第4章 舟山布袋木偶戯の変遷(解放後)
第4節 改革開放後の舟山布袋木偶戯
1950 年代の末から改革開放までは大躍進による集団化や、また文革の「破四旧」で は「四旧」の対象として批判されたり、様々な政治的な運動に巻き込まれた。特に文 革中の 1966 年から 76 年までは、民間での上演がすべて禁止された。この約三十年間 は舟山布袋木偶戯伝承にとっては苦難が続き、木偶戯の上演を主な職業とする木偶芸 人も大きな影響を受けた。
革命教育ばかりを受けていた文革時期が終わり、1978 年に改革開放政策がとられる ようになった後も、しばらくの間は、中国民衆の娯楽も、急にはふえなかった。この 時期、舟山で復興し、歴史小説を主な物語として上演した布袋木偶戯は、一時、大い に人気を博した。この時期に新たに政府所属の新放木偶劇団が結成された。一方、娯
124文革中に建てられた幹部学校、実は幹部や文化人を集めて、肉体労働をさせ、思想教育をする場所。
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楽を中心とした木偶戯の上演需要がたくさんあったので、個人木偶戯班も次第に復興 した。
以下、当時成立した政府所属の舟山新放木偶劇団の結成から解散までの過程とそれ とほとんど同時に現れた個人戯班について述べる。
1 舟山新放木偶戯劇団の結成から解散へ
(1)舟山新放木偶戯劇団の結成
舟山新放木偶戯劇団(舟山新放木偶劇団とも呼ばれる)は 1979 年 12 月、元東昇木 偶劇団の団員の王志裕(1935 年生)を中心に組織された集団所有制の劇団である。
第 4 章でも述べたが、王志裕は定海小沙の出身で、17 歳のとき、地元の木偶芸人で ある陳宝金に弟子入りして、木偶戯の遣い手になった。弟子入り期間が終ると、父と 弟の王嗣慶との家族三人で 18 歳の年から木偶戯班を立ち上げて巡演をした。1955 年、
王志裕は徴兵されて軍隊に入ったので、家族の木偶戯班はやめた。1958 年、軍隊から 退役した。1961 年、人の紹介で、当時唯一の公的木偶劇団であった東昇に加入した。
文革による上演禁止の時期を経て、1973 年、東昇と同時に設立された曲芸隊は「唱新 聞」と「走書」の上演を再開したが、東昇の方は団員が退職したり、他の職業を希望 したりして、劇団内には王志裕しか残っていなかった。そこで、舟山地区文教局(現 在の舟山市文化局)は東昇を解散することにし、王志裕は曲芸隊に編入された。
1978 年改革開放政策が始まると、政府の文芸に対する政治的関与も次第に緩和した。
たとえば浙江省の政府所属の木偶劇団も、泰順県実験木偶劇団は 1978 年 3 月(泰順 県政協文史資料委員会 2000:188 頁)、平陽県木偶劇団は同年 4 月(徐兆格 2005:204 頁)に再開した。舟山でも東昇を再開しようとする動きがあった。1979 年 5 月、曲芸 隊に編入されていた王志裕は、舟山地区文化局に劇団再開を求める報告書を提出した。
報告書では、次の五点の要望をした。
① 元東昇木偶劇団の舞台、人形頭、道具などの使用権は保管人としての自分が持 つ。
② 団員が足りないので、3-4 名を募集する。募集した団員の給料は劇団上演所得 から支出、「多労多得」の原則と奨励金制度を実施する。曲芸隊に編入した自 分の給料については、考慮してほしい。
③ 上演再開後、上演先に見せる「介紹信」(推薦書)は舟山地区文化局が出す。
④ 試行期間には、政府への積立金はなしにしてほしい。
⑤ 人形衣装や人形頭、道具の補充と、舞台設備の増設などに使う必要経費は政府 から 300 元補助してほしい。
註:〔档案 1979〕により作成。
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まず、①の要望について検討する。ここで、王志裕が東昇が残した舞台などの使用 権を得ようとしているのは、文革中に個人の舞台がほとんど壊されて、彼自身、自分 の舞台を持たなかったからである。東昇解散時には、王志裕は舟山地区文化局の指示 で、当時使った舞台、人形頭、道具などを保管していたが、保管というのは、集団所 有という意味でもあり、王志裕は勝手に使うことはできず、東昇を再開しても、使用 時には文化局の許可が必要だったからである。
次に、②では劇団を立ち上げる基本条件としての団員と劇団の経済について述べて いる。王志裕は東昇のやり方を参考にして、団員を募集するほかに、「多労多得」の 原則や奨励金制度なども導入しようとした。(第 4 章第 2 節参照)但し、④では芸人 の収入と直接に関わる政府への積立金を、最初の試行期間は徴収しないように求めた。
もと東昇の団員であった王志裕は、政府への積立金が芸人に大きな負担となったこと をよく知っているからだ。(同上参照)③では、王志裕は新たに組織した劇団を、東 昇のように舟山地区の代表的な劇団、即ち文化局所属の劇団にさせるために、「介紹 信」(推薦書)を舟山地区文化局に出させることを希望した。そして、文化局所属を 前提にして⑤では、劇団の再開に関わる経費も求めている。
これらの要望に対して、〔档案 1979〕によれば、舟山地区文化局は次のように回答 した。
① 元東昇木偶劇団の道具などは王志裕が保管し、王志裕が使用することもできる。
② 劇団の名義に舟山地区と東昇木偶劇団を使用することができない。
③ 「介紹信」(推薦書)は舟山地区ではなく、その下の定海県から出す。
④ (王志裕の)所属は曲芸隊に残す、給料は劇団から受け取ることにする。
⑤ 300 元の必要経費については、曲芸隊から借り、余裕がある時に返すことにす る。
⑥ 劇団の性質:今のところは仲間を見つけて上演し、上演市場を把握する。試行 期間では積極的に上演を行い、今後再開のために、努力して条件を整えること を期待している。
舟山地区文化局は東昇の舞台や人形頭、道具などの使用権については、①で王志裕 の提案を受けいれたものの、次の②~⑥を見れば、いずれも王志裕の要望に応じてい ないことが分かる。
まず、②の舟山地区の名義の使用不可とは、再開後の木偶劇団を舟山地区が設置し たものとは認めないということである。東昇は最初から市立の劇団と認められていた。
それと同じ名前を使うと、東昇の再開を認めたことになり、設置者も舟山地区文化局 になるからだ。また、③で上演の推薦書を市の下である定海県が出すのも、舟山地区 が設置した劇団ではないという意味である。そして、王志裕の所属は曲芸隊に残して おくというのも、新たな劇団が市立の劇団として認められていないことを意味してい る。そうすると、新たに募集した団員は臨時の団員となり、舟山地区文化局とは直接 の雇用関係がないことになる。その意味は⑤に書かれている「劇団の性質」にはっき りと示されている。
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舟山地区文化局は劇団を市立として認めなかったため、王志裕が⑤で要望した 300 元の補助金提供も拒否した。
一方、劇団を作って木偶戯の上演を再開することには同意した。これは⑥の今後再 開のために、努力して、条件が整えば、ということから分かる。そのため、文化局は 劇団を立ち上げる必要経費を曲芸隊から借りるように提案した。
舟山地区文化局との打ち合わせは王志裕の思う通りにいかなかったが、劇団の再建 は予定通りに始まった。1979 年 6 月、新放木偶劇団が結成され、団員は王志裕のほか、
鄭明祥、王嗣慶、侯雅飛、満春の 5 名だった。鄭明祥(1929 年生)は、1961-66 年東 昇では非正式な団員として働いていたが、1966 年文化大革命開始後、劇団を辞めさせ られた。王嗣慶(1938 年生)は王志裕の弟で、1964 年には非正式な団員として東昇 で活動したことがある。侯雅飛(1952 年生)は新たに加入した女性団員で、解放前に 個人木偶戯班を行っていた侯恵義の娘である。満春は劇団の若い団員ということしか 分かっていない。
(2)上演の再開
上演再開のために、1979 年 6-9 月の間は舞台を修理したり、使えなくなった人形頭 と人形の衣装・帽子を取り換えたりして様々な準備が行われた。準備にかかった費用 は 390 元で、予算を 90 元越えた。これは文化局の指示ですべて曲芸隊からの借金だ った。9 月中旬から上演を始めた。上演開始の約半年後、劇団は借入金を返した上に、
約 220 元の利益を得た。
1979 年 9 月中旬から 1980 年 2 月までの新放の支出統計表は次の通りである。
表15 新放木偶劇団の収支統計表(1979 年 6 月-1980 年 2 月)(単位:元)
1979.6-1980.
2
収入 支出 残額
上演料 借
入 金
小計 団員の
収入 夜 食 代
出張 手当
旅費 臨
時 雑支 出
必要 品補 充
小計
準 備 金
6 月 30
0
300 128.0
6
128.0 6
7 月 49.71 49.71
8 月 127.9
8
127.9 8
9 月 90 90 74.91 74.91
合計 39
0
390 380.6
6
380.6 6
9.34
9 月中旬から 開始
296.65 296.65 230 3.8 7.5 18.0 9
31.18 290.5
7
6.08
119
10 月 414.02 414.02 248.56 56 15.1
8
43.78 363.5 3
50.48
11 月 655.68 655.68 298 75 6 24.52 23.96 427.4
8
228.2
12 月 448.1 448.1 255 64.7 42.1
1
6.27 11.89 379.9 1
68.13
1 月 594.92 594.92 255 98 15.6 49 31.1 48.52 497.2
2
97.7
2 月 150 150 215 75.6 49.
? 22.
5
14.76 15 392.3 8
赤字 242.3 8
総計 2559.3
7
39 0
2949.3 7
1501.5 6
59.
8 320.
8
146.
5 71.
5
107.8 3
523.8 1
2731.
8
黒字 217.5 7 註:〔档案 1980〕により作成。「臨時」は臨時雇用者の収入を指す。
この表によれば、劇団の収入は借入金を除いて「営業」、即ち木偶戯の上演料がす べてである。支出には芸人の給料、上演後の夜食(夜の部)、出張の手当、旅費、臨 時雇用者の給料、雑支出、必需品の補充の七つの項目がある。6 月から 9 月上旬まで は、上演の収入がなく、借金で必需品を補充した時期で、ほかの支出もなかった。準 備が終った時には、借入金の残額は約 10 元しかなかった。
1979 年 9 月中旬上演開始後の半月は約 6 元の利益を得た。その後、10 月から翌年 の 2 月までの 5 カ月は、2 月以外、いずれも黒字で、その中には約 230 元の利益を得 た月もあった。これらの利益は各月の上演収入から上述した支出の各項目を引いた残 額である。支出の臨時欄を見ると、1980 年 1 月からは劇団が忙しくなったため、手伝 いを臨時に雇用までしている。1 月は二人、2 月は一人で、給与は 20 元あまりの目安 であった。筆者の聞き取り調査によれば、当時雇用されたのは主演鄭明祥の二人の弟 子、定海白泉の潘偉慶(1956 年生)と定海塩倉の徐美清(1961 年生)である。
2 月の上演収入は、それ以前の月より大幅に減少している。鄭明祥によれば、これ は旧暦の正月125で上演を休むことにしたからだという。劇団は文化局の所属で、その 団員は解放前の木偶芸人とは違って、休みは文化局の役人と同じ期間に取った。しか し、これは木偶戯本来の上演需要の実態とは全くあっていない。
この収支統計表から新放は上演開始後の半年間、順調に上演が行われていたことが 分かる。また、芸人の報告に基づく年末(旧暦)の総括からも当時木偶戯の上演は盛 んに行われて、人々に大歓迎されたことが読み取れる。総括では次のようにまとめら れている〔档案 1980〕。
125 1980 年 2 月 15 日は大晦日。