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第7章   政権交代と情報公開   文書公開の意味と権力、民主化という側面から考察

2. 請求 権問題

論点の整理

 公開された新資料によって新しい研究を始めるに際して、今後、請求権問題の何をどのように解明し ていく必要があるのか、その論点を整理しておきたい。

 第一に、1965年に締結された財産請求権経済協力協定の中心概念である「請求権」とはいかなるもの だったのか明らかにする必要がある。そのためにはまず、日韓会談で財産請求権問題を討議する根拠と なったサンフランシスコ平和条約第4条a項に規定された「請求権」について論究する必要がある。特に 日本政府が、当時の国際情勢および国際法の下で世界基準としての「請求権」をどのように認識し日韓 会談で討議したのか、またそれらが財産請求権経済協力協定をどのように規定していくことになるの か、明確にする必要があろう。

 第二に、日韓両政府の植民地支配認識を究明することである。これもとりわけ日本政府および日本人 の認識、理解を明らかにし、それを抉り出すことがより重要となる。財産請求権経済協力協定の枠組み の決定に最も大きな影響を及ぼしたのは日本側の植民地支配認識だったと考えられるからで、それをよ り具体的に解明することが求められる。それは同時に、当時の世界基準としての植民地主義をも批判す るものとならなければならない。

 第三に、日韓両政府が特に個人の植民地支配・戦争被害をどのように認識し、交渉の場で討議してい たのかを再検討することである。過去の清算のためには、①被害と加害の真実究明、②①に基づく責任

の追及、③①と②に基づく謝罪、④被害への補償、⑤追悼と記憶(記録の保存、教育)、が必要だが、

それぞれが日韓会談においてどこまで検討され実施されたのかを確定する必要がある。

 第四に、財産請求権経済協力協定の条文作成過程および日韓両政府による国内法の成案の経緯を再検 証することである。先行研究では、特に1965年に、財産請求権経済協力協定第2条第1項の「完全かつ最 終的に解決されたこととなることを確認する」という文言が成案される経緯についての検討は充分にな されたとは言いがたい。また、2005年1月に公開された韓国外交文書の中に、韓国政府が個人請求権保 有者に対して「補償義務を負う」という資料が発見されて注目されたが、それがどのように検討され最 終的に裁可が下され、1970年代の「対日民間請求権補償法案」などの制定につながっていったのか明ら かでない。

日本国内においても、「財産請求権及び経済協力協定」第2条第1項の請求権消滅の実施に伴う国 内法案を作成する準備がなされ、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国 と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」(法律第 144号)が制定されたが、この国内法の成案過程も明らかにされていない。

 この小論では私がこれまで読んだ資料をもとに第一と第二の論点について考えてみる。

日本の植民地支配認識と「請求権」概念

日本政府は「国際法上に謂う分離」という、植民地主義批判を欠落した世界基準とも言うべき考え 方によって、日韓間の「請求権問題は単なる領土分離の際の国の財産及び債務の継承関係として取り扱 わるべきもの」だという「請求権」概念を導き出した。

そうした植民地支配認識および「請求権」概念に基いて、日韓会談での請求権問題への対処方針と して、両国の「財産及び債務」を「相互に一括放棄する」「相互放棄」論を確定し、具体的な請求権項 目の交渉においては「確実な証拠資料」の添付を求めることによって韓国側の請求権を「崩していく」

という官僚主義的な方法が検討されていたのである。

 つまり、日韓会談を行った日本政府側には、植民地支配への省察、植民地支配批判は見られなかった のであり、1965年の財産請求権経済協力協定で「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」

したのは、植民地支配批判が欠落した「単なる領土分離の際の国の財産及び債務の継承関係」だったと 言える。

 長期的に考えるならば、今日の日本政府は、曲がりなりにも植民地支配と侵略を反省した1995年の

「村山談話」、それを継承した1998年の「日韓共同宣言」、2002年の「日朝平壌宣言」の立場を取って いる。だとすると、植民地支配への反省が欠落していた日韓会談と日韓財産請求権協定の立場をあらた め、植民地支配・戦争による被害の清算に真剣に取り組まなければならない。その点を強調しなければ ならないと考える。

基本条約第二条問題と請求権問題における日本政府 の植民地支配認識・「請求権」 概念について ( 全文 )

太田修 (日韓会談文書・全面公開を求める共同代表)

はじめに

 本報告は、2005年から2008年までに韓国と日本で新しく公開された日韓国交正常化交渉(以 下、日韓会談とする)関連の外交文書(以下、便宜上韓国で公開された外交文書を『韓国外交 文書』、日本で公開された外交文書を『日本外交文書』とする)をもとに、日韓会談の過程で 日韓両政府が日本の朝鮮植民地支配をどのように処理しようとしたのかを再検証しようとする ものである。

 新しく日韓で公開された外交文書約9万6000枚(韓国側約3万6000枚、日本側約6万枚)の全面 的な検討は今後の課題とするとして、本報告では日韓基本条約第二条問題と日本政府の植民地 支配認識・「請求権」概念について検討したい。

 まず日韓基本条約第二条問題は、本文でも述べるように財産請求権問題の処理に間接的に影響 を及ぼしていた。両者とも植民地支配をどのように認識するかという問題とかかわっていたた めである。それだけでなく、第二条問題は日韓間の過去の清算を考える場合に避けて通れない 問題である。とりわけ来年2010年は韓国併合条約が締結されてから100年目の年にあたるが、第 二条をめぐる日韓間の解釈は異なったままである。つまり日韓の間に植民地支配の始点につい ての共通の歴史認識が築かれていないということだが、こうした状態をこの機会に克服してい く必要がある。また、将来締結されることが予想される日朝基本条約を考えるためにも乗り越 えなければならない問題である。

この報告では、日韓基本条約第二条が日韓会談の中でどのように議論され作られていったの か新資料をもとに検証し、その上で従来の見解を再検討し、試論的に「新しい」考えを提起し てみたい。

 本稿のもう一つの課題は、日韓会談における請求権問題の論点を整理し、おもに新しく公開さ れた『日本外交文書』を使って日本政府の植民地支配認識・「請求権」概念を検討することで ある。日本側の植民地支配認識は請求権問題の処理に最も大きな影響を与えた要素の一つだっ たので、それをより深く掘り下げて検討する必要がある。また、1965年に締結された財産請求 権経済協力協定の目的の一つは、文字通り「請求権」を処理することにあったのだが、そもそ も「請求権」とはいかなるものなのか、その内容は必ずしも自明のものではない。ここでは、

それらの問題の核心に可能なかぎり接近してみたい。

1.基本条約第二条における韓国併合条約および関係諸協定無効問題

(1)日韓両政府の異なる解釈

 「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(以下、基本条約)第二条はそれぞれ

「日本文」「韓文」「英文」で以下のように表記されている。

【日本文】

第二条

千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及 び協定は、もはや無効であることが確認される。

【韓文】

1910년8월 22일 및 그 이전에 대한제국과 일본제국간에 체결된 모든 조약 및 협정이 이미 무효임을 확인한다.

【英文】

It is confirmed that all treaties or agreements concluded between the Empire of Japan and the Empire of Korea on or before August 22, 1910 are already null and void.

 この基本条約第二条は、1910年の韓国併合条約とそれ以前に締結された関係諸協定の無効を確 認するものである。よく知られているように、韓国政府はこれを「当初から」無効、日本政府 は「現在ではもはや効力がない」とそれぞれ解釈した。もう少し言えば、韓国側は「無効

(Null and Void)」という用語自体が「国際法上の慣用句」としては「無効」を最も強く表示 する文句であり、「当初から」効力が発生しないことを意味するものとして「이미」と強調さ れている以上、「遡及して無効」だとした19)。一方日本政府は、韓国併合条約は大韓民国が独 立したときに効力を失い、併合条約以前の諸条約、協定はそれぞれの所定の条約の成就又は併 合条約の発効とともに失効した20)、と解釈した。

日韓両政府は、基本条約締結以来、それぞれの国民に対してそれぞれ別々の解釈をしてき た。韓国併合条約とそれ以前の諸協定の無効確認をめぐる日韓両政府の解釈、いわばその歴史 認識の違いは、1998年に交わされた日韓共同宣言においても解消されることがなく、今日も平 行線のままである。

 日韓間のこのような解釈の相違を可能にしたのは、第二条の中に挿入された「もはや(이

미,already)」という文言であるとされてきた。つまり、この「もはや」を、韓国側は韓国併合

条約および関係諸協定が締結された当時に遡って「当初から」、日本側は1948年の大韓民国の 成立の時点だと解釈することによって、別々の理解がなされてきたというのである。

 この問題について韓国の国際政治学者・李元徳氏は、「한일간 기본관계조약에 관한 교섭경

위」(1965.2.20『한국정부 미간행 비밀외교문서』)を見て李東元外務部長官が「이미 무효이

다:are already null and void」という案を日本側に提案し、日本側がそれを受け入れたと叙述し た21)。太田修は、金東祚の回顧録に韓国側が「이미(already)」を挿入する妥協案を日本側に 提示したとあること22)、また李元徳が使用した韓国側外交文書を重視して、李元徳の見解に

19)대한민국정대한민국과 일본국 간의 조약 및 협정 해196년, 20) 外務省『日韓諸条約につて』1965年11月、3~4頁

21)이원덕『한일 과거사 처리의 원점』서울대학교출판부,199년,26쪽 22)金東祚『回想30年韓日会談』中央日報社, 198,27