• 検索結果がありません。

棚橋源太郎の博物館学

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 144-154)

144

“博物館学の父”や“日本博物館の育ての親”と称される人物に棚橋源太郎がいる30。 棚橋は博物館事業の中枢に展覧会を位置付け、博物館教育や資料収集に対する提言を積極 的におこない、現在につながる博物館活動の骨子を築いた。彼が日本の博物館の方向性を 定めて尽力した背景には、二度にわたって海外留学し、そこで目にした先進的な海外の博 物館の姿があった。

棚橋源太郎なくして、今日の日本の博物館は存在しえないともいわれるように、その功 績は現在でも広く語られるところで、彼の死後、公益財団法人日本博物館協会が『博物館 研究』に投稿された論文のなかから優秀なものに「棚橋賞」を贈呈しているのは、そのあ らわれでもある。まさに棚橋が生きた時代は、日本の博物館草創期から胎動期の過渡期に あたる。本章では、日本の博物館の道標を定めた棚橋源太郎の活動から、日本博物館史、

そして彼が目指した博物館像について考えていきたい31。 棚橋源太郎の事績

―学生時代から教員時代―

棚橋源太郎は 1869(明治 2)年 6 月、岐阜県本巣郡北方村に生まれ、1874 年、北方陣屋 跡に設けられた化成舎で学んだ。化成舎は2年後、北方村民から拠出された費用で建てら れた洋風建築の北方小学校となるが、棚橋源太郎もここに入学することになる。1883(明 治 16)年に卒業すると、代用教員にあたる「授業生」に2年間就任する。1885(明治 18)

年、岐阜県華陽学校師範部に入学(1889 年卒業)、20 歳で岐阜県尋常師範学校訓導の辞令 を拝命し、附属小学校で教鞭をとった。

1892(明治 25)年、高等師範学校博物学科に入学する。高等師範学校は、尋常師範学校 の校長や教員を養成するところである。中学へ進学するものの増加にともなって、教員養 成が急務となったことから設置された教育機関だった。棚橋源太郎は 23 歳で入学したが、

自らの教授法の研究とともに、教育の幅を広げようとする彼の向上心からの進学ともいえ よう。

棚橋が入学した、当時の高等師範学校の男子師範学科は、理化学科・博物学科・文学科 の三学科があった。1898(明治 31)年 4 月、高等師範学校は文科、理科を細分化し、文科 には教育学部、国語漢文部、英語部、地理歴史部を、理科には理化数学部、博物学部が置 かれ、合計 6 部で構成された。さらに2年後には、文科と理科の区分を廃止して予科1年、

本科 3 年および研究科 1 年に構成され、本科を 4 学系(語学系、地歴系、数物化学系、博 物系)の構成となった。そもそも、博物学科は、文系と理系と中間的に位置付けられた学

145

科だったが、のちに理科系に比重を移していることがわかる。こうした教育を受けた棚橋 の代表的な著作のひとつに『理科教授法』がある32

1895(明治 28)年に高等師範学校を卒業後、兵庫県尋常師範学校教諭兼訓導となり、翌 年には、故郷の岐阜県尋常師範学校教諭兼訓導に就く。担当科目は生物と地学にあたる「博 物」と「農業」だった。1899(明治 32)年には高等師範学校訓導となったことで上京し、

附属小学校、さらに高等師範学校教諭兼訓導となる。さらに、1903(明治 36)年に東京高 等師範学校教授となっている。彼のこうした経歴を示す「任免裁可書」(国立公文書館蔵)

によれば、次のような辞令を受けていることがわかる。

東京高等師範学校助教授正七位 棚橋源太郎 任東京高等師範学校教授

これは、明治36年11月10日付のもので内閣総理大臣伯爵桂太郎から受けている。

助教授であった棚橋源太郎は、ここに高等師範学校教授として任命されたが、このとき、

棚橋源太郎は 34 歳だった。1907(明治 40)年には四等官となり、4 年 4 ヶ月余り在職し、

1912(明治 45)年には「東京高等師範学校教授正六位勲六等」、「陞叙(昇叙)高等官三等」

となっている。

―教員兼職時代―

高等師範学校教授となった棚橋源太郎は、1906(明治 39)年東京高等師範学校附属東京 教育博物館主事を兼務する。これは、東京高等師範学校校長だった嘉納治五郎から伝えら れている。それから 3 年後の 1909(明治 42)年には、文部省からドイツ・アメリカへの留 学を命じられることになる。博物館学研究を目的としたもので、同年 10 月に出発し、1911

(明治 44)年 12 月に帰国した。このときの留学の成果は、「独逸の小学校教師」などの論 文で発表されている。帰国後の 1914(大正 3)年には、東京教育博物館長事務取扱、さら に、1917(大正 6)年には、文部省督学官として東京教育博物館長職を兼務することにな った。

東京教育博物館は、1914(大正 3)年に、東京高等師範学校から分離独立し、文部省普 通学務局直轄組織となる。東京教育博物館という名前をそのままに、組織上は「附属」が 取れたかたちとなった。1921(大正 10)年 6 月には、東京教育博物館は「東京博物館」と 改称されることとなり、東京高等師範学校教授と文部省督学官を兼任していた棚橋源太郎 も同年に次のような辞令を受けている。

東京高等師範学校教授兼文部省督学官正五位勲四等棚橋源太郎

146 任東京博物館長兼東京高等師範学校教授 叙高等官三官

これは大正10年6月24日付の内閣総理大臣原敬から奏上されたもの(6月23日、

文部大臣中橋徳五郎より原敬への進達を経ている)である。博物館の改称に伴う辞令であ るが、これにより文部省督学官としてではない博物館長職に就任したことを意味する。

1923(大正 12)年、未曾有の被害をうけた関東大震災が発生する。これにより東京博物 館も全焼することになるが、棚橋源太郎は館長として自ら震災処理の指揮をとった。しか し、復興中のなか、この翌年 12 月に、東京博物館長と東京高等師範学校教授を 55 歳で退 職することになる。この頃、官民共通して定年退職する年齢は 55 歳が一般的だった。退職 を受けて、棚橋源太郎は叙位を受けており、次のことが奏上されている。

叙正四位

大正十三年十二月十二日依願免官

明治三十二年十一月一日任高等師範学校教諭以来在職十年以上 元東京博物館長従四位勲四等棚橋源太郎

右文武官叙位進階内則第四條ニ依リ謹テ奏ス

大正十三年十二月十三日 文部大臣 岡田良平 内閣総理大臣子爵 加藤高明殿

高等師範学校教諭以来、10 年以上在職していたことから、文部大臣岡田良平から内閣総 理大臣加藤高明へ上申された。国家のために尽力した棚橋源太郎は、退職時に改めて評価 をうけたということになる。

―博物館員専任時代とその後―

棚橋源太郎は 1925(大正 14)年 2 月、フランスへ留学する。文部省からは社会教育調査 を依頼されるとともに、赤十字社からは日本赤十字社参考館に関する調査の依託をうけて いる。さらに、東京高等師範学校からは欧州の博物教授の調査、社会局から生活改善なら びに勤倹奨励状況調査、東京市役所からは直観教授と公園内民衆教育施設の視察などを依 頼され西洋の進んだ文化行政、生活・衛生など多くの調査にあたった。日本の社会教育の 指針を策定するための留学が、棚橋の今後の原動力にもなったのである。

翌年 1 月に帰国すると、赤十字参考館(日本赤十字博物館)の創設に奔走する。赤十字 参考館では、衛生知識を普及させるために特別展を何度も開催しているが、そこには棚橋 の存在があった。棚橋は、1932(昭和 7)年には赤十字博物館長事務取扱となると、1942

147

(昭和 17)年、赤十字博物館長に就任する(~1946 年)。1927(昭和 2)年におこなわれ た「乳幼児保健展覧会」は、博物館事業として以降も引き継がれていた。当時の日本の公 衆衛生事情を反映させた展覧会であって、まさに赤十字博物館として相応しい事業と判断 していたのであろう33

このように博物館創設ならびに事業策定の一方で、1928(昭和 3)年、博物館支援組織 に近い「博物館事業促進会」を発足する。華族や帝国大学教授らを会員とし、棚橋源太郎 は常務理事となる。また、三井・三菱などからも寄付を集め、会運営の財政面の支援をう けた。棚橋源太郎が考えた活動は、博物館に関する法律の制定や博物館の拡充、そして創 設を支援するものであった。発足して 3 ヶ月後に『博物館研究』第一号を自らが編集・発 行人となって発刊し、毎月一回発行する月刊誌として、博物館に関する記事や論考を掲載 していった。1931(昭和 6)年、博物館事業促進会は「日本博物館協会」と改称し、あわ せて棚橋は専務理事となった。なお、日本博物館協会は、「社団法人日本博物館協会」(1940 年)、「財団法人日本博物館協会」(1986 年)、「公益財団法人日本博物館協会」(2013 年)と なっている。

棚橋源太郎は、二度の留学によって日本の博物館を欧州水準に高める必要性を痛感して おり、組織的な活動のなかで、その道筋を見出そうとしていた34。博物館協会の会員に華 族や帝国大学教授を招いているのも、会の学術的水準を保つとともに、権威付けを図った からであり、さらには文部省をはじめとする関連省庁への円滑な働きかけを目的としてい る感がある。当時の博物館の組織的脆弱さは否めず、連合体による強固な土台を築き、博 物館組織の総意として、事業促進会(後の後援会)が意見書を上申するようにしたのであ る。

他方で、棚橋は郷土博物館の整備にも尽力している。博物館界全体を考えるなかで、こ れを支える構成要素のひとつである地域博物館の充実を図っていった。さらに、国と地方 の博物館のパイプ役としての機能を果たすために、協会で活動していたのである。

業務のかたわらで、『世界の博物館』や『博物館学綱要』など、多くの書物を出版してい った。1951(昭和 26)年には、国際博物館会議(ICOM)の日本国内委員となると、日本博 物館協会の顧問となった。そして、この年、棚橋が目指していたひとつ「博物館法」が、

公布されるに至っている。その後、立教大学博物館学講師となり(~1960 年)、後学育成 のために指導をしていく。1958(昭和 33)年に藍綬褒章を受け、翌年には国際博物館会議 の名誉会員となった。

ドキュメント内 実践的博物館学の研究 (ページ 144-154)