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第3章 解放前の上演実態―木偶芸人へのインタビュー による― による―

第1節 侯恵義の話

侯恵義は舟山布袋木偶戯を代表する一座「侯家班」の初代の座長である。もともと 1961 年まで個人の戯班で木偶戯をしていた57が、政府の方針により、芸能の集団化が すすめられ、更に文化大革命と続いた時期には、舟山市文化局所属芸人として語り物 の「走書」(註 59 参照)や、越劇の俳優などをしていた。文革収束後、個人の戯班 が自由に上演できるようになり、木偶戯上演を再開した。侯恵義の略歴は以下の通り である。

4 侯恵義年譜(1927 年—2014 年)

西暦 年齢 出来事 社会と関係ある出来事

1927

1941

1944 1947 1948

14 歳

17 歳 20 歳 21 歳

・定海区紫微郷侯家村で生まれる。父と祖父は左官。

・大叔父の侯祥寿(1885 年頃生)の木偶戯上演につい ていく。

・定海区塩倉の葉顕昂(1898 年生)に弟子入り。

・舟山木偶同行会入会。

・越劇団で見習いもする。

・木偶戯班を立ち上げ、上演を始める。

・金塘出身の包秀梅(1927 年生)と結婚。

・長男侯国平誕生。

・1949 年中華人民共和国成

57 1961 年以降の経歴は第 4 章に詳述。

48 1952

1959

1961

1966

1972

1984

1995 1998 2014

25 歳

32 歳

34 歳

39 歳

45 歳

57 歳

68 歳 71 歳 87 歳

・個人による木偶戯班を定海県文教科(現在の舟山市 文化局にあたる)58に登録し、上演の許可書をもらう。

・長女侯雅飛誕生。

・木偶戯上演には、侯雅飛を連れて行く。

「舟山曲芸隊」59団員に選ばれ、木偶戯の上演をやめ、

語り手として「走書」を始める。侯国平は、曲芸隊で 臨時雇用の二胡の伴奏に雇われる。

・侯国平は伴奏を辞めて左官になったため、侯雅飛が 二胡の臨時伴奏者となった。

・紅衛兵の「抄家」(家宅捜査)を恐れて、解放前に使 った木偶戯の舞台や道具、脚本などを自ら焼却。

・文教局の指示によって舟山地区越劇団に派遣され、

越劇の俳優として革命現代模範劇を演じる。

・曲芸上演が再開され、「舟山曲芸隊」に戻る。

・文化局を退職し、家族で侯家班を立ち上げ、木偶戯 の上演を再開。上演の固定成員は侯恵義、侯雅飛、顧 国芳(婿)

・この頃、隠退して、時々伴奏の鼓板を担当。

・長男の侯国平が副伴奏として侯家班に加入。

・死去。

立。

・1950 年 5 月 17 日舟山群 島解放。

・舟山県文教局(現在の舟 山市文化局にあたる)所属 の「東昇木偶劇団」と「舟 山曲芸隊」が設立される。

・文化大革命開始、木偶戯 は「四旧」として批判され る。

・木偶戯の上演はすべて禁 止。

・木偶戯はこの時期まだ再 開の許可が出ていない。

・1979 年、舟山地区文教局 所属の「新放木偶劇団」成 立。

・1980 年、長女の侯雅飛は

「新放木偶劇団」に加入、

ただし文教局所属の正式 な団員ではない。

・「新放木偶劇団」解散、

侯雅飛は退団。

58ここの「定海県」は現在の舟山市にあたり、解放後に何度も行政区画の変化(第 1 章図 4 参照)があ ったため、後述の「舟山県」「舟山地区」「舟山専区」も同様。

59 曲芸とは語り物の総称で、舟山曲芸隊には主に「唱新聞」と「走書」の二種がある。「唱新聞」は楽 器と語りとの二人一組の語り物で、地元の事件や時事のニュースなどを語って、町を門付けして回る。

語り手は目が見えない人が多い。「走書」は、伴奏と語りの二人一組で伝統的な歴史物語などを語る芸 能である。語り手は舞台を歩きながら、二胡の伴奏で語る。

49

1 布袋木偶芸人の養成

侯恵義が生まれた定海区紫微郷は舟山島の西側に位置し、侯家(聯勝)・狭門・永 豊・紫微・墩頭など 15 の行政村からなる広さ 32.2 平方キロメートルの農村地域であ る。住民は 1 万人あまりで、解放前には主に農業に従事し、左官や大工などの職人も、

借地で農業をしていた。

侯恵義は一人息子で、父は左官だった。家族の中で大叔父の侯祥寿が木偶芸人だっ た。侯恵義は木偶戯が好きで、小さい時から、よく侯祥寿の上演について行った。

(1)最初の師匠―大叔父の侯祥寿(1885 頃-1943)

侯祥寿は寧波の奉化から舟山に巡演してきた朱潭山(1847 年頃生)の二代目の弟子 である。朱潭山は三十数歳の時に、舟山で三人の弟子―邵恵義(定海金塘)、張慶発

(岱山長涂)、王阿位(普陀朱家尖)を取った。侯祥寿はこのうちの邵恵義の弟子で ある。邵恵義の弟子には、ほかに沈阿福、馬小原、葉顕昂、朱三星、丁信芳、陳宝金、

張賢祥がいて、侯祥寿と同じ定海の出身であった。

侯祥寿及びその同時代の木偶芸人が行っていた木偶戯は、舞台や道具、伴奏に用い る打楽器などを扁担、即ち天秤棒で担いで移動する扁担戯である。その上演はすべて 一人で行い、芸人は人形を操りながら語ったり、足で打楽器を打ったりした。当時の 舞台と人形は大陸の寧波から購入したものだったという。上演は定海区各地のほかに、

普陀の沈家門や嵊泗県の泗礁島や黄龍島にも行ったが、寧波など大陸側には行かなか った。上演の依頼は願解きが多く、そのほかに、娯楽としての上演もよくあった。娯 楽としての上演は、漁民の漁が暇で、農民も田植え後の農閑期になる夏に行われるこ とが多かった。人々は金を集めて、夕涼みに上演を依頼した。これを「兜(攏)戯」

と呼ぶ。漁村では、夏に海辺で豊漁を神に感謝するための「謝洋戯」もした。上演を 始める前には、悪い物が近づかないように爆竹を鳴らす。爆竹を鳴らすのには、芝居 があることを近在の人々に知らせて、観衆を集める意味もあった。演目には 1 回 3,4 時間の長さで、1-2 回で終わる「宝蓮燈」「珍珠塔」「馮世恩出考」「真仮駙馬」60な どがあったが、何日間も連続して上演できる長編はなかったという。

侯祥寿は侯家の次男であったが、一生結婚しなかった。両親が亡くなると兄(侯恵 義の祖父)の一家と一緒に暮らして、舞台、人形、道具箱なども侯恵義の家に置いて いた。侯祥寿は上演が終って暇があれば、舞台を家に置いてから山に柴刈りに行った。

60 「宝蓮燈」:天帝の娘である三聖公主と書生の劉彦昌の間に生まれた沈香がおじの二郎神によって華 山・蓮花峰の下に閉じ込められた母を、山を劈いて救う物語。「珍珠塔」:家運が傾いた孫方卿は科挙 を受けるため、叔母に借金を申し込んで断られたが、従妹の援助で状元になり、最後に従妹と結婚する 物語。「馮世恩出考」:書生の馮世恩は科挙受験の途中で荷物を盗まれるが、従兄弟に助けられ、最後 に状元になる物語。「真仮駙馬」:状元の董文伯は公主の夫に選ばれたが、事故死したと伝えられたの で、双子の弟の董文仲が身代わりになって公主と結婚する。しかし、のちに兄が無事に戻り、その身代 わりの事実が皇帝に知られて、兄は皇帝に殺され、弟は発狂する悲劇。但し、木偶戯では悲劇を演じな いので、この演目を上演する場合には、大団円となるように改変して上演されたと思われる。

50

侯恵義は、子どもの時、大叔父に従って上演を手伝ったり、柴刈りを手伝ったりして、

過ごした。

侯祥寿は 1900 年頃から木偶戯の上演を始めたが、1945 年頃に喘息のために上演を 辞めた。その後、舞台などの道具類は順満塗島出身の劉満に売り、娘一人の子持ちの 女性と定海道頭で同棲し、果物の露店を開いた。1953 年、死去。死後、遺体は侯家の 墓に埋葬された。

(2)弟子入りと舟山木偶同行会(ギルド)

1941 年、14 歳の侯恵義は木偶戯の芸人になることを決めた。木偶戯の芸人になる にはまず弟子入りする必要がある。当時、大叔父の侯祥寿は病気のために、もう木偶 戯を止めようとしていたので、侯恵義を隣の郷の塩倉の弟弟子の葉顕昂(1898 年生)

に紹介した。

葉顕昂は、訪ねてきた侯恵義を見て、この子は利口で、唄うのもうまいから、必ず 一人前の芸人になれると確信したが、一人っ子なので、上演にあちこち連れ回しても いいのかと父に聞いた。父は、どうせ自分のように左官になるなら、木偶戯のほうが 金を儲けやすいから、と頼んだ。こうして、侯恵義は葉顕昂に弟子入りすることが決 まった。

弟子入りする時には、弟子側と師匠側の双方が信頼できる保証人が必要であるが、

侯祥寿がその保証人となった。師匠と弟子の関係は、契約書(「関書」)の作成で成 立する。契約書を作る時には、師匠、弟子、弟子の親と保証人が出席し、署名する。

赤い紙の契約書には、①弟子が三年以内の上演で得る収入は師匠の所得とする。②特 別な理由なく家に帰ることを禁じ、途中でやめることはできない。③災害や病気の際 は、天命に従う。(つまり、師匠は責任を負わない)④弟子入り期間中に逃げだした 場合は、双方ともに探す責任を持つ。⑤弟子入り期間を終えると、師匠に謝礼する。

などの規定が書いてあり、表紙にはめでたい意味で「関書大発」と書いてあった。

当時の定海には舟山木偶同行会(木偶戯の同業組合、ギルド)が結成されており、

団員は 40 名ほどで、侯恵義は弟子入りする際に、同行会にも入会した。入会すると きには、国民党政府からの「同行単」(同意書)が必要だった。

同行会には会員から選出された「総柱」(会長)と「東柱」「西柱」「南柱」「北 柱」(各地域の責任者)がいた。1943 年頃、侯恵義が入会した当時の各柱首は以下の 通り。

「総柱」→沈阿福(定海干 )

「東柱」→張慶発(岱山長涂)

「西柱」→葉顕昂(定海塩倉)

「南柱」→丁信芳(定海冊子)→張恵願(定海呉榭)

「北柱」→陳宝金(定海三江)