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112 車両 和風客車みやび7両(大破)

橋脚水平材3本(損傷)、橋側歩道約170m(落下破損)

レール14本(曲損)、まくらぎ220本(破損)、軌道材料多数(破損)

電気 電柱3本(倒壊)、信号高圧線2本(断線)、通信用ケーブル6本(断線)

カニ加工場1棟(全壊)、民家2棟(半壊)、倉庫3戸(一部破損)

国鉄内

施設

部外

関西電力の送電線(切断)、NTTの通信線(切断)

③ 被害状況

この列車転落事故にともない、死者 6 名(公衆 5 名、車掌 1 名)、負傷者 6 名(公衆 3 名、日本食堂社員 3 名)の計 12 名が死傷した。事故で死傷した公衆 8 名は全員、カニ加工 場である有限会社鎌清商店で働くパート従業員であり、地元に住む主婦たち(40 代 6 名、

60 代 2 名)で構成されていた。1987 年 2 月末の段階で、負傷者 6 名のうち 1 名が入院中、

5 名が通院治療中であった。また、主な物損被害は表Ⅱ-24 のとおりである。橋脚自体の損 傷はほとんどなく、第 5、6 橋脚の下部付近に 3 箇所見られる程度であった。橋りょう付近 ではカニ加工場が全壊したほか、2 棟の民家が半壊したが、幸いにも人的被害はなかった

(71)。

表Ⅱ-24 被害状況

出所: 福知山鉄道管理局(1987 年)「余部橋梁列車脱線事故資料」2 頁、14 頁をもとに筆者作成。

2)風速計と CTC 指令での取扱い

① 風速計と CTC における本来の取扱い

事故当時、CTC 指令には橋りょうに設置された風速計が 15 メートル以上になると橙黄色 の表示灯が点灯し、25 メートル以上になると赤色灯が点灯するとともに、強風警報ブザー が鳴動する強風警報装置が設置されていた。この装置は、風速 15 メートル未満になると滅 灯するが、風速 25 メートル以上のブザーが鳴動した場合、赤色灯の表示部を押すとブザー は止まるが、その後風速が 25 メートル未満となっても赤色灯は 3 分間点灯したままとなる。

よって、風速の検知は赤色灯が一度点灯してから 3 分経過するまでは行われない。ところ で、風速計は図Ⅱ-12 のとおり第 3 橋脚上(⑪/CH1)と第 7 橋脚上(⑫/CH2)に設置さ れており、2 箇所で観測された風速値のうち高い方が警報装置へ電送される。香住駅には、

強風警報装置のほか風速記録計があり、風速値の推移を波形で確認することができる(72)

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・ 1958年6月から1960年5月まで試験的に風速測定が行われた時の風速計設置位置:①~④、A,B,C (7箇所)

  ④は、既存の運転用風速計位置(1935年設置の3杯型発電式風速計)

  2つ目の風速計は、1961年に第4橋脚の海側へ数10m離れた地点に設置(上記と同じ3杯型発電式風速計)

  昭和61年の事故当時、風速計は橋りょう上の京都方(東側)より69m(図の⑪/CH1)と鳥取方(西側)より126m(図の⑫/CH2)に   設置されていたが、CH1は停止していた。

第11 橋脚

第10 橋脚

第9 橋脚

第8 橋脚

第7 橋脚

第6 橋脚

第5 橋脚 餘部駅

第4 橋脚

第3 橋脚

第2 橋脚

第1 橋脚

京都方

鳥取方

東下谷

トンネル

図Ⅱ-12 風速計の設置位置

出所: 香美町、前掲書、6 頁、11 頁。塩谷正雄・高橋喜彦(1962 年)「山陰線余部橋りょうの受ける風 速および風圧」『鉄道技術研究報告』第 272 号、7~9 頁。西村俊夫・大野正二郎(1966 年)「余部 橋梁の実態と対策」『構造物設計資料』34~35 頁。以上をもとに筆者作成。

強風警報装置の赤色灯が点灯しブザーが鳴動した場合の取り扱いは、福鉄局運転特殊取 扱基準規程 25 条および福鉄局 CTC 運転取扱基準規程 70 条に基づき、以下のとおりとなっ ていた(73)

(ⅰ)CTC 指令員は隣接駅(下りは鎧駅、上りは久谷駅)の出発信号機に停止信号を現示 させ、各出発てこに「出発取扱禁止」の表示板を設置する。

(ⅱ)指令員は特殊信号発光機(以下、「特発」という)の手動制御てこを扱い、制御反応 燈の点灯により発光信号機が現示されたことを確かめた上で、ブザーの鳴動を止める。

② 事故当日における風の状況と CTC 指令員の取扱い

事故が発生した 12 月 28 日の午前 9 時頃、日本海南部には 1008 ミリバールの渦上の低気 圧が停滞していた。これにより日本海沿岸では突風をともなう強風が吹き、鳥取気象台で は 13 時に 30.5 メートル、豊岡気象台では 13 時 40 分に 26.1 メートルの最大瞬間風速を記 録した。事故当時、兵庫県北部地方には陸上で風速 10~15 メートル、海上で 15~20 メー トルの強風・波浪注意報が発令中であった。この強風により、余部橋りょう付近では重量 1.9 トンもある鉄製の人道橋が落下し、直径 60 センチの松の木が折損した。また、豊岡市 でも 40 箇所以上で公共施設の窓ガラスや屋根の破損、倒木等の被害が発生した(74)

事故当日の CTC 指令所には、指令長 A、副指令長 B、余部橋りょうを含む相谷(竹野~佐 津間に存在した信号所であり、現在廃止)~居組間の E 制御卓を担当した指令員 C を含む 15 名が勤務していた。同日 13 時頃から列車が脱線転落した連絡を受けた 13 時 30 分頃ま

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時刻 事象 取り扱い等

13:00頃 (浜坂駅より)余部橋りょうの 風速に関する問い合わせ

・香住駅に確認(橙黄色のランプが点灯により問題なし)

・5D列車(はまかぜ1号)を定刻どおり発車させた(香住駅13:02発) 13:05頃 山陰線浜坂~居組間で

軌道短絡発生(A) 線路上へ飛んできたトタンによる

13:10頃 1回目の強風警報装置の 警報ブザーが鳴動

・香住駅に確認(瞬間25m、現在20m前後)

・Bがブザーを止めた

・Cは、突風と思い5D列車の抑止を取らなかった

・A、Bは、Cの措置を是正しなかった 13:12

~13:13頃

軌道短絡(A)が解消して いない

・Aは5D列車を浜坂駅2番線で抑止させることをCに指示  ※浜坂駅3番線は527列車が13:01より停車のため、

   臨客第9535列車は入線できない状況

13:14頃 ・AはCに臨客第9535列車を久谷駅まで運行することを指示

・臨客第9535列車を定刻どおり発車させた(香住駅13:15発) 13:21頃 2回目の強風警報装置の

警報ブザーが鳴動

・Bはブザーを止めた

・Cは、臨客第9535列車の抑止を取らなかった

・AはCの措置を是正しなかった 13:25頃 CTCが不能

での CTC 指令での取り扱いを表Ⅱ-25 にまとめた。同表によれば、当日は 13 時 10 分と 13 時 21 分にブザーが鳴動したが、前者は既に列車が橋りょうを通過し、後者は今から特発を 扱っても間に合わないとそれぞれ判断されたために、C は特発のてこ扱いを行わなかった。

また、B は 2 回とも鳴動したブザーを止めたに過ぎず、適切な指示を行わなかった。事故 発生時は、A,B,C とも軌道短絡による列車遅れを少しでも回復させることから、運転整理 業務に追われていた。当日の CTC 指令所には 15 名の指令員が配置されていたが、事故発生 時は昼休みにともない 11 名の指令員がセンターに在籍していた (75)

表Ⅱ-25 事故当日における CTC 指令員の取扱い

注: 臨客第 9535 列車は、香住から浜坂へ回送運転を行う和風客車みやび(13:25 脱線、転落) A:指令長、B:副指令長、C:指令員(E卓)

出所: 鉄道判例研究会(1995 年)『鉄道事故民事判例集』285~286 頁。福知山鉄道管理局、前掲、4 頁。

以上をもとに筆者作成。

③ 事故後の対策

事故後、余部橋りょうでは強風警報装置と特発の連動が行われたために、強風警報が出 た場合には特発が自動的に作動されるようになった。また、橋梁の風速計および記録装置 が 1 基増設され、CTC センターで風速値の変化状況が確認できるように記録装置はセンタ ー内に設置された(76)

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以上の対策により保安度は高まった反面、余部橋りょうにおける列車運行の定時性が大 幅に低下した。そのため、余部橋りょうは 2010 年 8 月に、従来のトレッスル橋にかわり風 速 30 メートルまで運行可能な防風効果を備えたエクストラドーズド橋へと架け替えられ た。これにより、その後は強風による運転抑止本数は従来の 20 分の 1 まで減少し、定時性 が大幅に改善された(77)

3)橋りょうの変遷

余部橋りょうは、山陰本線最後の難所として 1909 年に着工し 1912 年に完成した。これ にともない、山陰本線福知山~出雲今市(現、出雲市)間が全線開通した。鉄道院は、香 住~浜坂間の距離や掘削するトンネル長を最短とするために、日本海から約 70 メートルの 至近距離で標高 43.9 メートルという高い場所に長さ 309 メートルの橋りょうを建設した。

鉄道院は、橋りょうを建設するにあたり当時主流であった煉瓦や石積みの橋りょうは防振 上問題があると判断した。また、コンクリート橋は当時実績がなかったことから、鋼製の 櫓を組んで橋脚するトレッスル構造が無難であると考えた。なお、本橋りょうは橋長、橋 脚数ともに国内のトレッスル橋としては最大であった(78)

海岸にほど近い余部橋りょうは、常時潮風を受けており、特に冬期はウラニシと呼ばれ る北西からの強い季節風が吹くことで鋼材腐食の進行が早い。そのため、完成から 3 年後 の 1915 年より橋りょうの腐食防止を目的に、請負によるペイント塗装工事がはじまった。

また、1917 年以降は日本ペイント製造の塗装工が鉄道院職員として採用され、橋りょう下 の詰所を拠点に補修や点検が行われるようになった。塗装工は、橋りょう東側の東下谷ト ンネル入口付近の見張番所で橋りょうの監視を監視しながら、強風時には関係者へ通報を 行っていた(79)

表Ⅱ-26 は、開業から事故発生までの余部橋りょうの変遷であるが、1935 年には第 1 橋 脚~第 2 橋脚間の海側に独立柱(図Ⅱ-12 の④)を建て、その上に三杯型電気式風速計が 設置された。同橋りょうでは、当初、強風による列車抑止は風速 30 メートルと定められて いたが、1960 年代あるいはそれ以前から風速 25 メートルで列車を抑止させる早目規制が 行われるようになった。1950 年代末には、既存の風速計が受ける風速値と橋りょう各部に おける値との差異を確認するために、図Ⅱ-12 のとおり風速計を 6 台(①~③、A~C)増 設し、風速の測定が約 2 年間にわたり全部で 36 回行われた。表Ⅱ-27 は、既存の風速計(④)

で測定された風速値を 1 としたときの各風速計の値である。これによれば、測定された最 大風速の平均値は既存の風速計が最も高く、鳥取方の風速値は京都方に比べ低い傾向にあ