第 7 章 信 仰
第 1 節 若宮八幡神社
(1)若宮八幡神社
[由緒]
若宮八幡神社は上宿に位置し、誉田別尊(応神天 皇)・大鷦鷯尊(仁徳天皇)・神功天皇(仲哀天皇の皇 后)を祭神とする。同社は若宮さまや八幡さま、単に 神社と呼ばれることも多く、また神職は法印さまや別 当さまとも呼ばれる。近世以来の新沼村の鎮守であり、
また戦中に郷社に列せられていたことから新沼外の信 徒も多い。
同社の縁起について『三本木町史 上巻』(三本木 町誌編纂員会 1966)によれば、源頼朝が藤原泰衡 追討の際に鶴岡八幡神社に祈願し、その御分霊を奉じ たとしている。社殿の建立は勧請奉行である畠山六郎 と武田太郎なる人物によって進められ、1189(文治 5)
年に建造された社殿は7間4面、布目瓦葺の大変荘厳 なものであったとある。鎌倉から従ってきた譜代の 臣、渋谷四郎時国を剃髪させ、宥全と改名し、別当寺 である亀谷山隱城寺を建立し世襲別当とした。しかし 1588(天正 16)年、当時の別当の法憧院永豊の代に、
伊達政宗の大崎城攻めに際して戦火に遭い、社殿・別 当寺・僧房が焼失したとされる。
1801(寛政 13)年、に別当 37 代の若宝院渋谷瑞 芳の代で社殿を再築し、1855(安政 2)年の別当 41 代若宝院長盛の代に藩主へ改健方を願い出て工事を起 こした。その約 2 年後に完成したのが現在の社殿の 原型とされる。なお境内はもともと付近の鳴瀬川河川 敷にあったが、河川改修に伴い、1914(大正 3)年 に旧別当寺跡とされ、当時は小学校体育館があった現 在地に移転した。
同社は 1872(明治 5)年に村社に列せられた後、
1903(明治 36)年に諏訪神社、1912(大正元)年 に高良神社を合祀し、1943(昭和 18)年に敷玉早御 玉神社を合祀して郷社に列せられた。
[摂社と末社]
敷玉早御玉神社は延喜式神名帳に記載があるが、
古川楡木地区にも同名の社があり、いずれが延喜式内 社であるか詳らかにする史料は見当たらない。780(寶 亀 11)年藤原小黒丸により社殿を再建立され、天正 年中の兵乱により焼失して以後は敷玉森としてその地 名のみを止めていたが、1818(文政元)年に別当第
40 代渋谷秀盛が社名と縁起を刻した石碑を建立した。
現在はこれを神体として境内西側の敷玉社本殿に奉斎 し、若宮八幡神社と合わせて祭祀が行なわれている。
この延喜式内社の存在がこの地に若宮八幡神社を創建 する動機となったとも伝わる。
1872(明治 5)年に郷社に列され、1905(明治 38)年に社殿再建立の計画を願い出たが、実現には 至らなかった。1943(昭和 18)年に若宮八幡神社に 合祀されたが、1991(平成 3)年に今上天皇即位を 機として再び分祀し、摂社とした。祭神は富玉姫命、
玉依姫命である。近年も氏子総代が引退の際に新たな 旗を奉納するなど、若宮八幡神社とは異なる由緒ある 社として祀られている。
ほかに稲荷明神社・高倉招魂社が若宮八幡神社の 末社として社内に置かれ、春秋の例祭に注連縄を張っ て祀っている。
(2)境内の施設
[社殿]
神体を納めた本殿と、手前の拝殿、西側の神饌所 からなり、改築によって東に建つ社務所と接続された。
本殿は鞘堂で、中の宮の扉のうちに神体を納めており、
祭礼の神事の際に開扉される。氏子は拝殿か、その正 面に下げられた鈴と賽銭箱の前で拝礼する。鈴の上に は龍像が彫刻され、その裏にはこれを寄進したとされ る保土原家と、渋谷家の家紋の彫刻が施されている。
[社務所]
参道脇西側の旧社務所と、社殿東側の以前渋谷家 が母屋としていた建物を改築した現行の社務所があ る。現在の居住する 2 棟の母屋は境内の南側に建っ ており、北側 1 棟の一角を書庫兼資料保管場所とし ている。この一角は、先代宮司の代に郷土研究会や読
図 7-1 若宮八幡神社
忠魂碑
古碑 屋敷神
稲荷明神社 高倉招魂社
イグネ 拝殿
本殿
献饌所 社務所
井戸 旧社 務
所
手水舎
敷玉早御玉神社
鐘楼 舞台
書庫
自宅
自宅 参道
表口 出入口
生垣
図 7-2 若宮八幡神社境内配置図
書クラブの拠点としたほか、社の古い書物を納めてい る。
[鐘楼]
1953(昭和 38)年に造った鐘を境内東側の鐘楼 に下げている。宮司が毎朝 12 回撞くが、6 日と 9 日 は 6 回のみ撞く。
[古墓]
社の北西の田畑の脇にイグネ(屋敷林)で囲った 小高い一角に渋谷家の古墓が集められている。もとは 社のイグネの北側にも古墓があったが、排水機場が作 られたのに合わせて前述の場所へすべて集めた。最も 古いとされるのは 30 代の実玄の墓である。そのほか 現在の渋谷家の奥津城(墓)は円通院の墓地に置かれ る。
[忠魂碑]
日露戦役戦病死者の忠魂碑と、支那事変大東亜戦 争戦歿者慰霊の碑が敷玉早御玉神社側に設置されてい る。この忠魂碑は旧高倉小学校に置かれ、終戦後に取 壊しが予定されたものを埋めて隠し、後に在郷軍人会 の助けとともに掘り起こして若宮八幡神社境内に運ん だものである。3 年に 1 度の慰霊祭をするほか、春秋 の例祭でも祈祷をする。
[古碑]
1322(元享 2)年の古碑と安静尊神光明真言碑の ほか、多数の石碑が境内にあり、これらは氏子が自宅 で祀るのをやめて社に納めたものや、耕地整理や土地 改良に際して誰が祀るものか分からなくなっていたも のを移したなどして集まったものである。
[社宝その他]
730(天平 2)年の銘が入った甲冑及び、1189(文 治 5)年源頼朝奉納と伝わる陣太鼓・獅子頭を社宝と する。このほか伯耆守安綱作在銘大刀・大原住貞守作 太刀・了戒作在銘大刀・三条小鍛冶宗近薙刀等も社宝 としていたが、戦中に供出され失われている。
(3)神社に関わる人々
[神職]
若宮八幡神社は境内に住居を構える渋谷家当主が 代々神職を務める。初代は源頼朝の若宮八幡神社勧 請の際に、その臣下であった渋谷四郎時国とされ、
2017(平成 29)年現在の宮司は 47 代目にあたる。
神職は春秋の例祭や日待ちをはじめとする同社の祭祀 を司る。また、新沼地区内の小社の祭りにおける神事 を執り行なうほか、地区の神社の例祭に呼ばれて神事 に加わることもある。
こうした祭祀のほかにも、氏子の家々のオミョウ ジンサマや家屋、井戸、屋敷地の古木などについて、
取り壊し・新築・移設・伐採などを行なう際、家に悪 いことが起こることを防ぐためとして、祈祷を依頼さ れる。
[氏子と氏子総代]
新沼を氏子の範囲とする。近世には新沼・中沢・
堤根・引田・斎田・音無・坂本・蟻ヶ袋・伊賀・高柳 の 10 か村の鎮守で、戦前の郷社の氏子範囲がこれで あった。郷社制度が廃されてからは新沼の住民を氏子 とし、新沼以外の旧郷社の範囲の住民を崇敬者として 扱うようになった。基本的に新沼に住む者は若宮八幡 神社の氏子とするが、近年は移住者や本人の希望でこ れに加わらない場合もある。
氏子総代はこれら氏子や崇敬者の代表として、神 社の維持管理や行事の際には世話役を務める。この 氏子総代は、新沼の 6 つのブラクから 2 名ずつ選出 される。ただし、戸数が多い下宿は 3 名としている。
ブラクごとに総代の選出方法は異なり、4 年程度の年 限を定めて輪番とする地区や、神職や自治会の働きか けで総代を頼む場合もある。さらに、この氏子総代の 中から総代長 1 名、副総代長 2 名、会計 1 名の役職 者が後述の総代会で選出される。氏子総代の主な活動 機会は、ヒマチ、春の例祭、6 月の大祓、秋の例祭、
12 月の恵比寿講、歳米集めと、これらの収支管理を 行なうことである。
氏子総代らによる総代会は、春秋の例祭のおよそ 2 か月前に開催される。神職と総代が寄り合って社殿 で礼拝した後、社務所にて、総代長を中心に次年度の 事業・予算案の承認と事業報告・収支決算報告がなさ れ、例祭の日取りや献饌の役割分担などの協議事項が 話し合われる。総代会での決定事項は総代を通じて氏
子に通知される。
神社の収入の大半は春秋の例祭における寄付に よっており、これをもとに例祭を執行するほか、維持 管理や神社庁支部負担金等に充てられ、近年は年間に およそ 400 万円前後の予算規模をとる。ほかに幟の 新調などは奉納によっており、以前の奉納者に打診す ることもある。
また、現在は主だった活動がないが、かつては氏 子の青年層を中心に若宮八幡神社氏子青年会が神輿渡 御の担ぎ手となり、例祭前夜祭の演芸も取り仕切って いた。
(4)若宮八幡神社の祭礼
[春秋の例祭]
若宮八幡神社の春の例祭は旧暦 4 月 15 日、秋の 例祭は旧暦 9 月 19 日を祭日とする。現在の春の例祭 は 5 月最終土曜日を本祭とし、秋は旧暦通りに斎行 する。例祭の期間は、本祭を中日として前後 1 日ず つの 3 日間とし、前日を前夜祭、本祭翌日を御巡行 としている。
中日に執り行なわれる本祭は、神饌所から手渡し で本殿へ献饌する献饌の儀を執り行なう。その翌日は 御巡行といって、神職が氏子各戸を訪問して祈祷し、
神札の配布を行なう。これらは春秋の例祭いずれにも 共通する神事である。
しかし前夜祭については、その内容が春と秋で大 きく異なっている。春の例祭の前夜祭は基本的に若宮 八幡神社神職と氏子総代で執り行ない、一般の参列者 はいない。また旧暦 4 月 14 日が敷玉早御玉神社の祭 日であるため、若宮八幡神社での神事の前に同社の祭 りと、境内の忠魂碑に名を刻まれた戦没者の慰霊を目 的とした高倉招魂社の慰霊祭を合わせて行なう。
一方で秋の例祭の前夜祭は、湯立神事を行なう点 で特徴的である。この前夜祭の日はヨゴモリ(夜籠り)
やヨメグリ(夜巡り)の日とも呼ばれ、前者は戦勝祈 願など社にヨゴモリをする人があったこと、後者はこ の日に性交渉を伴う夜遊びが許されたとの話に基づく ものである。
以下では、共通する春秋の本祭(例祭 2 日目)・御 巡幸(例祭 3 日目)、次に春の例祭の前夜祭(例祭 1 日目)、続いて 10 年に 1 度行なわれる春の例祭での 神輿渡御(3 日目)、最後に湯立神事が行なわれる秋 の例祭の前夜祭(1 日目)、前夜祭での湯立神事の順
で記述していく。
[本祭]
旧暦 4 月 15 日と旧暦 9 月 19 日を祭日とし、近年 の春の例祭は 5 月の最終土曜日に合わせて行なわれ る。前夜祭と御巡行に挟まれることから本祭と呼んで 区別している。事前に総代が分担して案内状を配布し、
同時に寄付を集める。氏子のほかに市長や市議会議員、
直近の奉納者などが来賓として招待される。
神事には宮司のほか、助勤神職 4 名、氏子総代、
招待客が参列する。助勤神職とは宮司と親交のある他 所の神職で、各々の都合にもよるが事前に宮司から依 頼している。例えば、2016(平成 28)年春の本祭で は、近隣である古川の小松神社・神明社・斗瑩稲荷神 社・松山の羽黒神社の神職が集まった。また、2017(平 成 29)年の秋の本祭には、古川の子松神社と神明社、
色麻町の伊達神社、松山の羽黒神社の神職が集まって いる。
氏子総代は旧社務所にて参拝者の初穂料の受付を 行なう。初穂料を納めた招待者には式次第・神符・酒・
落雁を渡すが、直会に出席しない招待者には代わりに 御膳の折詰を渡す。
宮司は正服、助勤神職は狩衣を着用し、献饌奉仕 者として手長を担当する総代 3 名は裃を着用する。
そのほかの総代はスーツに白の裃を上着のみ着ける。
音花火の打ち上げと宮司の打ち鳴らす太鼓を合図 に、招待客が拝殿に集まり、宮司の開式宣言がされる。
その後宮司は助勤神職とともに本殿へ移動し、宮司一 拝、修祓の儀を行なう。修祓の儀は、宮司が祓詞奏上 をし、助勤神職が大麻を振って塩湯を撒き、御祓いす るといったもので、内陣に続いて、助勤神職と手長、
氏子総代、招待客の順に御祓いをする。
次に宮司が神前に進み御扉について開扉の儀を行 図 7-3 献饌