第5章 舟山布袋木偶戯伝承の現在
第1節 現在活動している戯班
1980 年代以降、舟山では約 20 の布袋木偶戯の戯班が活動していた。しかし、最近 2,3 年の間に、高齢や病気、事故などで 5 人の芸人(遣い手)が亡くなったため、戯 班の数は急に減り、現在は 16 の戯班しか残っていない(図 15 参照)。その中には、
実際はほとんど活動していない戯班もある。それぞれの戯班の基本的な情報と上演状 況については、表 21(別紙3)と表 22(別紙4)の通りである。
表21 舟山布袋木偶戯各戯班基本情報表(2015 年現在)(別紙3)
表22 舟山布袋木偶戯各戯班上演状況表(2015 年現在)(別紙4)
表 21 と表 22 は、2014 年 9 月に行ったアンケート調査127とその後の電話での聞き取 り調査によってまとめた。
現在活動中の戯班 16 のうち、普陀と岱山の 2 班を除けば、すべて定海にある。表 21 と表 22 から、以下の状況が明らかになった。
第一、16 の戯班の設立時期はそれぞれ 1960 年が1班、改革開放直後の全国で民間 芸能が復興した 1978 年から 1985 年までが 7 班、2000 年以降が 8 班である。解放前に 女性芸人はいなかったが、改革開放直後に復興した戯班では、女性が活躍するように なり、現在は約半数を占めている。2000 年以降に多くの戯班が結成されたのは、経済 の発展で人々の生活が豊かになり、木偶戯上演の依頼が多くなったためである。特に 2009 年舟山布袋木偶戯は省の非物質文化遺産になり、政府の助成金などの政策で戯班 や後継者の養成が促進された。そのため、30,40 代の若い人も木偶戯を職業とするこ とに興味を持ち始め、戯班をつくった。16 の戯班のうち、30,40 代の若い班主が 4 人いる。たとえば、もともと幼稚園教諭を目指していた侯夏玲は、一家の人形芝居を 継ぐことにし、2006 年、おばの侯雅飛に弟子入りしている。
第二、16 のうち、半分以上の班主が木偶戯を主職業にし、副職業を持つ芸人は音楽 や語り物関係の仕事をする人が多い。舞台の所有者である班主はほとんど主演である。
主演には、自ら楽器もでき、即ち伴奏者ともなれる者が 5 人いる。その人たちは暇な ときには、他の戯班に雇われ、伴奏者としても活躍している。例えば、潘偉慶は自ら の戯班を持っているが、伴奏者がいない戯班から連絡があれば、都合に合わせて伴奏 者として雇われていく。岱山の王嘉定は元々の伴奏者が亡くなったため、常に潘偉慶 を岱山に呼んでくる。第 2 章で述べたように、「前台」と「後台」の前後のチームワ ークが重要なので、固定的な仲間がのぞましいが、現在舟山では伴奏者が少なくなっ ているので、一人の伴奏者が都合に合わせて幾つかの戯班を掛け持ちで演奏する場合 も多い。舞台は、各戯班必ず1つ持っているが、上演回数の多い侯家班と潘偉慶は複
127 このアンケート調査は当時16の戯班の班主を対象にしたが、実際に回収できたのは張偉康、潘偉慶、
徐美清、侯雅飛、朱国成、馮小忠、施芳群、葉平児、夏継明、顔紅亮、王興国の11枚であった。それ以 外の情報については、その後の電話の聞き取り調査で得た結果である。
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数持っている。人形頭は最低1セット 32 は必要といわれるが、回答があった班では、
ほとんどそれ以上持っている。
第三、上演地域については、それぞれの戯班はその所在地、及び隣接地域で上演し ている。侯雅飛は最も優れた木偶芸人と評価されているので、上演地域も最も広く、
定海と普陀及び周辺のほとんどの小島で上演している。アンケート調査によれば、そ れぞれの戯班は個人と寺廟からの依頼による結婚式や神の誕生日、願解き、上棟式、
先祖の記念日、子供の誕生祝い、老人の誕生日、正月祈願などで上演していることが 分かる。ただ岱山の王嘉定の戯班は現在、政府主催のイベントなどでだけ上演してい る。上演料は1回約 1000 元が相場で、分配は解放前と同様、「前台」と「後台」で 折半している。年間の上演日数を見ると、年間 100 日以上の戯班は侯雅飛・潘偉慶・
朱国成・張偉康・葉平児・王興国の 6 班、馮小忠は 70-80 日である。徐美清・夏継明・
侯夏玲・施芳群・顔紅亮の 4 班は約 30 日である。そのほかに、王嘉定は政府のイベ ントだけで上演し、王銀雲は高齢で上演が少なくなっている。董海は現在もっぱら葬 式の伴奏を行い、木偶戯はほとんど上演してないという。舒彩飛についてはわからな い。一回の上演料と上演日数などから考えて、木偶戯上演で生活できているのは、侯 雅飛・潘偉慶・朱国成・張偉康・葉平児・王興国の 6 班だけだろう。
次に、実際の活動状況について、定海の侯雅飛・潘偉慶と岱山の王嘉定の戯班を例 に紹介する。
侯家班初代班主の侯恵義は解放前からの木偶芸人で、共和国成立後、61 年まで木偶 戯を上演していたが、舟山木偶戯の集団化が行われ、個人戯班の活動が難しくなって からは、木偶戯上演は行わず、もっぱら語り物の走書をやっていた(第 2 章第 1 節参 照)。しかし改革開放後の芸能活動の自由化により、1984 年年末、娘の侯雅飛、娘婿 の顧国芳と三人で侯家班を作った。侯雅飛は主演、顧国芳は主伴奏、侯恵義は副伴奏 を担当した。
現在の主演の侯雅飛(1952 年生)は侯恵義の長女で、小さいころ父の木偶戯の上演 について行った。父が走書を始めた後、1965 年ころから兄の侯国平と共に、父の走書 の上演を手伝い、二胡や琵琶で伴奏をした。文革中の 1966 年から 72 年までは上演活 動はできなかったが、1972 年走書の上演が再び行われるようになると、侯雅飛は今度 は語り手を担当し、父が伴奏に回った。1979 年、市文化局の新放木偶劇団が成立する と、侯雅飛は父の紹介で参加し、鄭明祥の弟子となり、木偶戯の主演となった。
侯家班主伴奏の顧国芳は定海馬嶴の出身で、父の顧雲冨と叔父の顧友冨は昔の杖頭 木偶芸人であった。侯家班に入る前には舟山市越劇団で働いていた。顧国芳の二胡演 奏は舟山一と評判だったというが、1984 年に個人的理由で越劇団を退団し、侯雅飛と 結婚し、侯家班の主伴奏となった。
1985 年侯家班が上演を始めると、すぐにたくさん依頼が来たので、翌年、新しい舞 台を造り、侯家班は二組に分かれて上演した。二組で上演に行くときには、侯恵義も 主演となり、主伴奏と副伴奏は臨時に雇い、侯雅飛の方も副伴奏を雇った。依頼が少 ない時には、再び元の一座に戻る。1995 年ころ、侯恵義は主演をやめ、1998 年に侯 国平が副伴奏として侯家班に加わった。侯国平は侯恵義の長男で、小さいころ父に楽
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器を習い、父の走書の仕事をしばらく手伝っていたが、文革開始後は走書をやめて左 官をやっていた。侯雅飛は侯家班の二代目の班主となり、その後、侯家班の上演はほ とんど他の人を頼まず、一つの舞台で家族で上演していた。2005 年、侯恵義の次男の 娘である侯夏玲が短大卒業後、侯家班の後継ぎとして侯雅飛に木偶戯を習い始め、
2008 年一人前になって独立した。現在の侯家班は主演が二人いるが、主伴奏の顧国芳 は 2012 年に病死、侯恵義も 2014 年に亡くなった。副伴奏の侯国平は 2013 年から体 調不良で、現在も療養中で、具合がいいときに侯夏玲の戯班の伴奏者となる。侯家班 の伴奏は現在、他の戯班と同様にすべて臨時に雇うが、たいていは主伴奏は黄忠昌、
副伴奏は黄其明で、ほとんど固定している。
普陀区においては、鄭明祥の鄭家班が最も活躍していた。鄭明祥は文革十年間を除 いて、芸歴 50 年の専業木偶芸人だった(第 2 章第 2 節参照)。鄭家班は 1940 年代に 父の鄭昭娣が創始した木偶戯班であるが、木偶戯の集団化が始まった後、1961 年に集 団化に加入した(第 3 章参照)。1984 年、鄭明祥は弟子の潘偉慶・陳玲雪と共に鄭家 班を再開した。普段の上演では陳玲雪が主演、潘偉慶と鄭明祥は伴奏を担当した。潘 偉慶は人形遣いもできるので、陳玲雪と交替して主演をつとめることもある。時には 師匠の鄭明祥も主演を担当することもあった。上演は白泉深坑嶺の竺霊寺からの依頼 が多いため、舞台は一年中竺霊寺の泗洲大殿内に設置している。他の芸人から購入後 改修した古い舞台がもう一つあるので、他のところからの依頼があれば、それを使う。
鄭明祥は生涯に 6 人の弟子、潘偉慶・侯雅飛・陳玲雪・徐美清・葉平児・舒彩飛を 育てた。他の弟子は独立してそれぞれ上演をしている。舒彩飛は鄭明祥の最後の弟子 で、2008 年ころ弟子入りした。2000 年ころ、鄭明祥は高齢で主演をやめ、伴奏だけ を担当していた。戯班も潘偉慶に譲った。2013 年に陳玲雪は交通事故でなくなり、鄭 明祥も 2014 年癌で亡くなった。潘偉慶の戯班は上演者不足の状態になったため、妹 弟子の徐美清と舒彩飛、定海岑港の施芳群が暇な時に潘偉慶の上演を手伝い、主演を つとめるが、伴奏は少なくとも一人雇わなければならない。
岱山においては、1978 年成立した岱西木偶劇団が唯一の布袋木偶戯班である。戯主 は岱山岱西出身の王嘉定(1951 年生)で、結成当時の主演は何阿宝(1931 年生)、
伴奏は王嘉定と陳海舟(1941 年生)、金月倫(1953 年生)、陳徳海(生年不詳)の 四人だった。戯班は「岱西木偶劇団」と「劇団」を名乗ったが、地方政府とは関係な い個人戯班である。ただ、上演は岱山県と嵊泗県の劇場や書場など公的な場で行い、
新放と同じく、上演料は切符による収入である。入場料は 0.1~0.15 元、芸人の月平 均収入は 60 元~70 元であった、という。
しかし 1979 年、何阿宝は体の具合が悪くなったため、上演ができなくなった。そ こで、王嘉定は戯班を継続するため、自ら人形操作を学ぼうと、舟山木偶芸人の中で、
芸が最も素晴らしいと称賛されていた元東昇の団長の潘渭漣(1934 年生)に弟子入り した。定海で約三年間修業をした後、1982 年から岱山で再び上演を始めた。上演再開 後の新たなメンバーは王嘉定、王衛国(1961 年生)、金光甫(1939 年生)、陳海舟、