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博物館資料の創出

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 96-105)

博物館に資料が収蔵されて初めて“博物館資料”となる。換言すれば、自然界、人間社 会に存在するあらゆる“モノ”にしかるべき価値が見出されれば、博物館資料となる可能 性がある。資料が博物館に収蔵されるまでにはいくつかの過程を経るが、各段階にはさま ざまな人や手段が介在している。博物館資料になったとしても、活用されなくては“死蔵”

という事態となり、博物館がもつ意味のない単なる“モノ”となってしまう。

伊藤寿朗氏は“モノ”が資料となり、博物館資料に至るまでを段階的にとらえて紹介し ている。潜在的価値のあるモノが「素資料」であり、さらに学術的・教育的価値を顕在化 された資料が「原資料」、顕在化された価値の活用法の決定された資料が「博物館資料」と 明確かつ的確に定義している17。このような過程のなかで第一段階の素資料を見出し、さ らに原資料と博物館資料へ発展させるのが学芸員である。そこで、本章では、具体的事例 をもとに、博物館資料の成立について、創出過程と概念形成から考えていきたい。

コレクションから博物館資料へ

博物館法において、博物館資料のことは「資料」と統一明記されている。しかし、現場 では慣例的な呼び名も存在しており、人文系博物館と自然系博物館では資料に対するとら え方の違いがある。例えば、歴史系博物館や公文書館などは「史料」を用いることもあれ ば、美術館などでは「作品」と称する。また、自然系博物館では「標本」と称することが 多い。これらから派生して、後述する「ユニバーシティ・ミュージアム設置について」(報 告)のなかでは「学術標本」という文言が多用されている。これらは“博物館資料”とし

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て共通するところであるが、古くから現場の博物館で定着していた言葉が今日でもそのま ま使用されていることが多い。

博物館資料として成立するには、博物館学的用途が求められる。これを小分類すると、

研究的用途と教育的用途があり、博物館運営の両輪である調査研究と博物館教育的視座に 立脚している。博物館資料と個人コレクターが所蔵する資料の相違はここに見出すことが でき、研究されず、かつ一般に公開・利用されていない資料は博物館資料とはいえない。

つまり、調査研究の素材の延長線上には常に公開の義務がともなっており、活用なくして 博物館資料はありえないのである。地方の博物館などでは、学芸員により“資料の囲い込 み”がおこなわれているところもみうけられるが、博物館資料である以上、公開および外 部研究者による活用を促さなければならないのである。

さて、博物館資料が成立する以前、日本の資料的概念は、いわゆる古代宝物の類から見 出すことができる。西洋の王侯貴族やキリスト教会などが数々の名宝を収集してきたよう に、古代日本でも権力者が什器・什宝を蒐集している。特に、大陸中国からの美術作品な どはその代表的なものであり、珍貴なものを求める権力者の意向は、国は違えど共通する ところといえよう。

聖武天皇や光明皇后ゆかりの品々、天平時代を中心とした美術作品などを収蔵する正倉 院には、数多くの宝物が今日にも伝えられている。具体的には楽器や調度品、武器・武具、

仏具、儀式具、服飾品と多岐にわたり、さらには大黄や甘草、香附子などといった薬物も 収めている。これらは、『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈帳』、『大小王真跡帳』、『藤 原公真跡屛風帳』の五巻からなる献物帳に記載されている。しかし、永年保存するという 概念は次第に欠落していっており、『国家珍宝帳』に仏世界への移管を宣言し、対宝物観が 揺らいでいることが指摘されている18

先の五巻の献物帳によって、聖武天皇の遺愛品をはじめとする正倉院の所蔵資料が目録 化されているともいえ、その様相はまさに古代博物館の一形態ともいえる。正倉院をはじ めとして、出雲大社や厳島神社、金毘羅神社、太宰府天満宮、観世音寺など、全国の歴史 ある神社仏閣には宝物館が設けてあるが、これらは保存を第一とした陳列所以前の博物館 の原型と位置付けることができよう。棚橋源太郎も「本邦の神社仏閣には遠き昔から、到 る處に既に一種の博物館が発達し存在してゐたと見ることも出来る」と指摘している19。 正倉院は博物館を意図して建造されたものではなく、さらには中世ヨーロッパのヴンダ ーカンマーとも性格を異にする。正倉院の起源は、756(天平勝宝 8)年、聖武天皇の七七

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聖忌(49 日忌)の 6 月 21 日に宮中からその遺愛の品々600 余りの物品を東大寺大仏に献納 したことである。その後も光明皇后は、自身や聖武天皇のゆかりの品々を大仏に献納し、

これらが正倉院に納められていった。つまり、聖武天皇が自ら造った建物でもなく、光明 皇后の行為に対して周囲が保存措置を講じるものとして設けられたのである。

正倉院が収蔵する資料は、国産の貴重な文化財ばかりではなく、中国からの大陸伝来品 も含まれている。中国製の献上物には、材料や技術、意匠などに、中国ばかりでなく、イ ンドやギリシャ、ローマ、エジプトの要素が含まれている。これらをみると、多国間で交 流していた中国の国際性も示される。そのため、正倉院は“シルクロード東の終着点”と も称されている20。さらに、正倉院の収蔵品には発掘遺物だけではなく、伝世品も多数あ り、よい状態で管理されていることから、まさに日本が誇る文化財ともいえよう。

他方、正倉院は観賞にも供していたこともある。薬品や武器の使用、そして見本として 持ち出されている。また、内裏への屏風や楽器類の貸し出しもおこなわれており、なかに はそのまま留め置かれていたり、売却されたりして返却されなかったものもあったようで ある。博物館成立以前に、「モノ」・「ハコ」は存在しており、これを観賞される機会も設け られていた。しかし、これらが恒常的に人々に公開される状態(=常設展示)だったわけ ではなかった21。いわば未成熟ながらも、潜在的に博物館の要素を持ち合わせていたので ある。

このように貴重な文化財を保存している正倉院であるが、建物である正倉院正倉だけが 1997(平成 9)年に国宝の指定を受けている(指定番号 00219)。「古都奈良の文化財」とし て 1998 年 12 月に世界遺産登録されるなかで、構成資産となっている。しかし、正倉院で 所蔵されている宝物は指定物件とはなっていない。それは宮内庁が保管する皇室御物は慣 習的に文化財保護法の対象外とされているためである。

行政資料から博物館資料へ

正倉院の事例からもわかるように、一部の人たちにより献上・収集・保管されてきた宝 物類が後世に残されたことによって、今日の研究者たちがしかるべき価値を見出してきた。

これにより、文化財となり、さらには学術資料や博物館資料にもなったのである。それは、

宝物に限ったわけではなく、行政資料もその対象であった。例えば、国絵図と呼ばれる「元 禄国絵図」や「天保国絵図」といった、江戸幕府が各藩に指示して作成させた絵図面は、

現在では国指定重要文化財となっている。当然、作成した藩やこれに関係した勘定奉行や 勘定吟味役、目付たちは、行政的観点から取り組んだ事業であり、文化財としての認識が

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つまり、当時では行政文書として作成されたものが、今日で価値を見出されたことによ って文化財と指定され、さらに後世に残すべく法的措置もとられているのである。行政文 書などの歴史資料で博物館資料化される多くのものは、こうして創出されている。長崎県 が所有する国指定重要文化財の「長崎奉行所関係文書」も現在、長崎歴史文化博物館が所 蔵しているが、その前に県立長崎図書館が管理・保存していたこともあって、図書分類さ れていた痕跡を現在に残している22

当時の行政資料が、今日では貴重な文化財となっているもののなかに「踏絵」がある。

踏絵は、江戸時代の宗門改を象徴するものであり、キリシタンではないことを証明するた めの道具でもある。長崎奉行所は真鍮製の踏絵を20枚(現存19枚)、信仰物であるメダ リオンなどを板に嵌め込んだ板踏絵を所持し、宗門蔵で保管していた23。長崎市中(町方・

村方)での実施では町年寄や町乙名などをはじめとする役人に貸与して絵踏をおこない、

遠方の平戸藩や五島藩、島原藩、大分藩、天草といった絵踏をおこなう地域には貸し出し ていた。また、日本人・外国人漂流民に対しても、宗旨を確認するときに利用されていた ことは既に指摘している通りである24

1858(安政 5)年に結ばれた日米修好通商条約によって、長崎における絵踏の停止が盛 り込まれることになる。こうして踏絵の利用は次第になくなっていったが、ここで浮上し てきたのが踏絵を所望する動きである。江戸時代、日本での滞在を許されていたのは、オ ランダ人と中国人だったが、幕末から明治にかけて、アメリカ人やイギリス人、フランス 人などが日本に滞在するようになる。彼らは日本で禁教政策がおこなわれていたことを認 識しており、踏絵の存在も知られていた。シーボルト著『NIPPON』のなかでも、“jefumi”

と紹介されていたこともあって、踏絵は外国人の興味対象となっていたのである。

踏絵は現在、東京国立博物館で保管されている。長崎から東京へ移管された経緯につい て、1874(明治 7)年 9 月 22 日、長崎県令宮川房之が教部大輔宍戸璣へ宛てた伺書で確認 することができる25。神奈川裁判所のフランスのお雇外国人が、長崎裁判所の田辺基光を 通じて、踏絵などの購入を求めていることを受けて、その対処について教部省へ伺いをた てている。このお雇い外国人は、踏絵は「珍奇の品」であるとして、値段の提示はしてい ないものの購入を示唆し、もし購入ができないのであれば、一度見せてほしいと希望して いる。宮川房之は、今後も同様の事態が想定されるため、踏絵とともに、キリシタンから 没収したものを含めて、教部省に納めたいと具申しているのである。

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