98 再発防止に有効な対策
第4節 同種事故の発生が懸念される鉄道事故の分析
(1)参宮線下庄~一身田間列車脱線事故 1)事故の概況と被害状況
1923(大正 12)年 4 月 16 日 12 時 50 分頃、参宮線下庄~一身田間の築堤上で左右レー ルの振替作業中に、湊町(現、JR 難波)駅 8 時 30 分発鳥羽行き下り 62 列車が速度約 58 キロで現場へ進入し、脱線転覆した。事故が発生した三重県河芸郡大黒村大字山室(現、
三重県津市大里山室町)とその周辺を図Ⅱ-5 に示す(44)。
本作業では、上り 310 列車が現場を通過(12 時 40 分頃)後、次の上り 61 列車が通過(13 時 20 分頃)するまでの約 40 分間の列車間合において、9 名の保線職員らにより 3 組の左 右レールを振り替える予定であった。保線職員らは、一身田側となる 1 組目の作業を終え、
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2 組目の片側レールを外しもう一方のレール側に寄せ、下庄側となる 3 組目のレールを取 り外そうとしたその時に、下り 62 列車の接近音に気付いた。現場にいた作業員は、手元に あった合図旗を持ち、列車進来方向に向かいながら両手を挙げて停止合図を送った。また、
工具を取りに戻る途中であった作業員は、現場から約 100 メートル離れた箇所で列車の接 近に気付き、両手を挙げて列車に停止合図を送った。62 列車の機関士は、保線職員らの合 図に気付いたものの、速度が速かったことから現場手前で列車を停車させることはできな かった(45)。こうして、機関車が脱線・傾斜し、1~3 両目の客車はレールから約 3 メートル 下方の築堤に沿った道へ転落・大破、4~5 両目客車も折り重なるように大破し、6~7 両目 客車も脱線・破損した。事故が発生した箇所は、亀山駅から約 8.2 キロの下り 66 分の 1 勾配に隣接した平坦な場所で、半径約 300 メートル高さ約 7.9 メートルの築堤上であった。
これにより 6 名が死亡、200 名が負傷した(46)。
本事故は、明治・大正期に発生した重大事故の中で最大の死傷者を記録し、当時の新聞 である『鉄道時報』には、鉄道の事故史上ほとんど先例なき大事故であり、国有鉄道の一 大不祥事であると記された。事故を起こした列車の客車は木製車両で、原形を留めぬまま 粉砕したことが被害を拡大させたといわれている。
事故現場では、亀山や津から駆けつけた救援隊や下り 62 列車に乗り合わせていた軍艦伊 勢の乗組員 18 名が救助にあたった。その後、脱線した下り 62 列車の次に通過予定であっ た上り 61 列車が現地に到着し、死傷者全員を乗せたまま津方面へ引き返した。そして、負 傷者は近隣の津市にある津市立病院や赤十字社病院のほか名古屋、大阪、神戸の病院等へ と収容された。また、東京、名古屋、神戸の鉄道病院から関係職員が現地へ派遣され、負 傷者の手当てが行われた。事故現場では、鉄道職員の懸命な復旧作業により翌日 17 日の早 朝 3 時 40 分に復旧した(47)。
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関西本線 名古屋方
湊町(大阪)方
参宮線(現、紀勢本線)
亀山駅
下庄駅
一身田駅
津駅
×
事故現場
鳥羽方 三重県河芸郡大黒村大字山室
(現、三重県津市大里山室町)
亀山駅から五哩六鎖(約 8.2キロ)
図Ⅱ-5 参宮線事故現場の周辺図 出所: 岩瀬修治(1924 年)『鉄道事故判例集』鉄道
図書局、132 頁をもとに筆者作成。
2)事故当日の列車運行
事故が発生した 1923 年 4 月 16 日の参宮線亀山駅から一身田駅までの列車ダイヤと運行 実績を図Ⅱ-6 に示す。なお、この図には、全列車ではなく本脱線事故に関係する列車のみ を記載している。
下り 60 列車は、湊町駅を朝 6 時に発車したが、満員乗車による重量オーバーのために、
関西本線大河原~島ヶ原間の 40 分の 1 の急勾配区間において空転が発生した。そのため、
下り 60 列車の機関士は、一度後退を行ったのちに勾配を駆け上がろうと試みたところ、5 両目の連結部分が破損したことから、乗務員らは手歯止め装置による転動手配を行ったう え、発雷信号による危険信号を発報した。また、乗務員らは、タブレットを持参して最寄 りの大河原駅まで駆けつけ、車両故障の発生を報告した。下り 60 列車は、現地に約 1 時間 停車後、後続列車である湊町 6 時 50 分発の下り 204 列車によりけん引された(9 時 35 分)
(48)。
その頃、参宮線への乗り換え駅である亀山駅では、下り 60 列車の到着を待つ名古屋方面 からの乗客であふれていた。そのため、亀山駅員は運転整理業務を行うために派遣された 神戸鉄道局湊町運輸事務所員らと協力して図Ⅱ-6 のとおり、下り 60 列車に代わる亀山駅 始発の新たな列車を仕立て、60 列車とほぼ同じダイヤで運行させた。この列車を特発 60 列車と呼ぶ。ところで、関西本線で車両故障が発生した 60 列車は、予定より 1 時間 47 分
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9 10 11 12 13
亀山駅
下庄駅
一身田駅
事故現場
48 54 60レ 予定
60レ 遅れ
58 01
60レ 特発
62レ 予定
30 11 36
作業間合 310レ(12:40頃) ~ 61レ(13:20頃)
事故 62レ 遅れ
310レ 61レ
遅れの 11 時 35 分に亀山駅へ到着した。この遅れて到着した 60 列車を遅れ 60 列車と呼ぶ。
亀山駅は、下り 60 列車に相当する特発 60 列車を事前に運行させたことから、遅れ 60 列車 を亀山駅で打ち切るべきであった。ところが、本来鳥羽ゆきであった本列車は既述のとお り乗客が多く、運輸事務所員らの判断により引き続き鳥羽まで運行された。
ところで、遅れ 60 列車は、図Ⅱ-6 のとおり 11 時 58 分に亀山駅を発車した。これによ り、遅れ 60 列車は、同駅 12 時 1 分発の下り 62 列車とほぼ同じダイヤで運行された(49)。 その後、湊町駅を 8 時 30 分に発車した下り 62 列車は、35 分遅れで亀山駅を 12 時 36 分 に発車し、下庄駅で上り 310 列車と行き違いを行った後、12 時 50 分頃にレール振替作業 中の現場を通過した際に、脱線転覆した(50)。
図Ⅱ-6 事故当日の列車ダイヤ 注: 本事故に関連する列車のみ記載(その他の列車は省略)
予定では 2 本の列車(点線)が走行のところ、実際には 3 本の列車(実線)
が走行。
出所: 岩瀬修治、前掲書、132~135 頁をもとに筆者作成。
3)ヒューマンエラーと事故の背景要因
この事故では保線職員と運輸事務所員がヒューマンエラーを犯している。以下、それら の背景要員を整理しておく。
① 保線職員
第一に、保線職員は 4 月 16 日に脱線事故が発生した箇所は、作業が許可されているもの と誤信し、作業を開始した(51)。
第二に、保線職員は下り 62 列車とほぼ同じダイヤで運行された遅れ 60 列車を下り 62 列車と誤認したために、上り 310 列車が通過してから上り 61 列車が通過するまでの約 40
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分間は他の列車が来ないと判断し作業を開始した。これにより、保線職員は列車の接近音 に気付くまで、下り 62 列車の進来を想定することができなかったと思われる。また、脱線 事故が発生した箇所は、半径 300 メートルの曲線区間で見通しが悪かったことから、保線 職員は列車の進来を、下り 62 列車の機関士は保線職員が作業中であることに気付くのが遅 れたと思われる(52)。
第三に、保線職員は作業箇所が見通し不良区間であるにも関わらず、本来設置すべき停 止、徐行信号等の標識を怠り作業を開始した。仮に標識を設置していれば、機関士は作業 中であることに気付くことができ、作業箇所手前で停車できたものと思われる(53)。
② 運輸事務所員
第一に、運輸事務局員は関西本線で発生した車両故障にともない大幅な遅延が発生した ことから、下り 60 列車の代わりに特発 60 列車を運行させた。そのため、亀山駅に 1 時間 47 分遅れで到着した遅れ 60 列車は亀山駅で運転を取りやめるか、臨時列車として機関車 の前面に白円板を掲げて運行を継続する必要があった。当時の臨時列車取扱規程によれば、
遅れ 60 列車の一本前となる亀山駅 11 時 16 分発の下り 303 列車は、列車後部に赤円板を取 り付ける必要があったが、多客を理由に遅れ 60 列車を継続して運行することを決めたのは、
下り 303 列車が発車した後であり、以上に示す臨時列車の手続きを行うのは不可能であっ たと思われる。さらに、下り 62 列車は 35 分遅れで運行され、事故当日は通常よりも 1 本 多く運行されたことになる。仮に、下り 62 列車を臨時列車として運行した場合、1 本前に 運行された遅れ 60 列車の後部に赤円板を掲げていれば、保線職員は下り 62 列車の存在に 気付くことができ、本脱線事故を回避できた可能性があったと思われる(54)。
第二に、運輸事務局員は保線区に電報あるいは電話を使って臨時列車の運行を通知して いなかった。その背景には、運輸事務局員と保線職員との連携ミスが考えられるが、運輸 事務局員は承認された作業時間帯以外であったため、保線職員への連絡は必要がないと判 断したものと推測される(55)。
③ 車両
これまで、保線職員や運輸事務局員のヒューマンエラーと脱線事故の発生について述べ てきたが、ここでは被害を拡大させた要因について考えてみる。
第一に、客車が木製であったことである。そのため、転覆した客車は、大破・粉砕し、
多くの死傷者が発生した。その後、1926 年 9 月 22 日に山陽本線安芸中野~海田市間で築 堤崩壊にともない発生した脱線事故では、本事故と同様、木製客車であったことで車両が