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変化する学芸員

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 154-163)

“学芸員とは何か……”これは学芸員を目指す学生はもとより現職学芸員からも自問自 答の声が聞かれる。研究者なのか教育者なのか、または専門家なのか、“何でも屋”なのか。

学芸員の仕事を一言ではなかなか表現できないのは、学芸員が今日置かれている職務状況 がそうさせているのであろう。また、調査研究して展覧会を作り上げるという裏方の仕事 が多い学芸員は、一般の人々にもなかなか親しみやすい職業とは言えないのも原因といえ よう。そこで今日の学芸員について、その起源をたどるとともに、その現状についても検 討し、将来的な学芸員像を考えていくことにする。

学芸員制度成立以前―個人から組織へ

江戸時代の博物館事業に相当する物産会や薬品会を開催していた人たちは、本草学者を 中心とした、いわゆる“専門家集団”だった。彼らは情報交換を目的として、自身の研究 の進展を図るとともに、研究成果を発表する機会として薬品会を開催した。これが本草学 の域を出て、あらゆる文物を集めて陳列するようになると、博物学という広範な研究領域 に従事する研究者による展覧会がおこなわれるようになった。

本草学からの脱皮を成し遂げ、博物学的色彩を帯びてきたことで、一般にも広く公開さ れるようになった。つまり、専門家によるサロンから大衆化された催事へと変容したので ある。これにより公衆の文化的意識の向上につながるとともに、博物学的資料に関心を寄 せる人が増えていき、結果として博物学界の底上げとなった。会のスタイルも個人的なも のから始まっていたが、研究会が開催するようになり、さらには官営のものも出てきて、

その運営規模も大きくなっていった。

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展覧会の主催者を務めた本草学者や博物学者は、陳列することはもとより、その催事の 内容を記録している。これが、今日の図録にあたるもので、本書の第1部第1章で触れた ような図書類が発刊されている。会期のある催事に対して、出版物は永年的に残すことが できる媒体である。また、催事に来られなかった人にもその内容を伝えることができるも のでもあり、研究書にも類した。当時から展示と記録を意識した展覧会の運営をしていた ことがわかる。もちろん、江戸時代には学芸員制度はないものの、今日に通じる学芸研究 職の基本的な部分はすでに築かれていたといえよう。

明治になると、より組織的な動きが生じてくるようになり、1871(明治4)年 10 月に文 部省博物局が開設される。この年は古器旧物保存方が発布された年であり、宝物の保護が 図られるようになってきた40。文部省博物局が設置されたことにより、これまで大学東校 が管理していた旧幕府の薬園である小石川薬園を文部省へ移管、これを博物局が管理する ことになった。

1872(明治 5)年 2 月 22 日、博物局は日比谷門内に設置され、そして博物館と改称され ることになる。このとき、動物園も附属となり、剥製の動物標本を陳列している。こうし た動きは、文部省が 3 月 5 日から開催する湯島聖堂での博覧会を見据えたものだった。湯 島聖堂内の大成殿が 20 日間の展覧会場となり、ここには動植物標本や古物、珍奇なものな どが陳列され、これが博物館の端緒ともされる。

この頃、博物局がおこなっていた事業に版画の発行がある。これは 1872(明治 5)年か ら始められた事業で、定価は一枚一銭五厘で販売されていた。版面のサイズは、タテ 21.

0cm×ヨコ 32.0cm で、日本名・漢名・英名・ラテン名と解説が付けられている。1879(明 治 12)年までに全部で 25 枚が刊行されているが、解説文を担当したのは田中芳男とされ ている。この他にも博物局の事業として、『林娜氏植物綱目表』(36.0cm×100cm)や『垤 甘度爾列氏植物自然分科表』(49.3cm×151.0cm)などを刊行しているが、これも同じく 田中芳男が関与している41

博物局でこの事業に中心的に関わっていた田中芳男(1838~1916)は、医師田中隆三の 三男として生まれた人物で、名古屋の伊藤圭介に師事して本草学と洋学を学んだ博物学者 である。伊藤圭介は日本初の理学博士であり、博物局に出仕したのち、文部省七等となり、

博物専務となった人物である。1881(明治 14)年には、東京大学教授に着任し、日本の植 物学界をリードした42

田中芳男は、江戸幕府の直轄研究機関である蕃書調所物産学に伊藤圭介と出仕する。明

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治になり、墺国博覧会御用掛になるなど、数多くの博覧会に参加するとともに、内国勧業 博覧会にも尽力している。また、上野の博物館や動物園の設立にも関与し、町田久成とと もに日本の博物館、博覧会事業を推進した人物である。まさに、明治期の殖産興業の指導 者的存在だった。博物局に入る前の 1870(明治 3)年、大学南校に出仕し、博物学者とし て、多くの助言を与えている。

このように、江戸時代後期の本草学者が、日本の博物館界の礎を築いていた。江戸時代 におこなわれていた物産会や薬品会を基本としながらも、万国博覧会の参加をはじめとす る海外歴訪によって、多くの展覧会を見学・調査し、国内にそのノウハウを持ち込んだ。

上野公園のように、今日でも評価の高い博物館構想を実行するなど、日本近代化のなかの 文化事業を支えたのは、江戸時代からの博物学の系譜をひく本草学者たちであった。

各国の学芸員制度

日本の学芸員資格は、1951(昭和 26)年に制定された博物館法に従ったものである。こ れをみれば、学芸員資格は、①学士の学位を有し、大学で文部科学省令の定める博物館に 関する科目の単位を修得すること②大学に 2 年以上在学し、博物館に関する科目の単位を 含めて 62 単位以上を修得したもので、3 年以上学芸員補の職にあったもの③文部科学大臣 が文部科学省令で定めるところにより①・②の同等以上の学力及び経験を有すると認めた もので、学芸員資格認定を合格したものである。学芸員は国家資格のなかでも任用資格に あたり、採用される以前に学芸員資格を保有しているか、学芸員補から学芸員となるか、

試験か無試験で資格認定を受ける必要がある。

前記した①は、博物館法第 5 条 1 に定められるところであり、博物館に関する必要な科 目とは次に掲げるものである。1955(昭和 30)年の博物館法施行規則(文部省令第 24 号)

で定められ、これは 50 年以上続いてきたが、2012(平成 24)年 4 月から新しい科目の創 設と科目が見直された。

学芸員課程科目新旧対照

旧科目 単位 新科目・追加科目 単位 生涯学習概論 1 2 教育学概論 1 博物館教育論 2 博物館概論 2 2 博物館経営論 1 2

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博物館資料論 2 2 博物館情報論 1 ―

視聴覚教育メディア論 1 博物館情報・メディア論 2 博物館資料保存論 2 博物館展示論 2 博物館実習 3 3

教育学概論にかえた博物館教育論、視聴覚教育メディア論から博物館情報・メディア論、

さらに資料保存論と展示論が新規に創設されている。さらに単位数が 12 単位から 19 単位 と増え、内容の充実が図られることになった。展示論や資料保存論など、就業してから特 に必要とされる技術論が科目となったことで、学芸員の実務面を考慮に入れた科目の増加 といえよう。

日本の学芸員は任用資格であることから、フランスのような公務員を前提とはしていな い。公立博物館であってもその採用のほとんどは行政職であり、また教育職からの配置転 換で学芸員を任命されることがある。技術職や研究職採用は、極めて少ないのが現状であ って、日本学術振興会の科学研究費を申請することができる、いわゆる研究者として任用 されているのは、大阪市立自然史博物館や神奈川県立歴史博物館、神奈川県立近代美術館、

神奈川県立生命の星・地球博物館、滋賀県立琵琶湖博物館、千葉県立中央博物館、徳島県 立博物館、栃木県立美術館、兵庫県立人と自然の博物館、北海道開拓記念館、横須賀市自 然・人文博物館など、ごく一部の博物館に所属する学芸員だけである。

博物館法第 4 条 4 項の学芸員職についてみると、次のように定めている。

学芸員は、博物館資料の収集、保管、展示及び調査研究その他これと関連する事業に ついての専門的事項をつかさどる。

調査研究といった専門的事項をつかさどる職位にありながら、競争的研究資金に申請が できないなど、これに見合った十分な研究体制が整えられているとはいいがたい。ひとえ に、前述したような学芸員が行政職として採用されていることが原因で、地方自治体では 研究職としていないところが多いためである。なお、博物館法改正議論のなかで、学芸員 制度見直しの声があがり、現行学芸員を学芸員補への降格、上級学芸員の創設が提言され た。しかし、この制度改革は現在、進展していない。

学芸員制度も各国によってその制度はさまざまである。アジアでの学芸員制度をみてみ

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