第4章 戦争の民具としての千人針
第2節 千人針の民具的特徴 1、作製地
聞き取りをする場合には、千人針が作製された地域を指す。しかし、実際には判別が難 しい項目である。召集令状は本籍地に届けられるため、勤務地或いは所在地が他の地域で あった場合には本籍地に戻ってから応召することとなる。そのため応召する本籍地で作製 されたものか、勤務地で贈られたものなのか、調べる必要がある。
千人針に地域性があるかどうかを検証するには、名称・形状、さらに様々な俗信の定着 状況などを考える必要があろう。
布や色についての地域性については、江馬務が、糸の色の地域性について、「糸の色が 大阪は赤く、神戸は黄、京は青が多いといふこと」(1)と記している。昭和館所蔵の千人 針についても、糸の色については、赤・白・黄・青・緑などとバリエーションに富んでお り、前述の姫路市平和資料館の資料で分かるように兵庫は緑か黄色の千人針が多いという 点は江馬の指摘に通じるところがある。ちなみに兵庫県の姫路市立平和資料館の所蔵の千 人針は、17点中半数以上が白・黄色など赤色以外の糸が使用されている。
第1章及び第2章で事例を分析しているように、日露戦争時、満州事変時と、次第に認 知度が高まっていき、日中戦争開戦時には、全国でほぼ同時に千人針風景が見られ、当時、
植民地であった朝鮮半島や台湾でも同様であった。
2、名称
名称について、高崎正秀の報告によれば、千人針という名称に集約されてくる以前はさ まざまに呼ばれたという。
東北地方では千縫い・千人縫い、新潟では千人縫い・千人針、静岡から尾張・美濃 にかけては千結び、伊勢の松坂では千人結び(以上昭和6年(1931)上海事変の頃の 調査)。四国徳島・関西・中国では千人縫い。広島の呉市では千人針・千人瘤・千本 針・千勝針。(2)
とある。実際には、日中戦争以降は「千人針」という呼称に集約されつつも、異なる名称 が平行して使われ続けていた。このように実際には様々な名称があったと思われるが、共 通の名称として千人針に集約されていったものと思われる。
(1)昭和館での寄贈受け入れの際に記された手紙に記載されていた。
3、作製年
基本的には、応召した年が千人針が作製された年になる。しかし、応召を受ける前に事 前に準備する場合や応召に間に合わず、後になってから出征先へ郵送する場合、あるいは 応召先で軍などから支給される場合などがある。応召が複数回にわたる場合にはどの段階 で贈られたものかの情報が必要となる。
千人針の実物として残されている最も古い千人針は遊就館所蔵の日露戦争の頃の千人結 で、生成の木綿の布に太い黒糸が結ばれている。
満州事変の頃には、地域的にバリエーションのあった千人針習俗は、日中戦争の時代に はある程度画一化され、全国に一気に広がったようである。現在、千人針の現物を確認で きるのは、ほとんどが日中戦争以降の千人針であり、満州事変以前の千人針習俗について は聞き取りを頼りにするしか方法はない。昭和館の千人針寄贈者の一人、藤川はまさん(千 葉県流山市在住)は次のように満州事変時期の経験を記している(1)。
昭和6年(1931)9月、満州事変勃発当時旧制四日市高女4年生だった私達はクラ スの身内の方が兵役につかれ
る度に教室に千人針が持ち込 まれ、その都度授業を中断し ては作りました。晒に朱肉で 押された千個の小さい丸い輪、
その中心を赤い糸ですくい、
一つずつ結び目をつくっては 次々と手渡しこしらえ上げた ものでございました。
その頃の状況からは戦争の 恐ろしさなど実感として有り ませんでしたけれど、これを お腹に巻いて行けば弾丸にあ
たらないと云う昔からの云い伝えを信じ、こんなことで何かのお役に立てるならと一 針一針に心をこめたものでございます。
校門前で千人針をして居ります同封のスナップはその頃の地方新聞に掲載されまし たものでございます。先日古いアルバムの中より見付かり見覚えのある顔やらその時 代の風俗やらを大変なつかしく想い出しました。
7 年後の昭和 13 年 5 月支那事変で主人応召あの頃とは全く違った感情で道行く人 に千人針をお願いしたあの日のことが改めて甦り尚一層想い深くしたことでございま した。
千人針の作製は出征に際して行われるのが一般的だが、召集に備えて事前に作ったり、
召集に間に合わず、後で戦地に送る場合もあった。
写真 4-34 満州事変の千人針風景 昭和館所蔵資料:藤川 はまさん(千葉県流山市在住)寄贈
(1)山中恒『暮らしの中の太平洋戦争』岩波書店、平成元年(1989)、pp.53-70。
昭和12~13年(1937~1938)は、街頭での千人針作製が盛んであったが、16年(1941)
以降は、スパイ防止のために街頭ではあまり行われなくなったといわれている(1)。昭和 館所蔵の資料にも、伊保村長から「左記ノ通リ姫路連隊区司令部ヨリ通達有之候条厳守相 成度候」として「四、千人針ハ繁華街、百貨店、停車場、劇場、等ヲ避ケ成可学校・工場 等ニ於テナスコト」「昭和16年12月20日以降実施」という通達がある。
また筆者の聞き取りでも次のように昭和 19 年に入営した夫に千人針を持たせなかった という例もあった。
○K・Y(女性、大正5年(1916)9月10日生、宮崎市宮田町)
昭和 16 年(1941)に結婚して、19年(1944)に熊本に入営していったが、当時、千 人針を持たせなかった。千人針は、昭和16年(1941)頃までは大きくやっていたが、
昭和 17 年(1942)頃には、千人針をやっている人もいたが、一般的にはやらなくな っていた。理由はよく分からない。
しかし、実際には、地域差にもよると考えられるが、昭和館の事例としては、「昭和 18 年11月29日、召集の際に贈られたもの。2人の妹が街頭に出て、町行く人に頼んで作っ てくれた。集まってくれた多くの人に見送られ、新大久保駅から電車に乗って入営先の千 葉県我孫子の東部八三部隊に入隊した。」(K09-02340)とあり、昭和18年(1943)頃まで は街頭で千人針を集めていたことが分かる。また収蔵資料を見ても昭和 20 年まで千人針 を作っており、宮崎県の宮崎神宮の日誌では、昭和 20 年(1945)7 月まで千人針祓をし た記録が残っている。街頭での千人針が制限されたり、物資が不足したなかでも千人針作 製は終戦間際まで続けられた。
表4-6 日中戦争以降の昭和館所蔵の千人針の件数
応召年 昭和11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
千人針数 1 11 4 9 3 7 10 13 4 2
4、作製者
基本的には応召を受けた本人の家族(母親や妻、姉妹)が中心となって作製する。また、
実際には婦人会などが中心になって近隣で作製する場合、職場、学校などの女性が中心に なって作製する場合などもある。
依頼者の例
①妻・母が夫・息子のために作製
②近隣の知人、職場の同僚などが作製
③女学校が慰問袋用として作製
④婦人会が慰問用として作製
⑤役場が慰問用として作製を指示
千人針を作るに際しては、まず母親や妻などの発起人がおり、街頭に立って通りすがり の見ず知らずの女性たちに声をかけるのが一般的であったようだが、発起人については、
母・妻・兄弟姉妹、近親者、近隣、婦人会、女学生、会社同僚などが考えられる。そして、
どこで作製したかについては、街頭(駅前、寺社仏閣の参拝者、女学校の校門)、女学校 内などがあげられ、作製者は、前述の発起人と同様と考えられよう。さらに、妻・母が夫
・息子のために送るような特定の人物に向けた祈願用として作製したもの、女学校・婦人 会が特定の個人のために作製した物と、匿名性の高い慰問袋用として大量に作製した物に 分けられる。
被依頼者(糸玉を縫う人)
妻・母・家族(依頼する前後に縫うなど)
街頭で不特定の女性(駅前、寺社仏閣の参拝者、女学校の校門)
女学生(街頭で補助。学校で一斉に作製)
婦人会(街頭で補助。婦人会主導で作製)
親類縁者近隣者(持ち回りで回ってくる)
学校で行われた様子については次のような聞き取りがある。
○K・N(女性、昭和6年(1931)2月9日生。都城市。)
都城高等女学校の頃、千人針のことをよく覚えている。特攻隊のような人(「南海に たとえこの身が朽ちるとも 幾とせ後の 春を思えば」という歌を覚えている)が近 所に滞在しており、彼らにあこがれていて、その人たちに縫ったのを覚えている。
千人針を縫ってもらいたい人たちは上町の街頭や西駅前によく立っていた。女学校 の校門前にもよく来ていたが、学校の中で縫うことはなかった。流れ作業の様に作る のは心がこもらず良くないと考えられていたからではないか。
第2章第4節「銃後の護りと千人針」の項目で明らかにしたように、日中戦争開戦直後、
女学生が街頭での千人針を手伝う様子が多く見られたが、臨時召集令状の数が膨大になる と、千人針の需要も増え、学校単位で、大量生産することとなった。地域や時代によって その状況は異なっていた。
<千人針の素材>
5、形状
①腹巻型 ②胴巻型 ③手拭型 の三つについては、判別が付きにくく、便宜上の区別 である。腹巻と胴巻の区別が判然とせず、ここでは長尺のさらし木綿を腹に複数回巻き、
紐を使わずに止めるものを胴巻型とする。紐が付いたものを腹巻型とし、手拭い程度の大 きさで紐が付けられていないものを手拭型とする。手拭型のなかには折りたたんで鉢巻き にするものもある