160 停車したという。
第4節 北陸トンネル列車火災事故
(1)事故の概況
国鉄監査委員会の報告書や刑事裁判の判決などによると、北陸トンネル事故の概要は以 下のとおりである(56)。
1972(昭和 47)年 11 月 6 日午前 1 時 4 分、北陸本線下り 501 列車「急行きたぐに号」(大 阪発青森行、電気機関車+けん引客車数 15 両、乗客数約 760 名)は敦賀駅を 2 分遅れて発 車し、駅から約 2 キロ離れた全長約 13.9 キロの北陸トンネルに進入した。この列車には、
乗客約 760 名のほか、国鉄職員が 13 名(動力車乗務員[以下、機関士と呼ぶ]3 名、列車 乗務員[以下、車掌と呼ぶ]8 名[うち 5 名が乗客扱、3 名が荷物扱]、鉄道公安職員 2 名)、 郵政省職員 9 名、食堂車従業員 8 名が乗車していた(図Ⅲ-2)(57)。
列車がトンネル内を時速約 60 キロで走行中、車掌1と車掌 2 は、12 両目デッキにいた 3 名の乗客より 11 両目の食堂車で火災が発生している旨の通報を受けた。ただちに食堂車へ かけつけ、煙を確認した車掌1は、機関士1に乗務員用無線機で火災の発生を通告した。
通告を受けた機関士1は、北陸トンネルの敦賀口より約 5.3 キロ地点(図Ⅲ-2)に列車を 停止させた(1 時 13 分)。
停止後、軌道短絡器などにより列車の防護手配が行われたため、木ノ芽信号所の場内信 号機は停止現示となり、上り 506M 列車「急行立山 3 号」は、火災現場より約 2 キロ手前で 停車した。
火災発見後、車掌1および食堂車従業員らは、消火器を使って 10 分間にわたる懸命な消 火活動を行ったが、消火活動の継続は困難と認められたため消火は断念された(1 時 17 分 ころ)。そこで、火災車両を切り離してトンネル内から脱出することにし、車掌1は 1 時 24 分ころに初対面の機関士1と打合せの上、先ずは 11 両目の食堂車と 12 両目の客車を切 り離した(1 時 34 分ころ)。ほとんどの乗務員は車両切り離しの経験がない上、トンネル 内は暗闇で 1000 分の 11.5 という勾配であるため、作業が完了するまでに 10 分以上の時間 を要した。次に機関士らは、10 両目と 11 両目の切り離し作業を試みたが、煙が充満し作 業の継続が困難になり、また延焼の危険があると判断し、前部側 10 両を今庄方へ約 60 メ ートル移動させた。その際、何の合図もなく突然前部側が走行を開始したため、車掌 1 は 車掌 3 に前部側へ飛び乗るように命じた。列車は二つに分離された形となったわけだが、
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13 名の国鉄職員は、乗客数の多い前部側 11 両に 4 名(機関士 1~3、車掌 3)、乗客数の少 ない後部側 4 両に 9 名とアンバランスな配置となった(図Ⅲ-3)。
前部側ではさらに、9 両目と 10 両目との切り離しを試みたが、作業の途中で下り線の架 線が停電となり、切り離しが完了しないまま列車の運転が不可能となった(1 時 52 分)。 そ の後、機関士 3 は、き電の再開を国鉄金沢鉄道管理局(以下、「金鉄局」と呼ぶ)電力指令 に沿線電話で要請したが、現場の状況が把握できなかったため、再開は行われなかった(1 時 55 分ころ)。
停電後における現場付近の状況は図Ⅲ-3 のとおり、501 列車の後方には 2565 貨物列車、
今庄方約 2 キロの上り線には、506M 列車がそれぞれ赤信号で停止していた。その後、信号 機が進行現示となり、506M 列車は時速 5 キロの最徐行で約 300 メートル進行したところ、
前方に人影を発見したため、501 列車より約 1.7 キロ今庄方で停車した(58)。
火災事故発生の第一報が機関士 2 により敦賀、今庄両駅に送信されたのは、列車が停車 してから 15 分後の 1 時 28 分であった。その後、機関士 2 は第二報として、車両の切り離 し作業により食堂車をトンネル内に残留させ、前部側のみ今庄方へ移動する旨を敦賀駅に 連絡した(1 時 45 分ころ)。
ところで、停電が発生した頃より、前部側の乗客は今庄方へ、後部側の乗客は敦賀方へ とそれぞれ避難を開始した。乗客の避難と同時に、救援列車による救助活動が敦賀口およ び今庄口双方より行われたが、トンネル内における猛煙の影響もあって作業は難航した。
金鉄局は、本局および現地(敦賀、今庄)にそれぞれ事故対策本部を設置し、地元の警 察や消防、自衛隊、病院関係者などの応援を得て、総勢約 2000 人による大規模体制で救助 活動を展開した(59)。その結果、11 時 35 分頃までに全乗客、職員等の収容を終え、12 時 43 分には 501 列車の車両が敦賀、今庄両駅に収容された。その後現場検証などが行われ、同 日の 22 時 45 分には上下線とも開通した。
この火災事故により、30 名(うち、1 名は機関士 3)が死亡し、714 名(消防署員、食堂 車従業員、国鉄職員を含む)が負傷した。
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1両目
○の数字は、職員の人数
寝台車(1~5両目)
3 2
普通車(6~10両目)
機:動力車乗務員(機関士) 3名 車:列車乗務員(車掌)乗客扱 5名
公:鉄道公安職員 2名
郵:郵政省職員 9名
食:食堂車従業員 8名
食堂 車 普通
車 グリーン
車 郵便
車 荷物
車
電気 機関車 5 4
6 7 9 8
11 10 12 13 14 15
国 鉄 職 員
荷
③ 郵
⑨ 車
②
食
⑧
車
① 公
① 車
① 公
① 車
①
今庄方(進行方向)→
←
敦賀方11両目食堂車
喫煙室 乗務員室
食 堂
調 理 室 通 路 荷:列車乗務員(車掌)荷物扱 3名
機
③ 機 敦賀駅
南今庄駅
今庄駅 北陸トンネル(全長13870メートル)
事故 現場
トンネル勾配×
(5 5 k260) 敦賀口 今庄口
事故現場
敦賀口より約5.3キロ 今庄口より約8.6キロ
×
事故 現場
今 庄 口 敦
賀 口
2565
(貨物)
下1
上3
501
約400m 敦賀方
下り 上り
木ノ芽信号所
約300m 約1700m
506M 506M
今庄方
最初の停止 2度目の停止 事故発生停止
55k260
機
(数字は、今庄側から○両目)
食 12
13 15 14
郵
荷 約60m
501列車(急行きたぐに号)の切離作業後状況
1 2 3 4 5 7 6 8 10 9 11 後部側
(敦賀側)
乗客98名 乗務員9名
前部側
(今庄側)
乗客663名 乗務員4名
現場 拡大図
図Ⅲ-2 501 列車(きたぐに号)の編成および職員の配置、火災発生箇所 出所: 鉄道火災対策技術委員会(1974 年)、前掲、6~9 頁。日本国有鉄道監査委員会(1973 年)「北陸
本線北陸トンネル列車火災事故に関する特別監査報告書」5 頁、35~36 頁。以上をもとに筆者作成。
図Ⅲ-3 北陸トンネル列車火災事故現場
出所: 鉄道火災対策技術委員会、前掲、44~47 頁。日本国有鉄道監査委員会、前掲、
5 頁、33~34 頁。以上をもとに筆者作成。
169
(2)被害状況 1)死者 30 名
北陸トンネル事故で死亡した 30 名(乗客 29 名、国鉄職員 1 名)は、いずれも前部側に 乗車していた者で、火災で発生した一酸化炭素等の有毒ガスによる中毒が死因とされてい る。避難の途中、有毒ガスにより意識を失い、気道の窒息症状をきたしてトンネル内で死 亡したものと思われる(60)。死亡者の内訳をみると、30 名のうち男性が 15 名、女性が 15 名と同数であり、年齢構成では 40 歳代が 8 名と一番多く、以下 50 歳代 6 名、60 歳代 5 名 と続いている(61)。
なお、犠牲者のうちの1名(乗客)は、事故当日には発見されず、事故から1週間後の 13 日午後に発見されている。発見が遅れたのは、有毒ガスにより昏睡状態に陥り、誤って トンネル内の下水暗渠の水中に落ち溺死したためであった(62)。
2)負傷者 714 名
後部側に乗車していた乗客 98 名のうち、早期に避難を開始し徒歩でトンネルを脱出した 28 名は無傷であった。そのほかの乗客 70 名は、加療1カ月以上が 8 名、1カ月以内の軽 症が 62 名であった。
一方、前部側に乗車した 663 名のほとんどが負傷し、無傷の者は 20 名程度であった。前 部側のうち 1~4 両目の乗客は、早期に避難を開始し、徒歩でトンネルを脱出、またはトン ネル内で停車中の 506M 列車に救助されたことで、加療 3 週間以内の負傷で済んだ。しかし、
5~10 両目の乗客は、避難の開始が遅れたため、重傷に至った者が多かった(63)。
患者の多くは、刺激性ガスによる呼吸器系の炎症が特徴的に見られたため、「北陸トンネ ル列車火災事故医療対策委員会」により「北陸トンネル災害症」という病名が付けられた
(64)。
重症患者は、高圧酸素治療が受けられる大都市の病院へ転送するために、ヘリコプタ―
で 8 日午後に京都へ、9 日夕方には臨時のお座敷列車で兵庫へ、そして 10 日午前に救急車 で名古屋へ搬送された。幸いにも、一部の負傷者を除き、後遺症が懸念される一酸化炭素 中毒の症状は見られなかった(65)。
入院した患者は、事故直後の 11 月 7 日には 422 名に達した。その後、退院者も増えてい ったが、事故発生から 2 カ月経過した 1973 年 1 月になっても、約 40 名が継続して入院し ていた。入院患者が利用した医療機関は、11 月 7 日時点で地元の敦賀、武生地域が全体の 9 割であったが、2 週間後には転院により地元以外の割合が 7 割を超えるようになり、その
170
中には秋田県や新潟県、愛媛県の病院までも含まれていた。本列車が大阪駅を出発した 11 月 5 日は飛び石連休最後の日で、ビジネス客や地元へ帰省する者が多く、乗客の出身地が 広域に渡っていたためであった(66)。
(3)火災の原因
国鉄監査委員会の報告書によると、同報告書が公表された時点では、火災の原因は警察 等の関係機関において調査中とされている。ただし、出火した場所はほぼ特定されている。
それは、図Ⅲ-2 のとおり食堂車の喫煙室腰掛付近とみられており、当初報道されたように 厨房からの失火ではなかった(67)。
この事故では刑事訴追が行われたが、その刑事裁判の判決では、三通提出された鑑定書
(68)のうち、電気火災の専門家である自治省消防研究所室長の糸谷成章による鑑定書(1974 年 7 月 10 日付)が最も合理的に説明できるものと評価されている(69)。それによれば、椅子 下床面にある電気暖房器のリード線と車内配線との接触不良による漏電が失火の原因であ る、と結論づけられている。その根拠として、糸谷は事故後に押収された本暖房機の被熱 痕跡を挙げ、暖房機の床面側が短時間のうちに異常な高温で燃焼したのは、床面で漏電火 災が発生した以外には考えられないと指摘している(70)。
警察による鑑定のほか、消防でも消防法第 7 章に基づき、火災調査が行われた。消防は、
警察による暖房機の押収により、十分な現場見分ができなかったものの、同種の暖房機を 用いた再現実験などから原因は不明火であるとの警察とは異なる結論を出した。過失の責 任追及を主眼におく警察捜査に対し、幅広い観点から事故原因を究明しようとする消防に よる調査との違いが如実に出た結果となったといえよう(71)。
(4)被害を拡大させた要因
国鉄監査委員会の報告書では、被害を拡大させた要因として、以下の六点が挙げられて いる。
(要因1)車両の燃焼した壁・天井の一部から大量の煙や有毒ガスが発生
火災が発生した車両は、1930 年に寝台車として製造され、1960 年に食堂車へ改造された。
その際、壁や天井の一部に難燃性であるが、燃えた場合に有毒ガスが発生する新建材が用 いられた。この新建材はあくまで難燃性であり、不燃性ではなかった。ところが、第 5 節 で詳述する石勝線列車脱線事故では、脱線により燃料タンクが破損したため、客室内に使