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第3章 解放前の上演実態―木偶芸人へのインタビュー による― による―

第2節 鄭明祥の話

鄭明祥は普陀布袋木偶戯を代表する「鄭家班」69の座長である。鄭明祥は 1929 年上 海に生まれ、原籍は普陀の沈家門である。幼いころに病気をしたので、足が少し不自 由である。本当の父は上海で働いていた家具職人で、上海事変の時、鄭明祥は家族と 共に沈家門に戻った。上海事変の後、生計のために上海に戻った父は事業が失敗して、

自殺した。母は沈家門で再婚し、結婚の相手は木偶芸人である。鄭明祥は 15 歳の時、

継父の勧めで木偶芸人となった。上演は父と共に地元の沈家門だけではなく、様々な 島を回って行った。政府の方針により、芸能の集団化がすすめられた時に、鄭明祥は 臨時に文化局所属の木偶劇団に雇われ、文革まで上演を続けた。文革収束後、文化局 の木偶劇団が再建され、鄭明祥は再び参加し、主演として活躍していた。1984 年、文 化局の木偶劇団の解散を機に、弟子たちと共に自らの個人戯班―「鄭家班」を回復し た70。鄭明祥の略歴は以下の通りである。

5 鄭明祥年譜(1929 年—2014 年)

西暦 年齢 出来事 社会と関係ある出来事

1929

1932

1937

1939

1943 1944

1952

1959 0 歳

3 歳

8 歳

10 歳

14 歳 15 歳

23 歳

30 歳

・上海生、原籍は舟山沈家門。父は家具職人、上海で 店を開く。兄一人の四人家族。

・上海事変で一家は沈家門に戻る。父は上海で再興を 期すが失敗、自殺。

・母再婚、継父の籍に入り、鄭姓になる。入塾(1年 半)。継父は人形遣い。

・継父に二胡を習う。

「曲芸傀儡協会」に出入りし、「唱班」で二胡を弾く。

・木偶戯班を立ち上げ、上演を始める。

・木偶芸人周章に弟子入り、楽器は潘如明に弟子入り。

・父に自分用の舞台をもらい、独立して舟山で巡回上 演を始めた。

・個人戯班として「友好木偶劇団」という名前で沈家 門の文化館に登録。

・他の劇団と連携して「定沈聯合木偶劇団」を設立。

・12 月から解放前に国民党と関係があったとして「管

・第一次上海事変(1932 年 1-3 月)

・1949 年中華人民共和国成 立。

・1950 年 5 月 17 日舟山群 島解放。

・1959 年県文教局(現在の 文化局)所属の「東昇木偶

69 「鄭家班」は 2000 年から鄭明祥の弟子の潘偉慶(定海白泉出身)に譲った。

70 1961 年以降の経歴は第 4 章に詳述。

59 1961

1962 1965

1979

1984 2000

2014

32 歳

33 歳 36 歳

50 歳

55 歳 71 歳

85 歳

制」(党の観察下に置かれる)

・県立の「東昇木偶劇団」に加入するも、正式な団員 にはなれなかった。

・12 月「管制」解除。

・文化大革命開始前に沈家門に戻り、漁網を編む杼を 露店で売る。

・「新放木偶劇団」の正式な団員(主演)として加入。

多くの弟子を育成。現在、舟山を代表する人形遣い侯 雅飛も当時の弟子。

・「新放木偶劇団」解散、弟子と個人戯班を再開。

・隠退、弟子のために上演用のテキストを書く、人形 の服や帽子、道具を作る。

・死去。

劇団」と「舟山曲芸隊」が 設立される。

・1966 年文化大革命開始、

木偶戯は「四旧」として批 判される。

・木偶戯の上演はすべて禁 止。

・1972 年木偶戯はこの時期 まだ再開の許可が出てい ない。

・1979 年、県文化局所属の

「新放木偶劇団」成立。

・1984 年、「新放木偶劇団」

解散。

1 「曲芸傀儡協会」と「唱班」

「曲芸傀儡協会」は普陀木偶芸人の集まりで、1920 年代に成立し、解放前まで続い ていた。鄭明祥が 10 歳頃に、協会には 13 の木偶戯班が加入しており、専用の事務室 を借りていたという。事務室の壁には 13 枚の竹の札が掛けてある。それは 13 の戯班 を表す。竹の札には班主の名前が書いてある。木偶戯をやってほしい人、即ち上演の 依頼者は直接芸人の家を訪ねる場合もあるが、そのほとんどは事務室から戯班を呼び に行く。上演の依頼者は舟山島の定海や沈家門のほか、その周囲の小さい島からの人 たちも少なくなかった。事務室では、上演の注文があれば、上述した 13 の戯班が順 番で上演に行く。竹の札の順番は、上演順でもあり、先に事務室に着いた人が先に上 演する。このようなやり方は「輪籌出戯」と呼ぶ。芸人たちは毎日夜が明けるとすぐ 事務室に行って早い出番を取るために待っていた。もし用事があって、途中で席をは ずすと、その札は最後に置かれる。事務室で出番を待つ間に、芸人たちはお茶を飲み ながら、雑談をしたり、技を研究し合ったり、のどを訓練したりしていた。協会には、

給仕が雇われていた。給仕の給料とお茶代は、上演が終った戯班がもらう上演料から 少しずつ出すのが決まりだった。

夕食の後は、13 の木偶戯班が 13 の「唱班」に早変わりする。「唱班」は港に夜、

船を出して二胡、を弾きながら歌って客を招く商売である。その商売は輸送用の小船

60

を借りて、沈家門港から魯家峙まで(200 メートル)の海上で行う。「唱班」の小船 は海を繰り返し回っていた。人形遣い手は二胡の伴奏を担当した。その他に、船頭、

語り手、鼓板を叩く人、つまみを売る人がいた。船頭以外は、皆若い娘であった。そ の娘たちは、この仕事を口実に、身を売り、つまり売春である。しかし、船の中には 神様がいるので、翌日その娘の家に行くことを約束する。このような商売のため、け んかなどの事件が起きた時には、権力を持つ人の後ろ楯が必要だった。当時、協会を 管理したのは国民党の士官を務める王宝金(不詳)だったという。当時の沈家門には、

国民党軍や日本軍、地元の漁民や福建省からの漁民などがいて、大漁の季節になると、

大勢の人がそこに集まって来た。協会には木偶芸人のほか、40 人の若い娘も属してい た。その人たちは沈家門では金が儲かることを知って、農村から集まって来た。当時、

小さな沈家門には上海の賑やかさがあると言われた。「曲芸傀儡協会」の曲芸とは「唱 班」の活動を指している。

鄭明祥は 14,5 才の時、父の代わりにしばらく「唱班」に加わった。当時、運輸の 仕事をしていた兄が船頭で、鄭明祥は二胡の伴奏であった。

2 弟子入りの話

以下、インタビューをもとに整理したものである。

私は小さいころから足が不自由で、15 歳の時、父の勧めで木偶戯を習い始めた。木 偶戯を学ぶなら、14,5 歳が一番いい年で、素直に勉強できるからだと父はこのように 言った。

木偶戯を学ぶときには、自分の親が木偶芸人であっても他の芸人に弟子入りする必 要がある。これは我々の職業の決まりである。弟子入りをしなければ、どんなにうま くできても「嘸師父」(師匠がいない)の芸人だと呼ばれ、馬鹿にされる。

父が選んでくれた師匠は白泉出身の木偶芸人の周章であり、当時は沈家門に住んで いた。周章は父と同じ普陀区の木偶芸人が集まる「曲芸傀儡協会」に入っていた。

弟子入りの儀礼はとても重要だった。初めて師匠の家に行く時、私は二つの「包頭」

71を持って行った。一つには干した竜眼、もう一つには干したライチが入っていた。

「包頭」を二つ送るのは、師匠と奥さんへの 2 人分という意味である。そして、師匠 は「包頭」を一つだけ受け取って、一つは礼を返すという意味で返してくれた。しか し、片親なら、礼を返す必要はない。なお、毎年、端午の節句には粽、中秋節には月 餅、正月には「包頭」を送ることになっている。

弟子入りをしたら、協会に報告する。

「これは私の弟子だよ、面倒を見てくれるか?」と師匠は同業者たちに言った。

協会の同業者に知らせないと、一人前になっても、「抓同行」ということをされる。

「抓同行」というのは、舞台や道具箱などをすべて奪うこと。つまり、お前の上演は

71黄色の厚い紙で包んだ贈り物、重要な時に贈る。中身は干した竜眼、干したライチのほか、黒いナツ メや赤いナツメなどもある。包みの上には、赤い紙で福など吉祥の文字が書かれている。

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認めていないから、やめろということである。解放前は、木偶芸人の間でこの決まり が厳重に守られていた。

弟子入り期間は三年である。その間は報酬がない。うちは師匠の家に近かったから、

普段通う必要はなく、芝居があれば、師匠が私を呼びに来る。師匠の戯班には、私を 含め四人いた。「前台」(主演)は師匠で、2 人の「後台」(伴奏)は臨時に雇った 者であった。一人が主伴奏で小鼓、小鑼、二胡と嗩吶を担当し、もう一人が副伴奏で 三弦と大鑼、鈸を担当する。私は鼓板を打つのを担当し、師匠の上演を手伝った。時々 二胡を弾くこともあったが、十分な自信がなかったため、小さい音で弾いた。師匠は 暇があれば、指導もしてくれたが、私の場合は父も木偶芸人だから、人形の遣い方に ついてはほとんど父から教えてもらった。上演に出かけると、昼食は木偶戯を頼んだ 家が招待し、夕食は家に帰って食べた。このように、師匠に従って上演したのはおよ そ半年ぐらいだった。翌年、「唱班」の潘如明のところに弟子入りして楽器の修業も した。

3 門付けで仕事する木偶芸人

我々の仕事は本来は一軒一軒訪ねて芸を売る商売で、昔から「吃開口飯」(語りで 飯を食う、門付け)と呼ばれ、とても卑しい仕事だった。上演中に言い間違いをする ことは、少しでも許されない。芝居の内容を間違えるのはもちろん、芸人自身の名前 を言い間違うこともできない。観客は注意深く芝居を見ているため、少しでも間違う と、すぐに気が付く。大騒ぎになれば、観客に謝るしかない。ときには、芝居1回を 罰として無料で上演した。こういうことがあるから、観客は面白がって、注意深く私 たちの上演を見ていた。一方、私たちは衆人の前に身をさらすから、自らの言動に注 意し、粗野なことやいいかげんなことは言えない。

ある時、大榭島では「李太后回朝」72の上演を頼まれた。しかし、この芝居はあま り上演しないので、私は物語を急に思い出せなくて断った。その晩、私はその芝居の 内容を必死に思い出した。何日かのちに、別の村落から来た人もこの芝居を頼んでき たので、私は承知した。上演当日、最初に頼んできた客もそこに芝居を見に来ていた。

すると、その人は、

「この芝居は私が頼んだときは断ったのに、そこでは上演するのか」と怒った。

誤解を解く暇もないうちに、その人は手で私が持っている大鑼を叩いた。大鑼が古 くて真ん中に穴があいていたので、その人の指が穴に突き刺さって、流血の騒ぎにな った。最後には、「当頭人」73の説得で、ここで上演した後、向こうの村にも上演しに 行き、その 1 回目は謝罪として無料で上演することに決めた。

72 裁判物として名高い包公劇の一つ。狸にすり替えられた皇子が二十年後、名判官包公のおかけで実の 母の李太后と再会する団円劇。

73 侯恵義が語った「領班」とほぼ同じだった。