① 明治末期~大正前期
鉄道国有化が行われた明治末期には、列車の速度が増大し、列車編成両数も増加したこ とから(46)、それまでには見られなかった 100 人を超えるような死傷者をともなう大事故が 発生するようになった。例えば、1913 年 10 月 17 日に北陸本線東岩瀬駅で発生した列車衝 突事故(死者 24 名、負傷者 107 名)や 1916 年 11 月 29 日に東北本線下田~古間木間で発 生した列車衝突事故(死者 20 名、負傷者 180 名)、1918 年 7 月 26 日に山陽本線下関駅で 発生した車両脱線事故(死者 27 名、負傷者 106 名)などがそうである。
当時の事故原因には、信号機の現示不良や誤認、線路の保守不良、速度制限の誤りが多 かった。また、踏切支障といった外部的な要因によるものや、高速運転による貨車浮き上 がり脱線といった現象もこの時期から見られはじめた(47)。
この時期の安全対策をみてみると、北陸本線東岩瀬駅での列車衝突事故を契機に安全側 線が開発され、大正後期から取り付けが始まった(48)。安全側線とは、単線区間の行き違い 駅や他の線路との合流区間において列車等が誤って停止位置を冒進した場合に列車同士の 衝突を防ぐために、冒進した列車を砂利盛りした短い側線に誘導し強制的に脱線させる設 備である。これにより、行き違い駅における列車の同時到着が可能となった。しかし、そ の一方で、高速で進入し列車が転覆あるいは傾斜した場合に本線などの隣接線を支障し、
対向列車や後続列車に衝突する事故が発生するようになった(49)。
また、駅職員の錯誤による閉そく装置の不適切な使用が原因で発生する事故も目立ちは じめた。前述の東北本線下田~古間木間で発生した列車衝突事故や、1909 年 1 月 13 日に 発生した横須賀線大船~鎌倉間の列車衝突事故(死者 0 名、負傷者 21 名)などである。こ れらの事故を契機に、閉そく装置が不適切に使用されないように閉そく装置の改良が施さ れた。
② 大正中期~昭和初期
この時期は、線路の増設や重軌条化、ずい道や橋りょう等の改造補修工事が計画的に、
かつ活発に行われ、材料運搬を目的としたトロリーの使用が頻繁となった。このため、ト ロリーの取扱錯誤による死傷事故がにわかに増加するに至った (50)。これを受け、1921 年 9 月には「トロリー使用心得」が定められ(51)、前述のとおり 1926 年には新たに列車事故に トロリー衝撃が加えられた。
運転操縦やその取扱方については、従来から機関車および客貨車の形式が多種であった
21
上に、私設鉄道の買収によりさらに複雑となったにも関わらず、十分な車両の改善が行わ れていなかった。国有化後の明治末期には、機関車の保有台数が 2,240 台に対し形式数が 190 もあり、1 形式平均 11.8 台であったことから車両の運用が非効率であるだけでなく、
保守面においても部品の互換性の欠如による経済的損失を招いていた(52)。そのため、不十 分な運転操縦とその取扱方の錯誤により、列車脱線や列車転覆、列車接触等の重大な列車 事故が発生するようになった(53)。そこで、第一次世界大戦後から昭和初期にかけ、機関車 の国産化や車両規格の統一が図られ、外国技術からの脱却が進められた(54)。
大正末期には、列車の長編成化や高加速度運転にともない、前後の車両間における衝撃 が著しく増大した。また、1924 年 2 月 26 日に山手線恵比寿~渋谷間で発生した列車衝突 事故(死者 0 名、負傷者 63 名)や 1926 年 9 月 23 日に山陽本線安芸中野・海田市間で発生 した築堤崩壊による列車脱線事故(死者 34 名、負傷者 39 名)を契機に、列車衝突や列車 脱線時における被害を軽減させるために、車体の鋼体化が行われるようになった。当初は、
車体の外板にのみ鋼板が採用された半鋼製車両と呼ばれるものであった。1929 年 3 月 16 日に山陽本線戸田~富海間で発生した列車妨害による列車脱線事故(死者 1 名、負傷者 28 名)では、この鋼体化された車両が被害の軽減に大きく貢献した。鋼体化により車体の強 度は増大されたものの、車体そのものの重量が増大し、車体の軽量化と溶接技術の向上の 必要性が新たに課題となった(55)。
そのほか、連結器および貨車台枠の強度不足による列車分離事故が漸増したために、部 材強度の改善、老朽車の使用休止や廃車等の諸措置に加えて自動連結器の採用が 1919 年に 決定され、1925 年に全国一斉に取替えが行われた。その結果、図Ⅰ-3 や表Ⅰ-7 のとおり、
明治の末期から増加していた鉄道職員の死傷者数や車両故障は急激に減少した(56)。
22
車両故障(件) 車両故障(件)
1922年
2,098
1928年1,560
1923年
2,125
1929年1,441
1924年
2,308
1930年1,307
1925年
1,808
1931年963
1926年
1,865
1932年722
1927年
1,570
1933年834
図Ⅰ-3 死傷者数(本人または関係者のエラーによる鉄道職員関係死傷者)
出所: 日本国有鉄道『鉄道要覧』1945 年度~1961 年度。日本国有鉄道(1971 年)『日本国有鉄道 百年史 』第 8 巻、531 頁~532 頁。以上をもとに筆者作成。
表Ⅰ-7 車両故障の発生件数(1922 年~1933 年)
出所: 萩原昭樹・福田美津子(1995 年)『国有鉄道 鉄道統計累年表』
交通統計研究所、456 頁~457 頁。
③ 戦時中~終戦直後
1931 年の満州事変を契機に、1945 年の太平洋戦争の敗戦に至るまで、日本はいわゆる 15 年戦争期に入る。国有鉄道は、世界恐慌による打撃から立ち直り、積極的な客・貨誘 致と各部門にわたる輸送力増強対策に基づく堅実な営業方針により大きな発展を遂げ、昭 和初期には国有鉄道の黄金時代と言われるほどの発展ぶりを示した。その後、満州事変、
日中戦争とともに、全面的な戦時輸送体制を整えることが緊急課題となり、国有鉄道は軍 事輸送の中心的役割を担うことになった(57)。ところが、戦局悪化にともない、鉄道職員
23
の軍への動員や召集等による人員不足や資材不足があいまって、国内の鉄道施設は急速に 荒廃していった。さらに、1944 年頃から本格化した米軍による本土空襲は施設、車両、
資材を破壊し、国有鉄道の荒廃に拍車をかけた(58)。
このため、1943 年頃から列車事故および各種装置・施設・車両の故障が激増するように なった。さらに、太平洋戦争末期から戦後にかけて、荒廃した車両や施設を酷使しながら 疎開先からの帰還者あるいは海外からの引き揚げ者などの大量輸送を背負わされことで、
鉄道の安全性は著しく後退した。こうして、この時期、列車脱線や車両故障が多発するこ とになった(59)。
1940 年 1 月 29 日に西成線安治川口で発生した列車脱線事故(死者 181 名、負傷者 92 名)
は、分岐器通過中における途中転換によりガソリン動車が脱線した事故である。ガソリン タンク破損に伴う火災が発生し、戦前の鉄道事故のなかで最大の死者数を出す事故となっ た。これを含め、1940 年から 1947 年の間に死者 100 名を超す列車事故が 4 件も発生した。
車軸やレール等の材質不良や保守不良などを原因とする列車の途中脱線事故も、1945 年 頃から増加しはじめた。1947 年 2 月 25 日には、日本の鉄道事故の中で最悪の死者数を出 した列車脱線事故(死者数 184 名、負傷者数 497 名)が八高線東飯能・高麗川間で発生し た。また、1947 年 7 月 1 日には、山陽本線光・下松間でも重大な列車脱線事故(死者数 15 名、負傷者数 72 名)が起こった。こうした事故を契機に、運輸省鉄道総局内に「蛇行動脱 線防止委員会」が設置され、途中脱線の調査や研究が徹底的に行われた。また、1948 年 1 月には「脱線事故防止委員会」が日本国有鉄道内に設置され、原因が特定できない脱線事 故への提言が行われた。これにより、その後脱線事故は減少していったものの、1960 年代 に入っても、なお貨物列車の脱線事故は年間 1~4 件程度発生した(60)。
ところで、日中戦争が激化するなか、1941 年 9 月 16 日に山陽本線網干駅で深刻な列車 衝突事故(死者 65 名、負傷者 71 名)が発生した。この事故を契機に、自動列車停止装置
(以下、「ATS」という)(61)の開発が始まり、1943 年から現在の ATS より高い機能を有する 連続コード式による現地試験が行われた。これを受けて 1944 年からは山陽本線広島~門司 間で地上設備の施工が行われ、翌年の 1945 年にはほぼ完了した。しかし、残念なことに、
空襲により倉庫に保管されていた大部分の車上装置が失われてしまい、この先進的装置の 導入は中断されてしまった(62)。その後、戦後になって、簡易な警報装置による現地試験が 行われ、1946 年には全ての場内信号機に取り付けることが決定されたが、連合軍総指令部 民間運輸局(以下、「CTS」という)の認可が受けられず実現されなかった(63)。
24
(3) 公共企業体時代 1)復興期
1949 年 6 月、マッカーサ書簡を契機に、国の直接的な経営から分離された公共企業体と して日本国有鉄道が発足した(64)。それは、形式的には企業的色彩の強い面を持ちながら、
財政面については政府機関に近い拘束を受ける組織であった(65)。
日本国有鉄道では、戦争により女子や年少労働者の使用が増大し、1944 年の職員数は 1936 年の約 2 倍である 45 万 5,000 人に達した。その後、終戦とともに引揚者の増加や戦 災復興のための新規採用により 1947 年には 61 万人にも達した(66)。そこで、1949 年 7 月に、
戦時中大幅に増加した鉄道職員の人員整理を目的に、行政機関職員定員法に基づき約 9 万 5,000 人の大規模な人員整理が行われた(67)。
日本国有鉄道の発足から 1950 年代後半にかけて、長大編成かつ中長距離電車の元祖であ る湘南電車の登場(1950 年)やガソリン動車にかわる液体式気動車の開発(1951 年以降)、 新幹線の開発に繋がった高加減速性能を有する新性能電車の開発(1957、1958 年)など(68) 急速な技術の発展がみられた。この時期、運転事故および運転阻害事故の発生件数は、保 安装置の改良などにより減少局面に入った。特に、車両故障は表Ⅰ-8 に示すとおり 1949 年から 1957 年までに約 1 万件減少している(69)。一方、重大事故は次のとおり 3 件発生し ている。
一つ目は、1950 年 6 月 8 日に信越線熊ノ平駅で発生した土砂崩壊による線路故障(死者 50 名、負傷者 23 名)である。
二つ目は、1951 年 4 月 24 日に京浜線桜木町駅で発生した戦後最悪の列車火災事故(死 者 106 名、負傷者 92 名)である。この事故では車両が戦時中に設計されたものであったこ とが被害を拡大したとされているが、これを契機に列車火災に対する技術的な防止対策が 進められ、1957 年以降の新製車両は全て鋼製となった(70)。また、CTS 局長の H.T.ミラー大 佐からも同年 5 月 8 日付で国鉄総裁に対し、安全規程や職別運転取扱心得の制定、適切な 運転考査の実施についての勧告があった。勧告は直ちに実行され、同年 7 月には運輸省に より「運転の安全の確保に関する省令」が制定された。日本国有鉄道はこの省令を受け、
人命の安全に対して最も重要かつ簡単な規程として五項目の「安全の綱領」ではじまる 19 条の「安全の確保に関する規程」を制定した(71)。