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日中戦争と全国的広がり 第1項 日中戦争開戦時の千人針

第2章 千人針の全国的展開とその終焉

第1節 日中戦争と全国的広がり 第1項 日中戦争開戦時の千人針

満州事変が落ち着いた後でも満州との軍人などの行き来は継続していた。職業軍人は、

異動という形で各地へ配属され、志願兵も定期的に補充されていた。外地へ行く者にとっ ては、戦闘が行われていないとしても、戦争勃発の火種はくすぶっている状態であった。

昭和11年7月の『日本婦人』(第29号)には次のような記述がある。

事例 1) 広島県支部では、第五師団管下の一部が北支警備の為渡支するに当り、厳 島神社御守四百六十体を派遣各将兵に贈呈、又同地四高女愛国子女団員三千六百によ る精神をこめた千人縫腹巻一枚宛を贈呈した。(1)(下線筆者)

厳島神社のお守りを 460 体渡したということは 460 名の将兵に、3600 名の愛国子女団員 によって作製された千人縫腹巻きを一枚ずつ贈呈したということであろう。さらに昭和11 年11月1日付『東京朝日新聞』では千人針行脚が始まったことが記されている。

事例2) 昭和11年(1936)11月1日付『東京朝日新聞』夕刊

「千人針行脚へ けさ先づ王子駅前に立つた 若い一女性の赤誠」

三十一日朝省線王子駅前に立つた盛装のうら若い一女性が路ゆく婦人を呼びとめて は手にもつた萌葱色の木綿に赤い糸を一針づつ縫ひつけて貰つてゐた

一目でわかる千人針の念願だ、大きな荷物を抱へた老婆が通れば自分でその荷物を 持ち換へてやつたり、幼児づれの婦人が通れば子供をあやしながら誠意の一針を頼む などつゝましいこの女性の態度が人目をひいた、名を訊いても首を振つて語らぬ彼女 は 唯満州の兵隊さんに差し上げたいのです、戦死の報道を知る度に胸がいつぱいに なりますので・・ と多くを語らず

この日をスタートに市内のデパートや駅前を巡つて十枚の千人針行脚に立つのだとい ふ(下線筆者)

日中戦争開戦前であり、出征する身内の為の千人針ではなく、満州に残る兵士へ贈る千人 針であることが分かる。

事例3) 昭和12年(1937)3月20日付『東京朝日新聞』

福島県湯本町県社温泉神社で「神風」成功祈願をした、同町青年団、愛国婦人会、小 学生、各種団体、石川町長等代表として後藤静夫、飯淵繁三郎両氏は十九日朝来社、

(1)藤井忠俊『在郷軍人会』岩波書店、平成21年(2009)、pp.261-263。

神符、激励文、千人針、腹巻を両飛行士に贈り激励の辞を伝へた

日中戦争開戦前の記事であるが、戦勝祈願の後に、「神符、激励文、千人針、腹巻」を贈 っている。

昭和 12 年(1937)7 月 7 日に盧溝橋事件が発生し、日中戦争が始まるが、千人針の記 事は、管見の所、少し遅れた 7 月 14 日以降に登場することとなる。この経緯について藤 井秀俊の説明を以下に要約する。(1)

7月11日の夕刊(13日付)は「一部部隊に召集下令」(『中国新聞』)と報じたが、13 日には治安当局から記事差止の通牒「今回ノ事変ニ関スル動員派兵等ニ関スル件」(差止32 号)が出されたため、その続報は出なかった。戦時動員が下令され、多くの在郷軍人に臨 時召集令状が伝達された。『中国新聞』では14日に「愛国婦人会支部長より県下高等女学 校、愛国子女団に対し一週間の期限で千人針の調製を依頼」という報道があり、動員まで に 1 万 4000 枚を確保とある。兵士の召集状況の記事が差し止められたために、出征に関 する記事が遅れたことがわかる。以上が藤井の開戦当時の状況についての説明である。

以下、全国各地の新聞の千人針に関する日中戦争開戦当時の記事を通して千人針風景を 見ていくこととする。

事例4) 昭和12年(1937)7月14日付『神戸新聞』(2)

「早くも千人針」「各神社へ皇軍の武運を祈る群れ」「街頭に描く非常時局」

北支の風雲いよいよ急を告げる時港都神戸の守護神湊川神社はじめ生田、長田神社 に参詣、北支の戦野に活躍する勇士の武運長久を祈願してゆく人々が事変勃発以来、

日を逐うて多くなり十三日など早朝そぼ降る雨天にもかゝはらず楠社には参詣人引き も切らず、又市内各所には早くも兵隊さん達の弾除けになる千人針の胴巻きを持出し 道ゆく人々に心の籠つた一と針ひと針を縫つてもらつてゐる美しい軍国風景も展開し はじめた(下線筆者)

神戸市内の各所で千人針風景が見られ、新聞では「美しい軍国風景」と好意的に表現され ている。

事例5) 昭和12年(1937)7月15日付『京都日日新聞』(7)

(前略、筆者)愛国女学校として名を知られてゐる洛西春日町の洛陽高等技芸女学校 生徒は“戦地の兵隊さん安かれ”と祈る乙女心の優しさから三々五々と打連れて受持 の先生も加はり針と糸と布とを持つて放課後炎天下の街頭に立ち“どうぞ一針”と道 行く人を捉へては千人針の援助を求めてゐた(下線筆者)

洛陽高等技芸女学校生徒が「千人針の援助」を求めていたとあることから、ここではあく までも手伝いであったことが分かる。続いて愛媛県の記事からである。

事例6) 昭和12年(1937)7月15日付『海南新聞』(2)

皇国の興廃は此の一針にありーとばかり松山でも千人針がそこ此処に見かけられ出し た、何と云っても集団的な女学校が一番手取り早いと言ふので二三日来松山高女へは 約十人、城北高女でも四五人、済美も四五人その他東雲、松山技芸、専売局等それぞ れ千人針が依頼されて来て居る。街頭風景としてはまだ見かけられないが郵便局、工 場等でも求められゝば喜んで応じる準備をしてゐる(下線筆者)

愛媛県松山市では、街頭での千人針風景が見られるようになる前に、7 月 13、14 日頃か ら女学校に依頼に来るようになり、他の学校でも行われたことが分かる。続いて神戸の『神 戸又新日報』である。

事例7) 昭和12年(1937)7月16日付『神戸又新日報』(4)

「千人針にこめる愛国の熱情」「日支の危機に起つ 加古川高女生ら」

北支の危機に非常時気分横溢し銃後の赤誠こめた千人針、各地で非常時気分を示し てゐたが県立加古川高女では十五日午前九時全校六百五十余名の生徒が校庭に集合し 千人針を行つた、白布をリレー式に廻し愛国の熱情をこめて約三時間を時間を経て一 巡したが、残り三百九十針を夫々街道に飛び出してこれを完成させるが両日後、全部 を取纏め加古川憲兵隊を経てそれぞれ贈ることゝなつた。なほ千人針を求める婦女子 の姿は昨今一時に増加し加古川駅待合所町内辻々で愛国気分をあふつてゐる(下線筆 者)

加古川高等女学校では7月15日9時から校庭に集合し、約350 名の生徒がリレー方式で 千人針を3時間かけて作製し、足りない分を街頭で補ったことが分かる。次は京都の『京 都日出新聞』である。

事例8) 昭和12年(1937)7月16日付『京都日出新聞』

「“千人”何のその“万人針”!」「きのふ街頭に描く戦時風景」

いまにも天の一角崩れるか?来るかサアツと一雨、風吹き天曇る昨十五日の午後三 時頃マルブツ前で道行く人に千人針の一針々々を頼む三人連れ“私の孫が・・・”と 腰の曲がった老婆“うちのも・・・”“私は二人とも・・・”と子に孫に贈る心から の餞けだ、立派に尽せよ国の為散れば護国の鬼となれと祈る親心、道行く子供抱へた 婦人が不自由な手付きで、カバン抱へた児童が、ハイヒールの颯爽ガールが、又“ど れどれ私も・・・”と袂から眼鏡とり出すおばあさん、彼女らの胸にも非常時日本の 血は脈々と躍る、戦ひの怒和に起つも立たぬも国を思ふ心に変りはない祈るはたゞ第 一線に国を拠つて立つ勇士の健闘だけだ、一針々々に無言の祈りを籠めて縫ひ続けて 行く“千人針”ーどうぞ御無事でー贈らるゝ勇士よ頑張つて呉れ!彼女らの心のこも つた“千人針”を身に着けてー

7 月 15 日午後 3 時頃からマルブツ(丸物百貨店)前に多くの千人針をお願いする人々の 姿が見られた。次は宮崎県の宮崎神宮前での様子が『宮崎新聞』に記されている。

事例9) 昭和12年(1937)7月18日付夕刊『宮崎新聞』

「神武の原頭に 愛国千人針 在支将兵に贈らる」

「銃後の護りは私達の腕で」と甲斐々々しく叫んで起つた国防婦人会宮崎支部福島 支部長ほか会員五百名は十七日午前七時四十分宮崎神宮へ集合午前八時から社頭で心 からなる北支駐屯軍将兵の武運長久を祈つたがさらにそれと同時に神宮第一鳥居脇で 千人縫を行つて非常時の国の婦人の意気をみせてゐる、早朝からの人々で一人々々に よる厚い愛国心に千人縫の完成も近いがこれは総て直ちに在支将兵へ送るのである。

(下線筆者)

事例4では、7月14日に「早くも千人針」として千人針が紹介されている。事例5では、

女学生が教員とともに街頭に立っている。事例6は、愛媛県の新聞であるが、千人針の会 場として各女学校が選ばれていることが分かる。事例7では、女学校の校庭で千人針をリ レー形式で全校生徒650人余で行い、残りを街頭で実施し、後に憲兵隊経由で贈ったとあ る。事例8では、3人の女性が街頭で千人針を頼む様子が描かれている。事例 9では、国 防婦人会の活動として、神社での武運長久祈願と千人縫作りがセットとなっており、出来 上がった千人針は戦地の将兵に贈られたことが分かる。

以上の記事のように、14日から18 日までの短い期間に、全国各地で一斉に千人針風景 が見られ、そして、千人針を役に立たない俗信などと揶揄する記事が見当たらないことは、

満州事変期の記事と大きな違いであろう。また、外地である朝鮮半島でもでも 7 月 15 日 にすでに千人針風景が記事として紹介されている。

事例10) 昭和12年(1937)7月15日付『大阪朝日新聞(南鮮版)』

「全半島に描く非常事風景 神社参拝に千人針に沸る朝鮮同胞の至誠」

北支事変の衝撃が伝わるや朝鮮神宮、京城神社をはじめ主要地各神社は武運長久を 祈願する人々が早朝から深夜に至るまでひっきりなしに続いている、日本人の血が爆 発して大和魂が今こそ躍動して来たのだ、しかも半島の誇りとして感激を呼起すのは 武運長久を祈る人々が単に内地人だけでなく朝鮮人も内地人もまけず多いということ である/満州事変を契機として日本意識に目覚めた朝鮮人が北支事変の衝撃によりさ らに強烈なる日本人意識を昂めここに半島全土内鮮一体となって武運長久の国民が行 なわれており挙国一致は我半島において最も誇るべき姿となって現われて来たのであ る/さらに街頭を見よ・・・そこには至るところに千人針風景が描き出されているで はないか、京城本町通りをはじめ全鮮主要都市の繁華街には千人針風景が数十数百描 き出されてたのは北支駐屯の皇軍の武運長久を祈る愛国人の発露である、ここにも朝 鮮婦人達が自から進んで愛国の熱誠をこめた一針が縫い綴ってゆく/このほか国防献 金を申出るもの慰問袋を送るもの等々々、半島全土は今や灼熱の空にも似て熱血の愛 国心がたぎって来た

日本本土において7月14~18日に千人針風景の記事が集中しているが、植民地である南 朝鮮においても、武運長久祈願、千人針風景、慰問袋活動が同時に実施されている。その