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第4章 戦争の民具としての千人針

第3節 戦争の民具

弾丸除けの御守り、日章旗の寄せ書き、奉公袋、提灯行列、出征の幟、慰問袋など、出 征にまつわる資料は、千人針を含め、互いに影響し合いながら成立してきたものである。

1、慰問袋

慰問袋については、次のような由来がある(1)

慰問袋の由来 明治三十七年の春、すでに日露戦役は始まつていたが、その当時赤坂 にあつた婦人矯風会へ、アメリカ矯風会のサチア夫人から「米西戦争のときアメリカ 婦人がカムフート・バッグ(Comfort bag)というものをつくつて国外に出征してい る兵士たちにこれを送つたが、それが兵士たちになによりも喜ばれた。貴国でも出征 将兵にこれを送つてはどうか」という親切な忠言があつたので、矯風会では早速に幹 部の清水富貴子、矢島楫子らが相談し、カムフード・バッグを直訳して慰問袋と名づ け、まず取りあえず三月十五日に第一回の慰問袋百袋を佐世保鎮守府司令官宛に送つ たのが慰問袋のはじまりである。

慰問袋が日露戦争以降に始まったとあるが、愛国婦人会などの活動にも組み込まれていた。

慰問袋作りは、大量に作製されたので、組織的に準備する必要があった。作られる量も膨 大で有り、種類も様々であった。婦人会の規約には、慰問袋作りは登場するが、千人針は ほとんど記載されない。婦人会の活動の一つとして確かに行われていたにもかかわらず、

ボランティアとして行われるべきとの判断だったと考えられる。

第1章第4節「銃後の護りと千人針」でも述べたように、国防婦人会が創設されるきっ かけとして千人針が関わっていたが、集団で準備される慰問袋に対して、個人的に準備さ れ個人的に贈られた千人針が位置づけられていたのである。

婦人会の女性の活動に対して、男性の活動に当たるのが在郷軍人会であった。そして、

在郷軍人会の成立とともに始まったのが、奉公袋であった。それは婦人会の慰問袋のよう に組織的に準備されるようになり、出征兵士の必需品となっていった。

2、奉公袋

奉公袋の成立過程については、藤井忠俊が整理しているので、その著書『在郷軍人会 良兵良民から赤紙、玉砕へ』をもとに以下に紹介する(2)。奉公袋は、愛知県の豊橋支部 長である連帯区司令官の鉾田俊中佐の発案で、大正2年(1913)に管内で支部在郷軍人会 員全員に所持させるよう指示したのが始まりであり、動員袋・奉公袋・軍用袋・召集袋・

充員袋などの名称が各地で使われたようであるが、奉公袋で全国的な統一が為された。奉

公袋には、応召用諸品・貯金通帳・私服結束材料を入れ、応召用諸品としては軍隊手帳・

勲章・勲記・記章・適任証書・特業修歴証書・印鑑・住所木札を入れ、私服結束材料とし ては、入隊の後私服を送り返す材料、風呂敷、麻縄、名札などを用意した。在郷軍人会に よって組織的に準備され、大正5年(1916)頃の奉公袋の普及率は軍服の普及率をはるか に越えていた。

奉公袋は、出征する兵士が軍服よりもまず先に準備するものとして創出されたもので、

日中戦争時には、必要不可欠なものとして、組織的に準備され、出征兵士に配られた。

3、日の丸寄せ書き

日の丸寄せ書きとは、日章旗の赤い丸の外の白地の部分に、出征(あるいは応召や入営)

を祝う親戚・知人、職場関係者、学校教員、本人の名前を主に男性によって揮毫され、出 征に際して出征者に渡されるものである。さらに武運長久や戦意高揚・国威発揚の言葉、

例えば「七生報国」「尽忠報告」「大和魂」「滅私奉公」などの文字が書き込まれた。

日の丸寄せ書きについては、研究も少なく、その始まりについて、何がきっかけとなっ て国旗に揮毫するという行為が流行し始めたのか現在のところ確認できていない。しかし、

その手がかりとして、日中戦争における日の丸寄せ書きについての新聞紙上での論争があ る。

事例)昭和12年9月23日付『東京朝日新聞』朝刊「鉄箒 日の丸の旗」

◇ところが近来、出征軍人に贈る日章旗や歓送用の日の丸の旗に「武運長久」「皇軍 萬歳」等の文字をはじめ、神社仏閣の印章や寄せ書き式の書名をしたものなどを見か けるやうになったが、これは慎重に考慮すべきことだと思ふ。

◇日章旗に文字を書き、印章を押す人々の気持は、勿論熱誠から出たものであるに相 違ない。しかしそれは遺憾ながら思慮の足らぬ行為である。

昭和 12年9 月23日の段階で、「近来」日章旗の寄せ書きが見られるようになったことが 記されている。この意見に対して次のように反論が掲載された。

事例)昭和 12年1937 年9月25日付『東京朝日新聞』朝刊「鉄箒 国旗署名の弁」

日の丸の旗と題する一文に異議あり。大村氏の考えは、日章旗は文字を書くものでは ないという見地からであるらしい。然し、そこに書く文字が、赤誠を以てした「武運 長久」や「皇軍万歳」等々のものであったら、たとえ墨汁や朱肉でも、絶対に「日章 旗を汚した行為」にはならぬ。要するに書く人の精神の問題である。(後略)

ここでは書かれる文字の内容次第で、「書く人の精神の問題」であると説く。

昭和12年(1937)9月27日付『東京朝日新聞』朝刊「鉄箒 国旗の問題」

日の丸の旗に赤誠をこめた文字を書くことは決して国旗の侮辱でないという平塚氏 の説は正しい。然し、国旗はそれがハンケチ程のものであろうとも、国家を代表する

ものである以上、絶対に神聖犯すべからざるものである。(中略)

大村氏に同感である。幼稚園児の歌う「白地に赤く、日の丸染めて」の一節、これ ですべて解決すると思う。今回の事変までいまだ曾て国旗に文字の書入れや神社の印 章等を見たことが無い。

国旗への文字書込みの風習がこのままに推移せんか、恰も登山行者の白衣のように なりはしないか。そして白地に赤の日の丸でなく、飛白に赤の日の丸という結果にな りはしないか。

いつから日章旗に寄せ書きをするようになったか現在のところ不明であるが、戦争の民具 全体を見通すためにも解明すべき重要な問題で有ると考える。

4、千人力

女性が用意する千人針と男性が用意する日の丸の寄せ書きが象徴的に対比されるが、そ の中間的な資料として「千人力」という資料がある。千人針が女性によって作製されるの に対して、じっとしていられない男性にも参加できるものとして作られたのが千人力であ る。これは全国的に作製され、宮崎県遺族会館でも資料を所蔵している(写真4-58)。

千人力についての事例を『宮崎新聞』から紹介する。

昭和 12 年 8 月 5 日付 2 頁(夕)『宮 崎新聞』

「 女 軍 を 向 う に 廻 し て 男 千 人 力 日 章 旗 後 藤 県 耕 地 課 長 が 提 言 し て 皇軍将兵宛に贈る」

耕 地 課 で は 後 藤 課 長 の 発 案 で 街 頭 女 軍 の 千 人 針 の 向 う を 張 っ て 男 千 人 力 の 日 章 旗 を 十 枚 作 成 し 皇 国 の た め 極 暑 の 北 支 に 活 躍 中 の 我 が 萱 島 部 隊 に 送ることとなった。

この千人力日章旗は後藤課長が過般の上京の途次広島において傍見したもので婦人達 の千人針は多いが、銃後男子の力に依る前線部隊支□も必要なりとして長野主事以下 全課員を督励して四日よりこれが作成に取掛ったこの千人力は三尺四方の白木綿の日

写真4-58 千人力(宮崎県遺族会所蔵)

章旗に力の文字を墨で千人の男子に書いてもらうもので初筆を知事か部長かに依頼す るはずである

広島で見かけた千人力を宮崎でも作製したという。

○昭和12年(1937)8月7日付『宮崎新聞』

「富高にも『千人力』 芳野さん奉仕」

男の千人力――富高町芳野一郎さんは四五日前から長い布に一字一字の□□を示しこ の中に力という字を通行の男子から書いて貰っているが千人の男の力を合わせて一つ の日の丸国旗を造るもので、女の千人針に対抗して男の千人力として皇軍に贈るのだ とある(富高)

○昭和12年(1937)8月7日付『宮崎新聞』

「『千人力』作製 延中生も街頭へ進出」

女工さんや女学生さん達が皇軍兵士へ千人縫、慰問袋などを贈って愛国熱の溢れてい る折柄、延中生が『千人力』をつくって千人縫にかえて皇軍兵士に送らんと街頭で人 々に『一筆づつ書いて下さい』と呼びかけている、千人力は白木綿に『力』と一字づ つ千人から書いて貰って千人の赤誠をこめるのであるが、勇士をして一層力づけさせ ることだろう・・・工都延岡の非常時風景も緊張味を帯びてきた

○昭和12年(1937)8月18日付(夕)『宮崎新聞』

後藤県耕地課長の発言で作成に着手、日州健児の力をシンボライズした千人力、日章 旗十三枚は耕地課全員の努力が実を結んで十六日迄完成した。先づ相川知事の健筆を 仰いで以来二週間。非常時局の事務多忙の中に部長、課長を始め、各課を歴巡して庁 員全部の一筆を求め、不足のところは街頭に進出して文字通り銃後の赤誠を傾倒して 完成を見たものであるが、十七日後藤課長、長野主事は晴の日章旗を携えて社寺兵事 課を訪い北支皇軍への発送方を依頼した

昭和 12 年の 8 月段階ですでに千人力が作られており、ほぼ同時に千人力は認知されて いたことが分かる。

大阪でも千人力は贈られていたようで、昭和12年10月2日付『大阪時事新報』には、

「床し義侠一夜の赤誠」「涙の勇士に贈る力のチョッキ」「軍国に薫る温き師道」「輝く千 人力・千人針」「勇士の征彩るこの佳篇」との見出しで、千人力のエピソードが紹介され ている。

5、婦人会と在郷軍人会

ここまで「戦争の民具」として「慰問袋」「奉公袋」「日の丸寄せ書き」「千人力」につい て紹介してきた。これらの出征にまつわる道具「戦争の民具」がそろうのが日中戦争であ った。日の丸の寄せ書きについても日中戦争の開戦とともに盛んに行われるようになった。