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薬品会にみる展示資料

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 86-96)

薬品会・物産会とは前章で取り上げた通り、今日の博物館が開催している特別展に相当 する江戸時代の催事である。本草学の分野を中心とした研究成果の発表の場であり、本草 学者の情報交換の機会でもあった薬品会であるが、博物学への学問的発展のなかで多種多 様な資料を展示する大規模なものとなっていった。ここには子供から大人まで多くの見学 者を集めるようになり、まさに現在でも目の当たりにする博物館の光景が広がっている。

ここに出品された資料を分析していくと、当時の展覧会の様子や会場の雰囲気とともに、

資料に対する概念も詳らかになる。そこで本章では、資料の成立過程について検討してい くとともに、そこで仕立てられた展示空間についても考えていくことにする。

『尾張名所図会』の概要

『尾張名所図会』には、医学館での薬品会の様子が収められている。薬品会を取り上 げる前に、『尾張名所図会』について触れておきたい

『尾張名所図会』は、尾張藩士で藩校明倫堂取次役をつとめた岡田文園(啓)と青物問 屋八代目で書籍収集家でもあった野口梅居(直道)が文章を担当し、尾張藩の画家森玉僊

(高雅)と小田切春江が共作で挿絵を担当して作成されたものである。岡田文園は尾張藩 撰地誌『尾張志』を編纂した人物として知られ、蒐集家でもあったことから博学多彩な人 物として評価されている。1838(天保 9)年から 1841(天保 12)年までの約 3 年の月日を かけて執筆し、1844 年 2 月に前編7巻が木版刷りの和装本で刊行された。

刊行に要した費用のほとんどを野口梅居が負担したが、ここに野口家の財産の大半を注 ぎ込んだともいわれる。そのためか、後編 6 巻は、1880(明治 13)年に愛知県が出版費用 を援助し、名古屋の書肆「永楽堂」の片野東四郎が刊行している。「名所図会」という名の 書籍は、江戸や摂津、長崎など各地で作られていて枚挙にいとまがないが、その作成にあ たっては莫大な費用と労力をともなう事業だったことがわかる。

『尾張名所図会』の内容は、尾張八郡を巻ごとにまとめている。具体的に示すと前編に 愛知郡(1巻~5巻)、知多郡(6巻)、海東郡・海西郡(7巻)、後編には中島郡(1~2 巻)、春日井郡(3~4巻)、葉栗郡(5巻)、丹羽郡(6巻)が載録されている。庶民向け

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の編纂が意識されているように感じられる文体で、尾張の故事や由緒などを交えながら深 みのある内容となっている。刊行にあたっては、実際に調査へ赴いて書かれたものや野口 梅居が収集した書籍であろうものから随所に引用されており、多角的な視点でとらえた非 常に説得力のあるものとなっている。また、挿絵も実地調査や関係文献をもとに描いた正 確なものであることから、尾張国の地誌・風俗を知りうる基本資料ともいえよう。

医学館の薬品会は『尾張名所図会』二巻に収められている。所狭しと並んでいる博物学 資料と、これを大勢の人々が見学している様子をリアルに描写している。江戸時代の“展 覧会”を見学する人々のさまざまな表情からは、会場内の情趣までも伝わってくる。尾張 名古屋では伊藤圭介らが薬品会を開催しており、一般を対象に開放していたこともあって、

多くのひとに受け入れられていた経緯がある。こうした土壌が醸成されていたなかで、官 営による薬品会が開催されるまでになったのである。

尾張医学館でおこなわれた薬品会は、藩医を務め医学館の主宰であった浅井家が開催し ている。浅井家は医師でありながら本草学者であり、医学館の前身である浅井家塾静観堂 を開設し、医学者養成にあたっていた。浅井家4代正仲のときに、京都から尾張に招かれ ており、名古屋の医学の発展に尽力する。静観堂講舎を医学館と改称したのが、浅井家五 代の浅井正翼(紫山)(1797~1860)で、『尾張名所図会』に収められた薬品会を開いた人 物である

本草学者でもあった浅井紫山は、薬品会の開催と定着を目指した。これについて、『尾張 名所図会』には前述したように、毎年 6 月 10 日に山海問わず万物を対象に、奇品をはじめ、

インドや中国、西洋、蝦夷地の物産を遍く集めている。その数、一万余種にも及び、多く の人に見学することを許し、当日の見物は貴賎や老弱を問わず、さらには隣国のもの、近 くに住む者を含めて群集になっていたとある。まさに“公衆に開かれた展覧会”の姿を象 徴した文言であり、その賑やかな光景が『尾張名所図会』のなかに収められている。近世 身分制社会において、貴賎の隔てなく開放した先駆的な催事だったともいえる。つまり、

催事と学習の場が連動した、まさに教育のツールとして結実したのが“薬品会”なのであ る。

薬品会の出品資料

『尾張名所図会』に描かれている薬品会は、医学館で開催された様子を伝えるものであ る。老若男女が会場内に訪れ、談笑しながら見学している様子や熱心に見入る姿もとらえ

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ている。展示品には剥製もあれば、舶来品もあるなど、当時ではなかなか見ることができ なかったのであろう博物学資料が陳列されている。この頃の日本は、薬学中心の本草学か ら自然科学を対象とする博物学へとシフトしてきていた。李時珍著『本草綱目』をベース に日本の本草学は成長してきたが、これに批判的な動きが生じてきた。さらに、長崎出島 発の蘭学、そして洋学の発信が、次なる段階へと本草学を導いたといえる。1775 年に長崎 へ外科医として訪れた植物学者でもツュンベリー(カール・ツンベルク)が、師のリンネ の植物大系を日本に伝え、吉雄耕牛や中川淳庵など指導していたことが、これを助長する ことにもなった。その後、シーボルトらによってさらに西洋博物学への傾倒を強めてい くことになるが、まさに近世本草学から近代博物学への過渡期にあったといえる

医学館を展示会場として公開された薬品会は、隔てなく広く開放され、名古屋以外から も多くの見学者を集めたようである。『尾張名所図会』には「当日見物の貴賤老若、隣国近 在よりも湊ひて群れをなす」という文言はこれをあらわしている。通常目にすることがで きない『御預』や『恩賜』のものなど、近世人の興味をかき立てたのであろう。そこで、

次に医学館薬品会の会場と陳列されたものを具体的にみていこう。

「医学館薬品会」(国立公文書館蔵『尾張名所図会』所収)

88 会場の空間的把握

描かれている薬品会はおそらく会場の一部屋になるのだろう。ほかの部屋へ通じる回廊 には植物が置かれており、列をなした多くの群衆が描かれている。この部屋(会場)は大 きく四つのブロックにわかれており、部屋の上座にあたる床の間【第1会室】、右側の幔幕

【第2会室】・左の竹結界と庭【第3会室】・柱【第4会室】とに大別することができる。

この1から4の会室は特別な間仕切りなどは設けておらず、会場全体を陳列空間としてと らえ、そこには規則性やテーマ性も見出すことはできない。

会場導線は幔幕【第2会室】側から入り、竹結界【第3会室】を通り、正面の床の間【第 1会室】へと促す。幔幕部分がうまく壁面の要素を果たしており、見学者の目には竹結界

【第3会室】が飛び込んでくる。そのため、入室して目をひかせるかのように大型の資料

(海獺皮)や柱【第4会室】に蛇皮を陳列している。会場入ってすぐに見学者にインパク トを与えるような仕掛けをしているともいえよう。なお、庭には生・死(剥製)は不明で あるが、国君恩賜の鶴を置き、会室の品格を高める仕掛けをおこなっている。

そして、竹結果【第3会室】から幔幕【第2会室】へと導線をとり、ここには虎皮をメ インに柱【第4会室】を有効に利用して鳳凰を陳列している。これら以外は、小さな資料 が置かれており、虎皮と鳳凰をメイン資料としているものと思われる。竹結界【第2会室】

でも海獺皮が置かれているように、【第3会室】にも虎皮がある。当時、こうした皮革資料 は、当時、メイン資料として扱われていたことを示す。また、蛇皮や穿山甲、鳳凰という ように柱【第4会室】に補足資料を陳列するような場所として位置付け、立体展示を演出 している。

床の間【第1会室】が会場全体でのメインということなろう。床の間の性格を理解すれ ば容易いが、御預人参熊胆が置かれているのはこれを意味している。また、人体模型を陳 列しているが、当時、木骨は数が少ない貴重なものだった。腑分けが制限されていた近世 において、当時の人たちは人体の仕組みはなかなか知り得ることがなかった。『解体新書』

の出版によって、情報が得られるようになったものの、立体的に把握するには、これらの ものから知るほかなかった。“珍奇”という点において、メインに据えられたのであろうが、

博物学的展示を実現している。また、前述した幔幕によって、床の間を見せないようにし、

主催者側の考えるメイン資料の演出を図っている。

廊下を出ると庭を見ているものがいる。ここで描かれている野猪以外にも、陳列されて いたものと推測される。会場が静態だったことに対し、庭を使って動態をも演出している。

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