第3章 鉄道トンネルにおける火災事故
第2節 鉄道トンネルの建設
(1) 鉄道トンネル建設の歴史
日本の鉄道用隧道(以下、「鉄道トンネル」という)には、山岳部を貫く山岳トンネルと 都市部の地下を貫く都市トンネルの 2 種類があるが、本稿では主に山岳トンネルについて 述べる。
表Ⅲ-1 は、ある時点で国内最長となった鉄道用山岳トンネルを歴史的に整理したもので ある(7)。この中で、初めて日本人技術者のみで建設されたのが逢坂山トンネル、そして初 めてダイナマイトが使用されて建設されたのが柳ヶ瀬トンネルである。これら二つのトン ネルを除き、1890(明治 23)年までに竣工したトンネルのほとんどは、全長 500 メートル未 満であった(8)。
1890 年代に入り、工事の完成速度を早める目的で、第二板谷峠トンネルなどに竪坑が設 けられるようになった。鉄道創業以来、手掘りによる掘削が中心であったが、笹子トンネ ルの建設から、削岩機が本格的に使用されるようになった。また笹子トンネルでは、現場 に水力発電が設けられ、運搬や照明、換気などに電気が用いられるようになり、トンネル 掘削の作業効率は著しく向上した(9)。
トンネルの掘削は、大正の初期まで、当時日本式と呼ばれていた頂設導坑式が国内唯一 の工法であった。その頃、諸外国で実績のある新オーストリア式と呼ばれる底設導坑式が 導入され、東海道本線の新逢坂山トンネル(全長 2,325 メートル、1919 年竣工)の建設の 際に初めて用いられた。
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トンネル名 線名 全長(m) 単複
逢坂山 東海道 京都 大津 665 単線 1880年 明治13年
柳ヶ瀬 北陸 雁谷 刀根 1,352 単線 1884年 明治17年
第二板谷峠 奥羽 板谷 峠 1,629 単線 1896年 明治29年
金山 常磐 竜田 富岡 1,655 単線 1898年 明治31年
冠着 篠ノ井 冠着 姨捨 2,656 単線 1899年 明治32年
笹子 中央 笹子 初鹿野 4,656 単線 1902年 明治35年
清水 上越 土合 土樽 9,702 単線 1931年 昭和6年
北陸 北陸 敦賀 南今庄 13,870 複線 1962年 昭和37年
六甲 山陽幹 新大阪 新神戸 16,250 複線 1971年 昭和46年 大清水 上越幹 上毛高原 越後湯沢 22,235 複線 1980年 昭和55年 岩手一戸 東北幹 いわて沼宮内 二戸 25,808 複線 2000年 平成12年 八甲田 東北幹 七戸十和田 新青森 26,455 複線 2005年 平成17年
区間 竣工
トンネルの覆工は、それまで煉瓦や石材積みが主体であったが、場所打ちコンクリート 工法が房総西線(現、内房線)の鋸山トンネル(全長 1,252 メートル、1917 年竣工)建設 の際に採用された。また、現在の都市トンネルで用いられているシールド工法が、トンネ ルの膨圧対策を目的に羽越線の折渡トンネル(全長 1,438 メートル、1924 年竣工)の建設 で初めて採用された(10)。
大正時代の中頃より、トンネルは単に新線建設の目的だけでなく、勾配改良や迂回距離 の短縮を目的に計画されるようになった。そしてこの頃より、5 キロを超える長大トンネ ルが建設されるようになった。その代表例として、1918 年に着工された東海道本線の丹那 トンネル(全長 7,804 メートル、1934 年竣工)や 1922 年に着工された清水トンネル(表
Ⅲ-1)を挙げることができる。
ところで、丹那トンネルはそれまでのトンネルとは異なり、複線型トンネルである(11)。 丹那トンネルの工事では、建設中に高圧地下水が多量に湧出したため多くの水抜坑が掘削 された。水抜坑には、既述の折渡トンネルに続き二度目のシールド工法が試用され、本坑 の排水に大きく貢献した。なお、シールド工法が全面的に採用されたのは、日本で初めて の海底トンネルとなる関門トンネル(表Ⅲ-2)の建設の際であった(12)。
表Ⅲ-1 鉄道用山岳トンネルの歴史的変遷
出所: 日本国有鉄道(1958 年)『鉄道技術発達史』第 2 編(施設)、1474 頁、1476~1479 頁。日本鉄道 施設協会(1994 年)『鉄道施設技術発達史』390~392 頁。鉄道・運輸機構(2005 年)「JRTT 鉄道・運 輸機構だより」No.5 2005 春季号、17 頁。以上をもとに筆者作成。
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丹那トンネルとは対照的に、清水トンネルは、支保工を必要としない良好な地質区間が 全体の 3 分の 2 を占めていた。また、建設に際しては、現在の機械に比べ小型ではあった ものの米国製新型機械が数多く使用された。そのため、当時日本で最長となるトンネルで あったにも関わらず、その工期は約 9 年と比較的短期間で済んでいる(13)。その後、太平洋 戦争の激化により、北陸本線の深坂トンネル(全長 5,170 メートル、1953 年竣工)をはじ め建設中のトンネル工事は一時中断された。のちに東海道新幹線用に使われることになる 新丹那トンネル(全長 7,959 メートル、1964 年竣工)もその一つであった(14)。
ところで、戦前のトンネルに使用された支保工のほとんどは、木製支柱式であった。た だし、戦前においても一部区間で鋼製の支保工が試用された。佐久間ダム建設にともなう 付替工事で掘削された飯田線の大原トンネル(全長 5,063 メートル、1955 年竣工)がその 嚆矢である。鋼材価格が他の材料に比べ相対的に安価となり、経済的にペイできるように なったことで、鋼製の支保工が使用されるようになったのである。さらに、この頃より大 型掘削機械が導入されるようになり、大原トンネルの建設においても全断面掘削工法が採 り入れられた。また、飯田線の峯トンネル(全長 3,619 メートル、1955 年竣工)は、底設 導坑式を改良した底設導坑先進上部半断面工法により掘削が行われ、わが国のトンネル掘 削技術の礎を築いた(15)。
1960 年代から 1970 年代にかけて、在来線の輸送改善や新幹線建設のために長大トンネ ルの建設が相次いだ。その皮切りは、北陸トンネルである。同トンネルの工事は、上述し た2工法が複線断面に適用された初めてのケースであった。その後の山岳トンネル建設に おいては、単線トンネルでは全断面掘削、複線トンネルでは底設導坑先進上部半断面工法 が主流となった(16)。
1980 年代に入り、鋼アーチ支保工から吹付けコンクリートとロックボルトを組み合わせ た NATM(New Austrian Tunneling Method)への移行がはじまった。NATM は、上越新幹線の 中山トンネル(全長 14,790 メートル、1983 年竣工)の建設において初めて導入され、成 功をおさめた。その後、土木学会の「トンネル標準示方書(山岳編)」(1986 年改訂)にお いて、NATM が山岳工法の標準工法と位置づけられ、今日に至っている。また、NATM はシー ルド工法や開削工法が主流となっている都市トンネルにも応用されるようになり、2006 年 には土木学会「トンネル標準示方書(2006 年)」でも都市部山岳工法が記述されるように なった(17)。
表Ⅲ-2 は、トンネル工事における殉職者数である。キロ当たりの殉職者数は、約 16 年
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1 丹那トンネル 1918年~1934年 7.9 67 8.48
2 清水トンネル 1922年~1931年 9.7 26 2.68
3 関門トンネル (下り)1936年~1942年
(上り)1940年~1944年 7.2 18 2.50 上下線
4 北陸トンネル 1957年~1962年 13.9 25 1.80
5 東海道新幹線 1959年~1964年 67 74 1.10 日本坂トンネル除く
6 新清水トンネル 1963年~1967年 13.5 14 1.04 7 山陽新幹線(新大阪~岡山) 1967年~1972年 58 33 0.57 8 山陽新幹線(岡山~博多) 1970年~1975年 223 75 0.34 9 東北新幹線(大宮~盛岡) 1971年~1982年 112 31 0.28 10 上越新幹線(大宮~新潟) 1971年~1982年 107 55 0.51 11 青函トンネル 1964年~1985年 53.9 34 0.63
延長(キロ)
(A) 殉職者数(人) B/A 備考
工期 (B)
半にわたる難工事であった丹那トンネルが最も多く約 8.5 人/キロとなっており、特に 1921 年 4 月 1 日の落盤事故では 16 名が死亡、17 名が 8 日間にわたり坑内に閉じ込められ た。戦前、1940 年代までは、主に木製支柱式支保工が用いられていたため、トンネル工事 における殉職のほとんどは落盤事故によるものであった。
その後、鋼アーチ支保工や吹付コンクリート、ロックボルトの採用にともない、落盤事 故による殉職者数は大幅に減少した。また、発破方法が導火線方式から電気式へと変わっ たことで、発破事故も大幅に減少した(表Ⅲ-3)。一方で、トンネルの大断面化や機械化に ともない、作業員が工事用車両(トラックやトロ)に挟圧されたり、激突されたりする車 両・重機械による事故が増加した。
トンネル工事では、落盤のほか、1968 年 5 月 17 日に石勝線の鬼峠トンネル(全長 3,765 メートル、1972 年竣工)で発生したガス爆発や 1979 年 3 月 18 日に既述の中山トンネルで 発生した異常取水による災害なども発生した。また、1979 年 3 月 20 日には大清水トンネ ル(表Ⅲ-1)において、掘削作業を終えた後、ジャンボ削岩機を解体している最中に火災 が発生し、16 人が犠牲となった(18)。
表Ⅲ-2 トンネル工事での殉職者数
注: 5 および 7~10 は、その区間にある全てのトンネルにおける殉職者数を合算。
出所: 日本鉄道施設協会、前掲書、393 頁。
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工期 事故内容
車両・重機械 13
落石 3
転落 3
発破 3
その他 3
肌落ち・土砂崩壊 21 ずり運搬 18
掘削 15
発破 6
支保工建込み 3
その他 11
車両・重機械 58 浮石・ずり落下 31
その他 19
車両・重機械 8 浮石・ずり落下 13
その他 10
発破・火災 20 車両・重機械 14 土砂崩壊・落盤 11
その他 10
車両・重機械 24
発破 3
感電 3
その他 4
5 上越新幹線 1971年~1982年
31
6 青函トンネル 1964年~1985年
55
34
3 山陽新幹線 1967年~1972年 108
4 東北新幹線 1971年~1982年
2 東海道新幹線 1959年~1964年 74
殉職者数
(人)
25 1 北陸トンネル 1957年~1962年
表Ⅲ-3 戦後のトンネル工事における殉職者の死因別内訳
注: 2~5 は、その区間にある全てのトンネルにおける殉職者数を合算した。
出所: 日本鉄道施設協会、前掲書、393~395 頁。
(2)北陸トンネルの建設 1)トンネルの計画
1892(明治 25)年公布の「鉄道敷設法」に基づいて建設が始まった北陸本線は、1913 年 4 月に、米原~直江津間において全線開通した。沿線地域には、朝鮮や満州への玄関口とな る敦賀や新潟などの主要港が存在することから、早くからその輸送力強化が求められてい た。ところが、同本線にはそれを阻むいくつかの難所が存在していた。その一つが、豪雪 地帯で災害も多く、勾配や曲線が厳しい木ノ本~今庄間であった(19)。
上記の区間のうち木ノ本~敦賀間は、既述のとおり 1938 年頃から線路増設や勾配改良を 目的に深坂トンネルの建設が着手されたが、日中戦争・太平洋戦争により工事の中断を余 儀なくされた。戦後、工事は再開され、1957 年には深坂トンネルの完成とともに新線へ切
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り替えられた。加えて本区間を含む田村~敦賀間では、我が国初の交流電化が行われ、輸 送力の強化が図られた(20)。
一方、敦賀~今庄間の 26 キロは、山中信号場を頂点に前後約 14 キロにわたり 25 パーミ ルの勾配となっており、3 箇所のスイッチバックを必要とするため、ディーゼル機関車と 蒸気機関車の三重連運転が行われていた。同区間の輸送力増強および近代化対策について は、1956 年に地質調査や現場踏査などを基に六つの案が提案された。その一つは、木ノ本 と今庄を約 18 キロの長大トンネルで短絡するという案であった。しかし、同案は総工費や 工期の問題のほか、敦賀を通らないことによる乗客サービスの低下といった問題につなが ることから却下され、1957 年 4 月に現行のルートである 13 キロ複線隧道案が採用された。
この隧道は、当時の国鉄総裁である十河信二により、「北陸隧道」と命名された(21)。 なお、本稿では「北陸隧道」を「北陸トンネル」と呼ぶ。
2)トンネルの建設
北陸トンネルの着工に当たっては、工期短縮を図るため四工区(谷口、葉原、板取、今 庄)に分けた建設計画が策定された。葉原(第二)工区には長さ 470 メートルの葉原斜坑、
板取(第三)工区には深さ 230 メートルの板取竪坑を設けた上で、全断面掘削機械化施工 と呼ばれる工法を採用し、約 4 箇年という短い工期で完成させるという計画であった。今 後の標準となる工法が試験的に採用されたことで、当時、「青函トンネルや新幹線トンネル といった長大トンネルの建設の試金石」としても注目された(22)。
建設は 1957 年 11 月に着工されたが、断層や破砕帯により地下水の噴出や土砂の崩壊が 相次いで起こったため、工事進捗に遅れが生じた。そのため、1959 年 4 月には 2 本の斜坑 等に加えて長さ 112 メートルの樫曲斜坑が追加で掘削され、さらに地質に応じ 21 種類にも 及ぶ特殊な工法が新たに採用された。その結果、当初の計画よりも半年ほど工期が伸びた が、着工から約 4 年半後の 1962 年 3 月に全長 1 万 3,870 メートルの北陸トンネルが開通し た。
なお、このような大工事において、落盤や大出水、生き埋めといったトンネル建設に直 接起因した死亡事故が皆無であったことは特筆されるべきである(23)。
3)トンネル開業による効果
北陸トンネルは北陸本線電化(敦賀~福井間)に合わせ、東洋で最長、世界で五番目に 長いトンネルとして 1962 年 6 月 10 日に開業した。この日は、山陽本線(三原~広島間)
及び信越本線(長岡~新潟間)でも電化が完了し、3 線そろっての同時開業となった。と