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第2章 舟山木偶戯について

第1節 杖頭木偶戯の「下弄上」

上記の民国『定海県志』は、「下弄上」について次のように述べる。

「皆邑中墮民為之(すべて堕民が演じていた)」

「圍幕作場,大敲鑼鼓,由人在下挑撥機關,則傀儡自舞動矣。(幕で場を作り、大 いに銅鑼・太鼓を叩く。人が下から人形を操作すると、人形は自由に舞い動く)」

「其唱白亦皆在下之人為之。(歌と語りも下の人形操作者がする)」

「多民間許願酬神演之(主に民間の願掛けと神への感謝のために上演されていた)」

この記事から、人形遣いは、もっぱら被差別民であった堕民27が演じていたこと、

楽器演奏を伴い、人形は下から操った、すなわち棒遣いであったことがわかる。小さ いほうが、よそから来た芸人が行う街頭芸であったのに対し、民間の祭祀活動は主に

「下弄上」が担っていたとあり、当時は、大きいもの「下弄上」こそが、舟山の木偶 戯の中心的存在であったことがわかる。

しかし「下弄上」は 1950 年代に滅びたといわれ、舟山から完全に姿を消して、今 では人形も舞台などの道具類も全く残っていない。上演記録や関係資料もなく、この

『県志』の記事以外、「下弄上」について言及するものはない。

2004 年、定海で木偶戯の調査をしていた新潟大学の橋谷らが、岱山の木偶戯につい ての聞き取り調査を張堅(当時、舟山民間文芸家協会副会長)に依頼した。調査の実

27堕民は主に江蘇・浙江省に分布する被差別民である。なかでも浙江省東南部に多い。その起源につい て、主に四つの説がある。一、南宋の始め、金軍が大挙南侵した時、宋将焦光瓉は部属を率い、金に降 った。金軍引揚げ後、宋人がこの者たちを貶めて堕民とした。二、宋の滅亡後、趙氏の子孫は「人に哀 れまれ」て食を施される身の上となった。施す者が多かったので、けっきょく働く気をなくし、音曲で 人を娯しませなどしているうちに「おのずから堕民に流れ」た。それで堕民という。三、宋朝の滅後、

元朝が宋の俘虜を江蘇・浙江両者に分置したのが、堕民となった。四、明代始め、洪武(太祖朱元璋)

や永楽帝(成祖朱棣)に反抗した忠臣義士は、みな張士城や方国珍の部属だったと伝えられるが、その 数が多くて誅しきれなかったので寧波紹興一帯に移し、貶めて堕民となすよう命じた。〔木山英雄 1990:

265-266 頁〕舟山堕民の由来は、はっきりしないが、翁源昌は「康煕 23 年(1684)の「展復」政策(14 頁参照)当時、政府は舟山の荒れた土地を開墾するために、特に寧波に住んでいた堕民を招いたのが起 源だ」と推測している〔翁源昌 2009:59 頁〕。日中戦争前の統計によれば、最も多いのが、紹興の約 3 万人で、次が定海(舟山全域を指す)の 6650 人で、寧波は 1106 人である〔鄭公盾 1948:94-95 頁〕。

そこで、舟山は堕民の集まり住んでいるところであったことが分かる。

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施者は当時文化局職員で舟山民間文芸家協会会員でもあった王冰である。王冰は、当 時、岱山の住民の意識には木偶戯といえば、まず「下弄上」が思い出される、という 状況を踏まえて、島で一つだけ上演を続けていた布袋木偶戯班(岱西木偶劇団)の調 査と並んで、「下弄上」の歴史、過去の上演実態についても調査した。調査の結果は

「岱山木偶戯調査実録」としてまとめられている。原文は付録〈一〉を参照。

1 王冰の「岱山木偶戯調査実録」28

王冰の聞き取り調査は、2004 年 9 月岱山小宮門で行われた。岱山の小宮門は「下弄 上」の最も有名な地域として今でもよく知られている。芸人はその時すでに亡くなっ ていたが、岱山小宮門(現在の宮門村)に住む年配者彼らは、半世紀前の若者として

「下弄上」の上演を見たことがあり、芸人のこともよく知っていたので、彼らを調査 対象とした。話者の名前と調査時点の年齢は以下の通り。

湯徳良(74 歳)、方義安(80 歳)、金少和(81 歳)、湯善根(81 歳)、張杏貞(83 歳)、劉慶珊(91 歳)、劉敬翊(80 歳)。

調査の結果は「岱山木偶戯調査実録」(以下「実録」)としてまとめられている29。 以下、「下弄上」について「実録」によって分かった内容について紹介する。

岱山小宮門では元々王、金、張三家が杖頭木偶戯をしていたが、1930 年ころには王 家だけになり、金、張両家は後継ぎがいなくて、上演を止め、道具等も王家に譲った という。班主は「行頭主」と呼ばれる。王家の最初の「行頭主」は王阿宝、二代目は 息子の王阿能である。王阿能は 1930,40 年代に活躍していたが、息子の王阿満は後 を継がず、杖頭木偶戯の時代が終ったという。

(1)舞台

「下弄上」の舞台は人の背丈ほどの高さで、竹で囲む。周囲には芸人と観客を隔て る青い印花布を掛ける。後ろには芸人の出入り口が残してある。湯徳良によれば、昔、

宮門村の文昌宮30に造られた舞台は約 4 平方メートルあったという。

(2)芸人

上演には遣い手と伴奏者を含め、約 10 人必要で、遣い手は 5,6 人、伴奏者は 4,5 人であった。遣い手は一人一体の人形を遣いながら唄い、伴奏者はそれぞれ何種類か の楽器を持っていて、遣い手の上演に合わせて伴奏する。楽器には簫、笛、銅鑼、太 鼓、胡琴、嗩吶、鼓板などがあった。張杏貞によれば、1930,40 年代当時、遣い手に は張宝寿、張宝鶴(兄弟)、張阿倫、張阿仁、王阿宝、王阿能(親子)、王福堂(棠)

など、伴奏には孫祥雲、裴阿寿、邱厚福などがいた。最も印象に残っているのは若い

28 調査者王氷、現在舟山民間文芸家協会の副会長。「岱山木偶戯調査実録」の中国語原文は付録〈二〉

参照、その「二、小宮門木偶劇団(3-5)」は岱山杖頭木偶戯に関する調査結果。

29 「岱山木偶戯調査実録」には布袋木偶戯の内容もあるが、ここでは杖頭木偶戯のみを紹介する。

30嘉慶 20 年(1815)建造。中には文昌帝君(文曲星)が祭られている。

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ときに(小宮門村)弥陀寺31の新しい神像を設置した日に行われた上演で、一日一晩 の上演が終ると、観客はみんな「(芝居の人物を)生き生きと演じた」と芸人たちの 演技を褒めた。これらの芸人はいずれも 1900 年前後の生まれで、解放前には、木偶 戯のほかに鍛冶屋の仕事や「剃頭」(理髪)、ボロ切れなどの廃品回収、「抬彩轎」

(結婚式の輿を担ぐ)、髪結いの仕事、畜殺、「絞面」32、結婚・葬式の楽器伴奏と 手伝いなどのいわゆる賤業に従事していたという。

(3)遣い手の上演

遣い手は人形を持ち、手を掛布の上 1 尺ほどにあげて、人形を操る。人形は 3 本の 棒で操作し、「総経」と呼ばれるやや太い主棒(直径 2-3 センチ)が人形の頭を支え る。他の 2 本の細い棒は人形の両手に繋がっている。一般に、芸人は一方の手で「総 経」を持ち、もう一方の手は 2 本の細い棒を握って同時に操る。「武松打虎」などで 戦う場面がある時は、短い棒を人形の足につけて、足の動作を細かく表現したり、刀 などの道具を器用に操るなど、様々な技が必要である。

杖頭の上演形式は京劇に基づくので、芸人は「髯口功」33「水袖功」34など京劇で使 う基本的な技が必要である。唱腔と人形の衣装も京劇に準じる。

(4)上演活動

岱山島での上演は、一般に春の田植えと秋の稲刈りの後に行われていた。そのほか には、廟会や正月にも上演したという。特に旧暦 2 月 3 日の小宮門の文昌宮の廟会で は、杖頭木偶戯の上演を恒例として毎年行っていた。上演は一般に 1-3 日続き、資金 の余裕があればまた何日か延長する。正月には新年祝賀の「太平戯」や、願解きの「願 戯」などが多かった。戯班は小さい島から帰ると、いつもイカの干物を持ってくる。

つまり、イカの干物も依頼者からの上演料だった。上演料の分配は人数によって均分 したが、「行頭主」は道具などの所有者であるので、二人分もらえる。よく上演され た演目には「包公案」35「三国演義」「楊家将」36などがあった。

日中戦争の時期にも、岱山の芸人はまだ各島で上演していた。上演に行くときには、

すべての上演は日本軍の許可を得なければならない。ただ、言葉が通じないので、芸 人は地元商会の通訳者に頼んで日本軍に説明する必要があったという。解放後、定海 でも岱山でも上演は行われなかったという。

以下、この「実録」から分かったことをまとめる。

31 民国初年(1911)建造。中には阿弥陀佛が祭られている。

32結婚式の前に、花嫁が顔を綺麗にする儀礼。

33髭を振る技。

34 長い袖を振る技。

35明代末の名判官包公の裁判物。

36宋の建国に貢献した楊一族の活躍を描いた物語。

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「下弄上」は半世紀前に滅び、文革を経た現在はその舞台や道具類などもすべて見 られなくなった。「実録」では話者の話から、その舞台の大きさや出演の人数、遣い 手の上演などについて明らかになった。

「実録」では「下弄上」の唱腔は京劇に準じていたと述べる。現在越劇を中心に行 われている布袋木偶戯とは大きな違いがある。

上演活動を見ると、「下弄上」は正月のほかに、春の田植えと秋の稲刈りの後にも 上演をしていたことがわかる。但し、その上演は願解きなど神への奉納に関わる上演 なのか、娯楽だけの上演なのか、或は両方あったかについては不明である。

また、上演活動に述べているイカの干物など実物を上演料としたことや、上演料の 分配は戯班の人数で均分し、舞台や道具などの所有者である「行頭主」は二人分もら えることなどは、その後に盛んになった布袋木偶戯と同様である(第 3 章に詳述)。

「実録」によれば、「下弄上」は日中戦争中も日本軍に許可を申請しながら、なお 上演を行っていたことがわかる。

この「実録」はしかし、芸人本人ではなく、観客の視点から「下弄上」について述 べた状況の記録である。話者らが半世紀以上前に、その姿を消した「下弄上」に対し て、まだ深い印象をもっていることから、当時の「下弄上」が如何に盛んに上演され ていたかがうかがわれる。これは岱山小宮門での状況で、たとえば舟山本島では、ど うだったのか?「下弄上」の戯班は舟山全体でいくつあったのか、どこでどんなふう に何のために上演していたのかなど、多くの疑問が残っていた。

しかし今回、舟山木偶戯について調べる中で、舟山群衆芸術館の档案資料の中に、

下弄上を実際に上演した芸人たち自身が参加した 1961 年の「杖頭木偶座談会」の資 料を発見した。

2 「杖頭木偶座談会」の記録

1961 年当時、政府所属の東昇木偶劇団37の上演は順調で観客も多かったので、団長 の潘渭漣(1934 年生)は杖頭木偶戯、即ち「下弄上」も復興できるのではないかと考 えて、座談会を開いた。座談会では、杖頭木偶戯繁栄時の状況をそれぞれの芸人から 聞き、その衰退の原因について検討した。原文は付録〈二〉を参照。

この座談会に参加したのは、岱山と定海の 17 人の元杖頭木偶芸人である。参加者 の名簿は以下の通り。

3 杖頭木偶座談会参加名簿表(1961 年)

所属地域 名前 出身 年齢 職業(当時/以前) 健康状態

王阿能 小宮門 52 歳 昔専業杖頭木偶芸人

金善卿 高亭 59 歳 自営理髪露店 瘋病

37 東昇木偶劇団は 1959 年に結成した布袋木偶戯の劇団、第 4 章に詳述。