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日本の博物館史

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 36-52)

博物館の歴史をどこから見出すのかは、歴史学、博物館学として「博物館」をどうとら えるかに関係している。両者共通して画期とみるのは博物館法の制定であり、これをもっ て近代博物館として確固たる位置付けがなされたといえよう。近代博物館とは、現行(平 成 23 年最終改正)の博物館法(昭和 26 年 12 月 1 日法律第 285 号)2条(定義)には次の

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この法律において「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資 料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ。)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆 の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業 を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(社会 教育法 による公民館及び図書館法(昭和二十五年法律第百十八号)による図書館を除 く。)のうち、地方公共団体、一般社団法人若しくは一般財団法人、宗教法人又は政令 で定めるその他の法人(独立行政法人(独立行政法人通則法(平成十一年法律第百三 号)第二条第一項に規定する独立行政法人をいう。第二十九条において同じ。)を除く。)

が設置するもので次章の規定による登録を受けたものをいう。

これによれば、博物館の基幹機能である①収集②保管③展示し、さらに教育的配慮のも とに教養、調査研究、レクリエーション等に役立つために必要な事業をおこなう。これと 同時に資料の調査研究をすることを目的とし、その前提には一般公衆が利用する機会を提 供する機関としている。この精神は、社会教育法(昭和 24 年 6 月 10 日法律第 207 号)に 通じるところであり23、第二条(社会教育の定義)をみれば、「学校の教育課程として行 われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体 育及びレクリエーションの活動を含む。)」としている。学校とは一線を画した“国民”に 対する教育機関が博物館であって、日本国民の学術・文化の発展に寄与することを目的と している。

社会教育法および博物館法が定める教育機関は、まさに“近代”博物館としての姿であ ろう。その背景には、日本が近代国家として成熟したことがあり、これを反映したものに なろう。ここに至るまでには、関連法規が制定された 1924(昭和 24)年から 1926(昭和 26)年までに蓄積された博物館の活動実績があり、これに裏付けられた条文ということに なる。そこで本章では、博物館法制定を一画期とし、制定以前の博物館史を通覧して前期 と中期、これ以降を後期として、日本の博物館の歩みについて、時間軸のなかで歴史的に 位置付け、さらには博物館の意義との関係性から取り上げていきたい。

博物館前史

日本における博物館の歴史をひも解いていくと、その活動や役割、設置目的は、宝物を 保存することからはじまっている。これらは公開することを前提としたのではなく、 “秘

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蔵の宝物”として管理されていたのである。歴史ある社寺に宝蔵や宝庫として今日に残さ れているのは、まさにそれを裏付けるものである24。他方、やや性格は異なるが、寺社な どでは、特定の日に居開帳や出開帳して仏像や厨子などを公開し、一般参拝を促し、御利 益や功徳を得られる機会を提供している。こうした行事は、一種の“公開”であり、今日 的な博物館の展示公開に通じるものである。

建物での資料管理、そして保存から公開へと進展してきたのは、本草学という、いわば 自然科学の分野において、実物標本などを陳列する一種の催事が開催されるようになった ことが大きい。こうした動きは江戸時代に入ってから、特に専門家集団による情報交換の 場としてはじまった。その後、本草学に関する研究会が組織され、さらには大衆の知的関 心の高まりなどから、広く見学を促す“事業”に発展した。ここで出品された“モノ”は 本草学に限らず、古器類や化石、剥製なども陳列され、今日の博物学の様相を呈するよう になっていったのである。

本章では、博物館成立前史として、本草学者らによる催事の背景にあった学術的変容か ら組織変遷、地域動向を含めながら紹介していく。また、日本の近代国家化の流れのなか で、これらがどのような形態となっていったのかについても取り上げる。近世から近代日 本における博物館史を“会(企画)”と“人(研究者)”の関係性から見出していくことに する。

本草学から博物学へ

日本の“博物館”および“博物館展示”の起源を考えると、本草学者らによる私邸や社 寺に開催された催事である「物産会」や「薬品会」(「本草会」とも称す)にまで遡る。本 草学とは、中国で発達した医薬に関する学問のことで、自然界に存在する全てのものを研 究対象としていることから「博物学」(「博(ひろ)」く「物」を「学」ぶ)とも称した。“Natural history”の訳語として博物学が用いられたが、東洋での“本草学”がこれに相当するので ある。

日本では醍醐天皇に侍医として仕え、薬師でもあった深根輔仁博士により 918(延喜 18)

年頃に編纂された「本草和名」が、現存最古の本草書といわれる。薬物は 1025 種で、玉石・

草・木・獣禽・虫魚・菓・菜・米穀・有用無用の 9 種で分類されている。これは所在が長 く行方不明となっていたが、幕府紅葉山文庫にあった古写本を幕医多紀元簡が発見し、誤 植を訂正したうえで 1796(寛政 8)年に再刊行した。こうした動きは日本でも本草学が進 展した結果でもあり、江戸時代に入り、国内における本草学研究が本格化しているといえ

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1596 年に中国の本草学者である李時珍が著し、金陵(現在の南京)で出版された『本草 綱目』は、多くの日本人本草学者に影響を与えた書物として知られる。日本には刊行まも なく入ってきたともされるが、1607(慶長 12)年には輸入していることがわかっている。

『本草綱目』は全 52 巻、付図 2 巻からなり、李時珍が認識していた生物界・自然界に基 づく分類配列方法で記載された。解説には釈名(別名・由来)・集解(産地・性状)・正誤・

修治(調製加工法)・気味・主治(薬効)・発明(薬理)・附方からなり、特に、集解の解説 は詳述されていて、本書は博物学的色彩を帯びた良書である。和刻本も出されるなど、本 草学の基本文献として、当時の人々のバイブルとなっていた25

この影響を受けて儒学者で林家の祖である林羅山は、1612 年に『本草綱目』を抄出した 全五巻からなる『多識篇』を記した。その後、これらの影響を受けた貝原益軒が、1708(宝 永 5)年に『大和本草』、大坂の医師である寺島良安が 1712(正徳 2)年に『和漢三才図会』

を著した。『和漢三才図会』は天・人・地から考証されており、図を添えて漢文で説明され ている。医者として正確に論じている一方で、空想上の表現も多数みられるが、博物学書 としての評価は高い26。さらに、稲生若水は丹羽正伯らと 1738(元文 3)年に『庶物類纂』

を刊行するなど、『本草綱目』を補う書物も作成されるようになってきた。

また、18 世紀後期になると、本草学は博物学的性格を一層強めていくことになる。19 世紀前半になると、博物図譜が刊行されるようになり、多くの書物が生まれた。その作者 も幕臣や藩士、町人などと、本草学者からの域を出て、“アマチュア研究者”による成果が 発表された。これは、博物学が普及、大衆化していったことを裏付けることである。また、

分野に特化した研究も進められ、博物学はさらに発展することになる。

本草学者田村藍水の次男にあたる栗本丹洲は、幕医栗本家を継いで奥医師となったが、

医学館では本草を担当した人物である。彼は本草学を素地としながら、虫・魚・貝などの 研究をおこない、『千虫譜』という昆虫図譜を残した。さらに『海月・蛸・烏賊類図巻』を 残し、珍奇な生物だけを取り上げた書物も残している。名古屋藩士水谷豊文は蘭学を修め るとともに、薬園を担当していたことから、畿内から北陸までの採薬に向かっては、各地 の動植物を写生してまわった。その成果を『豊文禽譜』として著し、時折、部分拡大をし ながら説明を付すスタイルをとっている。

水谷豊文は“嘗百社”という、尾張本草学の研究会をつくっている。栗本丹洲と水谷豊 文の両者は、いずれも博物学者であるシーボルトと面識がある人物で、水谷豊文は江戸参

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府途中の 1826(文政 9)年に、栗本丹洲も同年に面会し、シーボルトへ『蟹蝦類写真』を 贈っている。オランダ商館医として来日したシーボルトも日本の博物学調査の任務を掌っ ており、彼らとの面会は情報交換を兼ねたもので、双方にとって有益だった。

上記の人物と違う学術系統として、奥倉辰行(通称加賀屋長右衛門)がいる。彼は江戸 神田で青物商をしていたが、日本橋魚市場で魚を購入しては毎日写生を続けていた。20 年 間続けた写生を『水族四帖』として発表した。ただ写生しただけではなく、各地での呼称 や形態、和漢籍からの引用例を添えて記したまさに博物学書という内容となっている。さ らに自身の号を付した『漁仙水族写真』を刊行するなど、家業が傾く程、魚類に目を向け て研究していった。また、武蔵石寿は元々旗本だったが、退役後に貝類の研究に尽力し、

科学的貝類図鑑と評される『目八譜』を刊行した。絵は動植物画家であった服部雪斎が担 当し、武蔵石寿が文責となった。武蔵石寿は赭鞭会という、本草に興味のあった富山藩主 前田利保を中心に、福岡藩主黒田斉清らがあつまって組織された研究会のメンバーのひと りだった。なお、日本初の体系的虫類図鑑『虫譜図説』を記した飯室楽圃もその会員であ った。

日本の本草学は、松岡恕庵に師事する本草学者の小野蘭山が『本草綱目啓蒙』を記した ことにより一応の大成をみた。しかし、日本の本草学は『本草綱目』の域にとどまる傾向 が強く、貝原益軒は『大和本草』のなかで、「本草綱目ニ品類ヲ分ツニ疑フ可キ事多シ」と

『本草綱目』に疑義を出すものもいた。中国からもたらされた『本草綱目』の分類に疑問 を呈する姿勢は、まさに研究の進化を予見させるものであろう。大陸から伝わった当時で は先進的な学問を、島国日本で見つめ直そうという動きが生じていたのであった。

このように、中国本草学の影響を受けて研究が進められ、多くの出版物が日本で刊行さ れてきた。薬種の効能などを調べる研究会から、次第に自然界全般に目が向けられるよう になっていった。換言すれば、自然科学という学問領域に広がっていったのである。植物 から動物、動物のなかでも、魚類や昆虫、菌類などにも、その研究対象は広がっていった。

また、研究会も学者・研究者だけではなく、在野の人たちを巻き込んだグループが作られ ている。前述したいわゆる博物図譜はその一端にすぎないが、本草学者も及ばない成果を 挙げているものもいた。

これらの成果は“図書”という媒介を通じて得られる情報に過ぎなかった。そこには筆 者の意見が反映され、多くの知見を得られることができるものの、さらなる興味関心が尽 きることはなかった。また、それらの書物は図譜も収められていることが多く、写実的に

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