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第5章 舟山布袋木偶戯伝承の現在

第9節 棟上げ式―上梁戯(竪屋戯)―

棟上げ式に上演される芝居は上梁戯、或は竪屋戯と呼ぶ。棟上げ式は新築の無事や 子孫の繁昌を願って行うもので、木偶戯を上演することもよくある。

侯雅飛によれば、2000 年ごろまで伝統的な棟上げ式は行われていたが、(建築様式 も変わった現在では)ほとんど行われていない、という。伝統的なやり方について、

侯雅飛への聞き取りをもとに整理した。

棟上げ式の実施の日取りは風水師が選ぶが、その家族の干支にぶつからないように する。職人たちは予定通りになるように、作業の進度を加減した。

棟上げ式の前日には、式用の饅頭やタバコ、酒、爆竹、蝋燭、対聯、赤布(1枚)、

銀の釘(2 枚)、麻袋、肉、果物、菓子、穀物、茶葉などは親の方が準備して贈って くる。対聯は緑色の紙で、饅頭の印も緑色で、これは火の用心を表れている。

棟上げ式は新築の堂前で行い、儀礼開始前に赤布を被せた棟木を用意しておく。棟 上げ式の儀礼には棟木を上げる式のほかに、「祭神」と「祭祖」も行われる。木偶戯 の上演は「祭神」と同時に潮が満ち始める時から行われる。その時の上演は満潮まで しかできないので、短編の演目を選ぶことが多い。侯家班の場合は「彩頭戯」の「天 官賜福」を選ぶのが定番で、「小搭脚」の話には必ず「今日得造黄金屋,他年再造岳 陽楼,子孫発達興旺,身体健康」という言葉を加える。「天官賜福」の上演には「扔元 宝」の場面もあり、元宝を持つ財神が出ると、この家の主人が元宝を受けて、事前に 用意した祝儀を財神に返す。「扔元宝」のやり方は猪羊戯の場合と同じである。

短編の上演が終ると、満潮の時点にもなり、棟木を上げる式が始まる。木偶芸人は 儀礼の進行に沿って楽器の伴奏を行う。儀礼は進行係の「総管先生」により勧められ る。「総管先生」はまず祝詞を読んで、次にこの家の家族全員に神の前で拝礼を指示 する。拝礼後、棟木を上げる。その時、式の開始を待つ大工と左官は既に屋上に登っ ており、それぞれ一つの麻袋を携えて、その中には祝儀とタバコ、稲、トウモロコシ、

落花生、竜眼、ナツメ、「揺銭樹」(各種の紙幣と硬貨が吊るした松の枝)などが入

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っている。棟木の両端にはそれぞれ縄が結びつけてあり、屋上にある大工と左官、及 び下の人たちとは力を合わせて棟木を上げていく。棟木が上がると、大工と左官は銀 釘を一枚ずつ持って長い赤布を棟木に打ち付ける。「銀釘」は「人丁」に通じ、中国 語の「人丁興旺」にかけて、子孫繁栄を表す。この作業が終ると、大工と左官はそれ ぞれ自らの麻袋から祝儀とタバコを取り出して、めでたい言葉を唱える。この祝儀と タバコは家の主人が大工と左官のために用意したものである。その後、大工と左官は

「早接早発」と言いながら、麻袋の稲、トウモロコシ、落花生、竜眼、ナツメを、下 に投げて子供がそれを受け取る。これは「五谷豊登、万事如意」の意味である。「接」

は「伝宗接代」、子孫が受け継がれるという意味である。子供がいなければ、夫婦が 受け取る。

式終了後、供え物を取り換えて、「祭祖」の儀礼を行う。「祭祖」の儀礼と共に、

木偶戯の上演もと行う。演目の選択は決まりがない。「祭祖」終了後、「竪屋酒」と 呼ばれる宴会が行われる。この宴会は新築祝いと共に職人たちや近所の人、祝いに来 た親戚などへの感謝の気持ちでもある。木偶芸人も宴会に参加する。

供え物の饅頭は「竪屋饅頭」と呼ばれ、宴会 後、それを参加者に配る。その日、儀礼に参加 した大工と左官は平日の 2 倍の給料(「双工鈿」

と呼ぶ)をもらう。

2000 年以前、このような儀礼は盛んに行われ たが、現在は農村で家を新しくすることはほと んどない。新しい家を購入する場合も、マンシ ョンがほとんどである。そのため、伝統的な棟 上げ式もほとんどなくなり、農村出身の人は新 しいマンションを購入する時に、棟上げ式に代 わり、簡単な儀礼をそのマンションで行う。具 体的な儀礼では、棟木を上げる式が象徴的に行 われる。最後の「竪屋酒」も、ホテルでするの が多い。

なお、侯雅飛によれば、定海の紫竹林路にあ る「緑城玉蘭花園」の建築を請負った侯家出身の潘定寛(58 歳)から上梁戯の上演依 頼を受け、2011 年マンションが完成した時に棟上げ式という意味で木偶戯の上演を行 った。

第 10 節 その他

以下に述べる上演は現在、ほとんど行われていないものである。

写真63 竪屋饅頭

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1 新年祈願―謝年戯

歳末に各家で行う祭祀儀礼を舟山では「謝年」、或は「送年」といい、その時に上 演される芝居を謝年戯と呼ぶ。時には、新年を迎える祝福の意を込めて「発財戯」「平 安戯」とも呼ばれる。

謝年は必ずしも大晦日に行うわけではなく、風水師が選んだ吉日に行うので、大晦 日の三、四日前に行うことも少なくない。木偶芸人は自分の家の謝年の祭祀にぶつか らないように、気をつける。

謝年戯は解放前には地主とか金持ちの家でよく行われた。上演終了後、木偶芸人は 家の主人からの祝儀をもらう。現在はあまり行われていない。

昔、舟山各地域のそれぞれの廟には、小正月元宵の灯籠祭りで(旧暦正月)十三日 から十八日の夜、芝居が上演される135。人々は夕食後、灯籠を見に行き、また芝居を 見る。芝居を見に行くときには、供え物を持参して、上演中は供えて、上演が終ると、

また下げて持ち帰ったが、今はほとんど行われていない。

2 船の進水式―発財戯

船の進水式に上演される芝居を、一般に発財戯と呼ぶ。漁民が多い舟山では、造船 に関する行事は多く伝承されていた。舟山の漁民は、船を「木竜」と呼び、船には目 や骨があり、魂も入っていると考えている。船の目は「竜目(竜眼)」と呼ばれ、硬 い木で造った球状のものに瞳を描いた竜目がつけてあり、竜骨はもちろん竜の骨の意 味で、船の棟木ともいう。竜目の裏には銀元が貼り付けている。竜目が完成した後に、

「定彩」(赤布を掛ける)の儀礼が行われる。

造船の開始前には、吉日を選 び、竜骨を設置する時には、神 を祭る儀礼と「船魂入れ」の儀 礼を行う。船の完成前には、新 しい船の安全と豊漁のために、

船主は普陀山に参拝し、願を込 めた三角の旗と観音像をもらえ 受ける。舟山の漁船には、「聖 堂艙」と呼ばれる神棚があり、

観音や媽祖などの神像が祭られ ている。船の安全祈願で普陀山 に参拝することを「焼船香」と 呼ぶ。

135旧暦正月の十三日は灯籠を掛ける日で「上燈日」と呼ばれ、十八日は灯籠を下げる日で「下燈」と呼 ばれた。

写真64 造船の場面と竜目

(舟山市博物館の模型展示 2014 年撮影)

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船の完成後、進水式を行う。地元の漁民によれば、進水式の儀礼は朝満潮の時に浜 辺で行い、「啓眼」「祭神」「赴水」「抛饅頭」の四つの儀礼からなる。「啓眼」は 目を開けるという意味で、竜の目に掛けた赤布を取る儀礼である。「祭神」は木偶戯 の上演と共に始まる。一段の芝居が終ると、「赴水」と「抛饅頭」の儀式が行われる。

木偶芸人は太鼓、銅鑼で伴奏する。船が進水することを「赴水」というが、これは豊 漁を願う「富庶」にかけている。「赴水」の作業は村で壮健な青年(10 人以上)が担 当し、一致協力して作業歌を歌いながら、ゆっくり船を海に進水させる。それと同時 に、爆竹を鳴らし、船主は一籠の饅頭を持って舳先に立ち、儀礼に集まった隣人や親 戚などに投げる。その日、船主は感謝の意を込めて、大工に「双工鈿」(倍の給料)

と行儀を用意した。

ここで言う船は島の浜辺で造った木造の 20∼30 トン数の個人所有の帆船で、それよ り大きい船は小さい島では造らなかった。解放前に漁民の船は、ほとんどこのような 帆船であった。人民公社があった時に、船は集団所有となったので、個人による進水 式も行われなかった。1980 年代以降、帆船は使われなくなり、動力船によって変わら れた。動力船は竜目を造らないので、「定彩」「啓眼」も必要なく、儀礼は簡略化し た。現在、漁業の衰退で個人による造船は少なくなり、進水式の木偶戯上演もほとん どなくなった。1980 年代から木偶戯を上演している侯雅飛は、船の進水式での上演を 一回しかしたことがないという。

3 豊漁祝い―謝洋戯

謝洋とは、豊漁を神に感謝するために行う祭りである。解放前に舟山では広く行わ れていていたが、文革以降漁業が衰退した現在は、政府主催のもの以外は行われてい ない136。政府主催の謝洋の祭りでは、派手な儀礼や現代式の歌舞や著名なアナウンサ ーの司会などによってその意味は大きく変化した。ここで述べる謝洋は民衆が自らの 信仰に基づいて行った儀礼で、1960 年代以降はほとんど行われていない。

謝洋の儀礼と共に浜辺で上演される芝居を謝洋戯と呼ぶ。民国『定海県志』(1923、

方俗志第十六・41 頁)によれば、謝洋戯の上演は多く「季夏」(旧暦 6 月)に行った と述べているが、実は漁の種類によってそれぞれ違う137

解放前に、立夏から夏至までは年中最大の大黄魚(フウセイ、イシモチ類)の漁期 なので、漁民にとっては一番大切な時期だった。その時に漁撈の中心地となっていた 岱山島と衢山島の間の海、「岱衢洋」では舟山群島と浙江省の象山、奉化、鄞県、鎮 海などの漁民がたくさん集まってきた。それが終ると、イカやタチウオなどの漁も行 われるが、船の修理や漁民の休養で漁を止める船も少なくない。諺には「夏至南風呼 呼響,看侬謝洋勿謝洋?」(夏至の南風がびゅうびゅうと吹いて、謝洋をしよう)が

136 政府主催の謝洋は 2005 年から始まり、恒例として毎年 8 月岱山の后沙洋の浜辺で行っている。

137「漁人報賽之戲,多在各海山演之,謂之“謝洋”。其時期多在季夏。」