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博物館史のなかの人々

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 133-144)

日本の博物学の歩みや博物館史をみていくと、そこには多くの人々が関わり、発展に寄 与していることがわかる。まさに、博物館が人により支えられ、学術研究を基本とした機 関であることを歴史が証明している。前近代の本草学者、そして博物学者らによって牽引 された日本の博物館は、明治以降、欧米諸国の博物館の要素を取り入れながら成長してき た。資料に対する考え方、そして展示手法、博物館教育法に至るまで、時間軸のなかで考 えていくと、転機となる時には、そこに重要な人物の存在があった。

本章では、江戸から明治期に至るまで、日本の博物館史に欠かすことができない人物に ついて紹介していく。人物史の視点から、今日の博物館学芸員に至るまでの形成過程を見 出していくことにする。なお、本論のなかで別に取り上げている人物については、本章で は割愛している。

江戸時代の博物学者

江戸時代は、本草学を系譜とする研究者が中心となって活躍している。本草学はすべて のものを薬という観点から捉えようとする、一種の博物学であり、薬の原料となるのは

“草”が最も多いので、そのように名付けられたとされる。日本でも中国で生まれた本 草学を基本としながらも、新たな学問追求のなかで、独自の成果を見出していく研究者も あらわれてきた

1607(慶長 12)年に『本草綱目』が輸入されたことは、日本の本草学・博物学の嚆矢と なった。中世以来の『証類本草』にとって代わる、博物学的な内容に富んでおり、江戸時 代を通じて、本草・博物学者たちの重要な参考書となった。貝原益軒が著した『大和本 草』が出版されて以降、本草と博物学に関する数多くの著作が発表されている。詳細な分 類であれば李時珍著『本草綱目』、簡単な分類であれば唐慎微著『証類本草』、さらには『大 和本草』の分類を採用したものもあれば、これらの変形も用いられる状況となっている。

また、リンネの植物体系が持ち込まれたことは、本草学において一画期となり、新たな領 域に入っていく序章となった

本草学は京都学派と江戸学派とでは、そのスタンスが異なっていた。京都本草学派が稲 生若水(1655~1715)以来の系譜をひき、理論主義に基づく書斎派であったことに対し、

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江戸本草学派は採薬や栽培に努める実学派とされる。そのスタンスの違いが、かえって本 草学の興隆にもつながったといえる。

さらに、本草学も薬学ばかりでなく、自然科学全般にわたって研究する者があらわれる。

そして、書斎派、実学派を兼ね備えた行動力のある諸派も現われ、彼らによって博物館事 業の前身となる薬品会や物産会は推進されていったのである。

(1)貝原益軒(1630~1714)

福岡藩で右筆であった寛斎の子として生まれ、元来、儒学者として知られる。即時・則 物の思考で、各地を巡見してまわり多くの朱子学者らと親交を重ねる。そして、本草学者 である向井元升や黒川道祐らとも親しく、さらに、京都の本草学者とも交流するなかで、

本草学にも興味を傾けていった。

また、福岡には宮崎安貞(1623~1697)という農学者がいる。彼とも京都で交友し、中 国農書の講義をおこなうとともに、自宅内で野菜や花を栽培しては『花譜』や『菜譜』を 刊行し、本草学への理解を深めていった。そのようななか、1672(寛文 12)年、『校正本 草綱目』39 冊の和刻本を校訂する。本書の巻末に登載品物の和漢名対照表をつけるなど、

貝原益軒自身の新境地を開くことになる書物となった。

貝原益軒の名を本草学者として知らしめた成果が、『大和本草』の刊行である。1708(宝 永 5)年、益軒は 79 歳の時だった。これまで、幾度にわたり、国内を調査してまわり、そ こで観察し、分析した成果を集約したもので、独自の分類法と自説を提示した。生物学書・

農学書の内容で構成されており、薬用植物だけでなく、動物・鉱物も含まれている。さら に、雑草までも取り上げている本書は、博物学書としても評価が高い。東京帝国大学教授 の白井光太郎氏(1863~1932)は、「博物学者としての貝原益軒」と評している。『大和本 草』の意義は、宮崎安貞『農業全書』に寄せた農家への種植技術の啓蒙であると同時に、

良い薬種・良い製法・良い服用を専門家に対しても教示したことにある

明治に入って洋書が輸入されるまで、『大和本草』は日本の博物学書として第一線にあっ た。のちに本草学者による博物学書が刊行されているが、これに先駆けて、貝原益軒が儒 学者でありながら、本草学を志し、さらには博物学書を発表していたのである。この卓越 した成果は、日本の本草学者が参考とすべきものとして、後世に伝えられていった。

(2)稲生若水(1655~1715)

医学者である稲生恒軒の子として生まれ、医学を修めるとともに、木下順庵に儒学を学 ぶ。金沢藩主前田綱紀の儒者として召し抱えられ、1694(元禄 7)年には『金沢草木録』

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を刊行し、献上している。また、翌年には『食物伝信纂』が完成すると、加賀藩多賀信濃 を通じて前田綱紀に献上する。自説を交えながらも中国本草書に傾倒する姿勢とは一線を 画す成果となっている。

前田綱紀が李時珍著『本草綱目』を増補する目的で、『庶物類纂』の編述を稲生若水に命 じる。これを受けて、若水は『本草綱目新校正』を刊行し、さらに、『庶物類纂』では 1000 冊の刊行を目指したものの、362 巻まで完成したところで、京都で病死している。『庶物 類纂』は名物学の一大集成として評価が高い一方、新しい知見に乏しかったともされる。

しかし、『庶物類纂』の編纂事業は、若水死後も続けられたことを考えると、本草学の重要 な作業と考えられていたことがわかる

稲生若水は、薬物と飲食物を対象とした中国からの本草学に、生薬になりえる動植物に も目を向けていき、その功績は大きい。本草学という薬物の分野にとらわれず、幅広い自 然物を対象とした姿勢は、博物学の興隆につながった。医師としてだけではなく、儒者と しての彼の性格が、多角的な視点をもたせ、研究にあたらせたのであろう。その結果、門 人である松岡恕庵らを輩出し、日本の本草学を担う研究者育成にも大きく貢献した。

(3)田村藍水(1718~1776)

田村藍水の家は江戸で代々医家をしていた。藍水も江戸で生まれ、医師のかたわらで、

阿部照任(将翁)に師事して本草学を修める10。徳川吉宗による享保の改革がおこなわれ るなか、1737(元文 2)年に幕府から朝鮮人参の種子 20 粒を下付されると11、自園の百花 街中に植えて栽培に成功する。この年、『人参譜』を刊行している。幕府が薬物殖産を目指 していたなかで、彼の研究姿勢である実学主義を貫き、栽培を成功させたといえる。まさ に、田村藍水は、江戸本草学派の代表的な人物といえよう。

平賀源内の勧めを受けて、1757(宝暦 7)年、自ら会主となった江戸で初めてとなる薬 品会を開催する12。この時の薬品会は文字通り、薬草中心に出品されていたようで、本草 学や物産学の啓蒙に貢献したとされる。その翌年にも会主として神田で薬品会を開いてい る。この催事は、日本の博物館史を考えるうえで重要であったということは先に指摘した 通りである。

1763(宝暦 13)年、町医だった田村藍水は幕府医官に任ぜられ、国産人参の栽培と製造 に尽力する。また、諸藩へ採薬に訪れては各種調査してまわるなど、江戸学派らしい、フ ィールドワークを重視した研究を推進した。任官される以前から、各国へ赴き採薬をおこ なっており、例えば 1759(宝暦 8)年に、肥後でジュズネノキ、同じく益城郡二王木山で

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山豆根を得て、長崎の八郎山ではキンバイザサの採取に成功している。

フィールドワークを積極的におこなった田村藍水は、その成果を自著で発表している。

先の『人参譜』のほかに、人参の耕作法を記した『人参耕作記』(1748 年)を著し、1764

(明和元)年には火災で版板を焼失した『人参耕作記』の増補版、『朝鮮人参耕作記』を刊 行する。また、『中山伝信録物産考』(1769 年)、『琉球産物志』(1770 年)のほか、『豪猪謂 并図』も刊行し、薬学以外のものにも関心を広げていった。

1776(安永 5)年に 59 歳で没し、浅草真竜寺の墓地に息子である田村西湖と並んで葬ら れている。彼の二人の息子、田村元長(西湖)、栗本昌蔵(丹洲)ともに医師となり、博物 学者としても名を残す人物となっている。

(4)平賀源内(1728~1779)

讃岐国寒川郡志度浦で、白石茂左衛門良房の子として生まれた。父が没したことから跡 目を継ぎ、高松藩に仕え、志度浦の蔵番を勤めた。高松藩時代の源内については、不明な 点が多く、その実像はいまでもはっきりとしていない。ただ、非常にマルチな才能をもっ た人物であったことは、彼の事績が証明するところであって、今日でも本草学者・物産学 者・戯作者として紹介されていることからも裏付けられる。また、エレキテルの発明や「土 用の丑の日」という言葉をつくった人物としても知られる13

平賀源内は、1752(宝暦 2)年、25 歳にして初めて長崎へ行く。当時、長崎へ遊学する ことは、西洋の最新知識を得ることができ、藩命を以て来崎するものが多かった。蔵番で あった源内は、本草学の知識が買われて遊学が認められたものと思われるが、この時にオ ランダ語や西洋技術の習得に努めている。帰国後の 1754(宝暦 4)年には、病気を理由に して蔵番を退役し、大坂では戸田旭山、江戸では田村藍水に師事して本草学を学んだ。

平賀源内は京都学派と江戸学派の本草学を学んだことで、広い視点を身に付けることに なった。先に大坂で本草会なるものがおこなわれていたことを受けて、江戸で田村藍水に 進言して薬品会を開催するに至っている。1759(宝暦 9)年の薬品会では自らが発起人と なり、物産会を湯島で開き、出品物の主なものをまとめた『会薬譜』を刊行している。さ らに、1762(宝暦 12)年には、壬午の物産会と呼ばれる東都薬品会を開催し、全国規模の 物産会を開催することに成功した。

こうした功績が認められ、1760(宝暦 10)年、高松藩に再び召し抱えられることになる。

藩主である松平頼恭が本草学に傾倒していたこともあって、平賀源内は「薬坊主格」とし て藩主に同伴し、各地を調査してまわっている。しかし、源内は翌年、再び辞職する道を

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