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博覧会から博物館へ

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 52-66)

各国で独自におこなわれていた博物館・博覧会事業は万国博覧会の開催によって、さら なる広がりをみせていくことになる。複数国が集まってひとつの博覧会をおこなうことは、

国際競争力を高めるとともに、相互理解、共通認識を促進させることにつながった。ロン ドン万博が開催された 1851 年という時代の日本は、対外関係の変化により長く続いていた 幕藩体制や海禁の限界があらわれてきており、国内は閉塞感に包まれていた。他方、西洋 では産業革命のもと、次世代への胎動を感じる、まさに華やかな“祭典”が開催されてい たのである。

現在の万国博覧会(国際博覧会)は、1928 年に締結された国際博覧会条約(BIE 条約)

に基づいて開催されている。日本は 1964 年に批准しているが、今日に至るまでの過程をみ ると、万国博覧会の性格の変化や目的も多様だったことがわかる。また、万国博覧会への 公式参加が、国内における博物館創設の気運の高まりをもたらした。本章では、万国博覧 会の沿革とともに、内国勧業博覧会との関係を含めて、展覧会事業の効果を通覧していく ことにする。

万国博覧会開催以前

江戸期の日本で物産会や薬品会が開催されていたなか、海外ではいち早く産業の博覧会 がおこなわれている。のちに日本でも催される内国勧業博覧会のような体裁を、既に整え ていたのである。つまり、博覧会事業のなかに国内産業を位置付け、これを通じた、産業 振興を図るために事業展開していた。

1756 年に開催されたイギリス産業博覧会は、産業振興を含めた世界初の産業博覧会であ

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った。そもそもは王立美術協会が、新作の美術作品を奨励する目的として開催していたも ので、これにあわせて優秀な産業製品を展示することになった。1761 年の博覧会では、さ らに農業・林業・工業に関係する機械工作が出品・展示されるなど、産業色を強くしてい った。この頃のイギリスは、産業革命前後にあたり、当時の社会経済を反映した博覧会だ ったといえよう。

その後、1797 年にはフランス内国勧業博覧会(産業展示会)が開催される。これはフラ ンス革命後、政府主導でおこなった産業振興を目的とした国内博覧会である。産業革命以 降、イギリスに遅れをとっていたフランスが、博覧会を通じて国内振興を図るとともにイ ギリスに追いつこうと企図したのである。優れた出品作には褒賞を与えるスタイルもこの 頃には既におこなわれていた。これをきっかけにして、次第に規模が拡大されていき、ロ ンドン万国博覧会が開催されるまで、その回数は 11 を数えた。国策としての「展示の原則」

というものを考え出したのは、この工業製品展示会を開催することとなったフランス人が 最初だったとされる43

このように、イギリスとフランスで先駆けて産業振興などを目的としておこなわれてい た博覧会事業は、その規模を大きなものとしていった。それが結果的に国を超え、複数国 による博覧会(=万国博覧会)の開催となったのである。博物館が国内向けの政治的プロ パガンダの要素を少なからずもったことに対して、勧業博覧会は国家を支える産業基盤の 充実と発展を目指すものであった。それが、各国の産業技術を競う場所となっていき、さ らに伝統工芸などを含めて、その国を紹介する機会にもなり、外交要素も含んでいった。

万国博覧会の開催は、各国の文化的交流を促すとともに、産業としても水準を高める事業 として定着していくことになった。

万国博覧会の開催

1851 年、世界で初めての万国博覧会がロンドンで開催される。これ以降、欧米を中心に 万国博覧会が開催されていくことになる。日本が使節を派遣し、政府として公式参加する 前後の万国博覧会が開催された 1880 年までの一覧を示すと次のようになる。

1880 年以前の万博一覧

万博開催地 開催期間 入場者 備考

1 第1回ロンドン(英) 1851.5.1~10.15 604 万人 2 ニューヨーク(米) 1853.7.14~1854.11.1 115 万人

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3 第1回パリ(仏) 1855.5.15~11.15 516 万人

4 第2回ロンドン 1862.5.1~11.15 621 万人 遣欧使節団視察 5 第2回パリ 1867.4.1~10.1 906 万人 幕府・佐賀藩・

薩摩藩の参加 6 ウィーン(墺) 1873.5.1~9.30 725 万人 日本公式出品 7 フィラデルフィア(伊) 1876.5.10~11.10 978 万人

8 第3回パリ 1878.5.1~11.10 1603 万人 9 シドニー(豪) 1879.9.17~1880.4.20 111 万人 10 メルボルン(豪) 1880.10.1~1881.4.30 145 万人

1851 年に開催された第1回ロンドン万国博覧会を主導したのは、ヴィクトリア女王の夫 アルバート公である。パリでおこなわれていた産業博覧会を見学した H.コールが進言した もので、当初、イギリスでは国内博覧会を予定していたが、これを万国博覧会と変更して 開催したのである。この頃、イギリスは産業革命の進展によって、“世界の工場”とも称さ れるほど繁栄していた。まさにイギリスの万国博覧会の開催は、その正式名称「万国の産 業の成果の大博覧会」に相応しいものとなり、以降、学術・技術の先進性と優越性を競う、

まさに「博覧会の時代」がスタートした44

第 1 回ロンドン万国博覧会でのメインとなったのはクリスタルパレス(水晶宮)という 建物である。クリスタルパレスは、J.パクストンが設計し、30 万枚ものガラスを駆使した 建物の美しさから名付けられたものである。館内には噴水や植栽がなされ、そのなかに各 国のブースが設けられ、開会式もここでとりおこなわれている。参加国は 34 ヶ国あり、出 展は原料部門、機械部門、製品部門、美術部門に分類されていた。なお、オランダのF.

ゼーヘルス商会が日本の屏風を出品している45

第 1 回ロンドン万博は、当時のロンドンの人口の3倍にあたる 604 万人が来場し、大成 功をおさめた。成功した理由として、印刷技術(メディア)の発展による効果的な宣伝活 動、さらに会場までの鉄道網の充実が大きい。宣伝活動と交通網の整備が入場者数を押し 上げたとともに、入場料金に工夫したことも功を奏した。それは、曜日によって入場料を 変動させたことによって、多くの階層の人が訪れる結果となった。さらに、T.クックが万 国博覧会を見学する団体旅行を企画して地方からロンドンへの人の移動を促したこともあ る。万国博覧会が新しい観光業を生み出したともいえる。こうして初めて開かれた万国博 覧会は、大盛況のうちに終了し、多くの利益を生む結果となった。

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1853 年にニューヨークでおこなわれた万国博覧会は、ロンドン万博を見学したアメリカ の実業家たちが発案したとされる。ロンドン万博のシンボルであったクリスタルパレスを 模倣した鉄やガラスで造られた建物をメイン会場とした。開会式にはアメリカ大統領のフ ランクリン・ピアースも出席し、ヨーロッパとアメリカ大陸から 23 ヶ国が参加した。

アメリカ国内から数多く出品され、なかでも E.G.オーティスが出品した落下防止機能付 き蒸気エレベーターは有名である。また、産業機械ばかりでなく、美術作品が数多く出品 され、今後の万博のスタイルに影響を与えることになる。なお、ニューヨーク万博ではオ ランダからの展示品に日本の物品が含まれており、世界に紹介されている。

ニューヨーク万博が開催されていた年、M.ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀沖 に来航している。武力をもって日本に開国を迫る強硬なものであり、この翌年、日米和親 条約を締結するに至っている。万博という華やかな“祭典”の一方で、極東進出という帝 国主義政策を断行していた。万博自体は、新しい博覧会形態が注目を集め、多くの旅行者 を動員し、それにあわせてホテルなどが建設されたものの、収益は伸び悩む結果となった。

1855 年に開催されたパリ万国博覧会は、より政治的意向を強くしたものとなった。この 時のフランス皇帝ナポレオン三世は、先のロンドン万博を意識して開催を強行している。

前年からイギリス・フランス・オスマントルコ・サルデーニャとロシアとの間で中近東と バルカン半島の支配を巡るクリミア戦争が勃発していたなかでの開催だった。対外的・外 交的にはこうした動きのあるなかで、国内的にはナポレオン帝政の正当性を内外的に誇示 することも企図して、万博が開催されたのである。

第 1 回パリ万博には、25 ヶ国の参加があり、産業館や機械館に多くの出品が展示された。

労働者への実物教育を目的としたこともあって、蒸気機関類は稼働する様子までみること ができた。実証的かつ産業的であるサン=シモン主義者たちがパリ万博を推進していたこ とが、こうした展示手法を取り入れたとされる。フランス産業の国際競争力を高めるため に、自国産業の質的向上を狙ったものであった。

また、モンテーニュ大通りにパビリオン「美術宮」(モンテーニュ宮)で、本格的な美術 展示がおこなわれたのも、パリ万博の特徴といえる。イギリスやフランス、イタリアなど の作品約 5,000 点が展示され、フランス芸術を中心とした内容は国威発揚ともいえるもの となっていた。これを契機に、これまで万博がもっていた“産業の祭典”の性格が、“産業 と芸術の祭典”へと変容することになったのである。

しかし、入場者はロンドン万博に及ばず、収支としても赤字になった博覧会だった。た

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