあり、「千人力」という呼称がある程度の知名度を獲得し ていたと考えられよう。「千人力」という名称については、大江志乃夫が日露戦争期の徳 島県の事例を報告している(1)。明治 37 年 5 月 20日付『滑稽新聞』の「千人結」の記事 との時期が近いことから、二つの名称が併存していた可能性は高いと考えられよう。
「千人力」という名称について検討する。千人力には、『広辞苑』によると「千人分の 力」と「千人の助力を得た程の強いたよりになる力」の二つの意味がある。ここに弾丸除 けのお守りとしての固有名詞の「千人力」が加わると、文脈上、どの意味かを判別するの が困難となる。そのために、新聞や雑誌などでは「千人結」が選択されたと考えられない だろうか。
「千人結」の名称については、日露戦争期代の千人針習俗では、針と糸で縫う形態と平 行して、靖國神社の事例(写真 1-2・3・4)のように針と糸で糸玉を作るのではなく、あ らかじめ切りそろえられた複数の糸の束を手で結ぶ形態がある。「千人結」という名称は、
その結ぶという行為から「千人力」の別称として使われるようになったという可能性を指 摘しておく。
日露戦争期に『滑稽新聞』『風俗画報』において「千人結」、さらに大正 2 年(1913)1 月刊行の櫻井忠温著『銃後』に「千人結び」として紹介され、こうした出版物を元に日露 戦争期の習俗が「千人結」として定着することとなる。
ちなみに「千人針」に先行して登場する「千人縫」という名称は、事例10・14・26・27
(1)高崎正秀「千人針古意(上)」『皇国時報』、皇国時報発行所、昭和12年9月。
(2)下中彌三郎編『大百科事典』平凡社、昭和8年(1933)。
(3)中山太郎編『日本民俗学辞典』梧桐書院、昭和8年(1933)。
(4)冨山房国民百科大辞典編纂部編『国民百科大辞典』冨山房、昭和10年(1935)。
・29 の6例が見られ、千人針とともに日中戦争においても多く聞かれる。「千人結び」と
「千人針」を「縫う」という行為がその二つをつないでいると言えよう
本稿で取り上げた文献には主に「千人結」「千人縫」「千本針」「千人針」の名称しか現 れていないが、実際には地域的なバリエーションがあったようである。高崎正秀が次のよ うに紹介している。
上海事変当時、出征中の第三師団管下に奉職時の調査。尾張から美濃にかけて「千結 び」、伊勢の松坂で「千人結び」、新潟で「千人針」、東北地方では「千縫い」「千人 縫い」という報告があった。(1)
昭和7年1月~3月に起こった上海事変当時には、愛知県から岐阜県にかけて「千結び」、
三重県で「千人結び」、新潟県で「千人針」、東北地方では「千縫い」「千人縫い」という 地域的バリエーションがあったことが分かる。こうした地域的なバリエーションがある一 方で、千人針習俗を総称する名称が選択され、定着していく。そのあたりを事典・辞典か ら見ていくこととする。満州事変後の昭和8年(1933)2月に刊行された『大百科事典』
(平凡社)(2)には、藤沢衛彦が解説を次のように書いている。
帛を一針づつ千人の手して結び縫えるものを身に纏えば弾丸を避くるという迷信。(中 略)世界大戦の頃一しきり流行し、昭和七年満州事変後、殊に上海事変当時盛んに各 所に行はるるを見た。
とあり、まだ「千人針」の記載はなく、「千人結」という言葉で、すでに当時流行してい たことが分かる。昭和 8 年(1933)11 月刊行の中山太郎による『日本民俗学辞典』(3)に は、
千人結び 日露戦争中『千人結び』と云ふが流行し、千人に結んで貰った小切を出征 軍人に贈り、それを懐中して居ると敵弾に中らぬと云ふのであった(奇態流行史)。
近くは千人針とて千人に縫って貰ふことが、同じ意味で流行した。
とあり、この時期に「千人結び」から「千人針」という習俗に変わったことが指摘され、
中山は一応「同じ意味で流行した」と、慎重な姿勢を見せている。昭和 10 年(1935)9 月に刊行された『国民百科大辞典』(冨山房)(4)には、「千人結」と「千人針」の両方の 項目があり、「千人結」にのみ次のような説明が記されている。
千人結 日露役中行ハレ、千人ノ女性ニ小切ヲ結ンデ貰ヒ出征軍人ニ贈リ、之ヲ肌ニ
(1)江馬務「千人針のおこり」『風俗研究』143号、風俗研究所、昭和7年(1932)4月1日。
ツケル者ハ敵弾ニ中ラヌトイフ。近ク満州事変ニハ千人針盛行、之モ恰モ雑巾ノ如ク 布ヲ千人ノ女性ニ一針宛縫ッテ貰ヒ、前ト同ジ力ヲ信ジタ。
ここでも「千人結」が日露戦争期に行われ、同様の「千人針」が満州事変で流行したとあ る。以上のように最終的には日露戦争の「千人結」、満州事変以降の「千人針」へと名称 が集約されていったと考えられる。
3、依頼者
事例 1・3 での依頼者が男性兵士である例が重要であろう。弾丸除け祈願のお守りと考 えれば、特に依頼者が女性に限定される必要は無かったと理解できよう。その後、千人針 習俗が女性の準備するものとして認知されるようになって、依頼するのも女性に集約され て行ったと考えられよう。
4、被依頼者
日露戦争期から依頼されるのは女性のみである。しかし、女性の中でも限定的な条件が 付いている事例がある。そこには、条件を厳しくするという方向性と条件を緩くするとい う方向性の2種類がある。
A:条件を厳しくする。
作製過程の条件を厳しくすることで、千人針習俗による祈願が達成した場合の弾丸除け の効果を大きくする。事例 7「例の寅年生れの四十歳以下の女千人」で、寅年という条件 が付けられるが、この段階で「五黄の寅年」の事例はなく、満州事変の事例 14「五黄寅 年生れの千人の処女」からであることが分かる。また、江馬務は「五黄の寅は強いので、
今年は十九歳の女に縫つてもらうのが一番よいといはれ、しかも月経のある時が精がつい てゐる意味から特によいといはれてゐます」(1)と記しており、千人針習俗の効力を増す ためにある程度高いハードルを課しているといえよう。
B:条件を緩くする
千人分の糸玉を集める作業を容易にするために、ある条件の女性であれば複数の糸玉を 縫えるというように条件を緩くする。事例 27)「虎年の方は『私ハ十九ヨ』と縫う針の数 とりが大変」という事例のみで、この時期の資料には日中戦争以降のように寅年の女性は 年の数だけ縫えるという表現は見られない。
ここで「五黄の寅」という言葉について検討してみる。「五黄」は九星の暦の一つで、
九紫・八白・七赤・六白・五黄・四緑・三碧・二黒・一白と毎年順に付けられているもの で、数字の特徴であるいわゆる魔方陣を利用した暦で、基本的には 9 と 12 の最小公倍数 で、36年に1度回ってくるものである。
九星の暦については、明治 15年 11月26 日付『大阪朝日新聞』の新聞広告で『九星日 取便覧』(1 冊4銭)、『九星日課一覧』(1冊3 銭)が紹介され、民間には普及していたこ とが分かる。こうした暦はいわゆる「お化け暦」として普及した。「五黄の寅」という言
葉は一部の間では浸透していたと考えられる。五黄の女性は運気が強いとされ、その運に あやかるという意味がある。
なお、大正3年(1914)生まれの戸塚静枝さん(東京都中央区人形町)に聞いた話では、
「五黄の寅年」だから縫ったのではなく、厄年だったので縫ったとの説明があった。確か に大正3年(1914)生まれの女性は、昭和 6年(1931)の段階で、数えで 18歳を迎え、
前厄にあたっていた。厄払いとして、この年齢の女学生が積極的に千人針を年齢分だけ縫 うことを厭わなかった理由の一つであろう。
さらに事例 21 の女学生の対談を参考にしても、女学校へ千人針を依頼することが増え てくる。普通の女学生がかかれば千人必要なところを、「五黄の寅年」の女学生がかかれ ば18分の1の手間ですむことになる。こうした作製の簡略化のための条件は、事例27の ように寅年だけでなく、辰年も年齢分だけ縫ってもかまわないなどのように、日中戦争以 降さまざまな事例が聞かれるようになる。「五黄の寅年」という条件を短期間に多数見つ けるのに効果的なのは女学校であったことは容易に考えられ、「五黄の寅年」の俗信と女 学校の関係は今後検討すべき課題であろう。
日中戦争以降は寅年の理由として別の説明がなされるようになる。例えば、昭和 12 年
(1937)7月17日付『読売新聞』には、
また最近は五黄の寅の女の一針は、特に運が強いとか、普通は一針が原則だが、この歳の女は 三十針でも差支ないなどと云っていますが、これは虎は千里行って千里帰るの云いならわしを、
千人針に当嵌めたもので、深い根拠は勿論ありません
とあり、「虎は千里行って千里帰る」の説明の事例は、満州事変・上海事変までは見られず、「五黄の 寅」という事例が先行しているが、こうしたメディアなどによる再解釈や意味づけにより新しい俗信 が生まれたと考えられよう。
5、場所
千人結を行っている場所を見ていくと、屋外は事例 1・2・3・6・7・8・9・11・13、学
校は事例 4、家は事例 5と、街頭が中心であることが分かる。日露戦争期の段階から屋外
の人通りの多いところで行うことから始まっており、例えば地域の神社仏閣など地域の合 力祈願がよく行われているような場所で始まったものでないことが分かる。つまり、千人 針習俗の始まりの段階から信仰的な意味合いは薄かったことが指摘できよう。もし、地域 的な共同祈願をその発生の母体と想定すれば、千人結の場は宗教的な施設が選ばれるので はないか。
6、糸・布・俗信の付与
糸の色については、最も多いのが赤色であるが、この他事例2・12のように黒色の例が あること、江馬務による「糸の色はただ今緑を用いているが、昔は緑のほか青などいろい