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第 5 章  人の一生

第 1 節  子どもの誕生

(1)妊娠の期間

[妊娠とその報告]

月経が止まり、クセ(つわり)が始まると、産婆 を呼んで妊娠しているか診てもらう。妊娠が分かると、

姑(ガガサマ・シュウト)、夫、実家に報告する。報 告の順序に決まりはなく、実家には特に報告しないこ ともあった。妊娠することを「オボコ成した(子ども ができた)」とも言った。クセがひどい場合には実家 に帰る場合もあったが、体が丈夫であることが農家の 嫁の理想とされたため、嫁ぎ先から責められることも あった。

1960 年代に結婚した女性の場合、初産は 20 代前 半に迎えることが多かった。5 月は農繁期にあたるた め、妊娠しないように気を遣うこともあった。

[妊婦の呼び名]

妊娠した女性をハラビト、ハラピトという。秋に 妊娠した場合はアキバラ(秋腹)と呼ぶこともある。

[腹帯]

妊娠 5 か月目の戌の日もしくは日が良いときに、

長さ 1 丁 2 尺、幅 1 尺程度の腹帯(ハラオビ、フク タイ)を締める。これをハラオビイワイ(腹帯祝い)、

オビイワイ(帯祝い)とも言い、テマドリや近所の人 にも祝ってもらった。腹帯は、子どもが成長しすぎて 難産にならないように、きつく締める。腹帯を誰が用 意するかは決まっておらず、嫁の実家が用意する場合、

嫁が実家からの小遣いで購入する場合、姑が用意する 場合があった。

腹帯の主な素材は白い無地のサラシだが、タテマ エ(上棟式)の際に立てる五色の旗をもらい、男児を 望む場合は青や黄色、女児を望むときは赤色、性別に こだわらず元気な子どもを望むときには黄色の旗を腹 帯にすることもあった。タテマエの旗が手に入れられ ないときには、目的に合わせた色の布を、白地の腹帯 の上に重ねて締める場合もあった。腹帯ではないが、

男児を望むときは木で作った陽物を下沖の道祖神に奉 納したという話も聞かれる。

腹帯は必ず締めるものと決まっているわけではな く、長子のときのみ締めたという人もいれば、産婆に 指導されて 2 人目以降も締めたという人もいる。締

め方は産婆に指導してもらうか、姑のやり方を真似し た。腹帯は出産するまで毎日締めるが、昼夜問わず締 めたままにするか、毎晩寝る前に外して枕元に保管し ておくかは人それぞれである。

[安産祈願]

妊娠 5 か月目の戌の日などに妊婦やその家族が寺 社に参拝して安産を祈願した。参拝先は上宿の若宮八 幡神社、下宿の愛宕神社のほか、塩竃市の鹽竈神社や 大崎市三本木の豆坂地蔵尊など、自由に選択した。

誰が参拝するかの定めはなく、妊婦が単独で行く 場合もあれば、家族が伴う場合、家族だけが行く場合 もあった。参拝したら祈祷を受け、札や食い初め用の 箸などを授かる。産婦は無事に出産が済むと、お礼参 りといって再びその社寺に参拝する。安産祈願には実 母が伴っていても、お礼参りは産婦が単独で行なう場 合もあった。

お礼参りをする際には、安産祈願で参拝した際に 借り受けていた奉納物と同様のものを倍数供えて奉納 することもある。これを倍返しといった。下宿の愛宕 神社には、安産の礼に奉納されたオマクラがあり、祈 願者はこれを 1 つもらいうけ、出産が済んだら新し いオマクラを 2 つ作って返す。オマクラは紅白一対で、

中に籾殻を入れて作る。

[山の神講]

山の神講は、妊娠や安産を祈願する女性たちの集 まりで、ブラクごとに組織する。上宿・下宿・上沖・

下沖・中谷地に山の神講があり、下宿は東北自動車道 を境に西側のカミ(上)と東側のシモ(下)、上沖で は天神山の神講と上沖山の神講に分かれている。上宿 の山の神講は、第二次世界大戦中に途絶えたが、戦後 に 10 人ほどで再結成された。

いずれの山の神講にも加入や脱退の年齢に決まり はなく、加入するかどうかも個人の判断による。出産 後も加入し続けていたが、嫁の出産とともに脱退し代 わりに嫁が加入した人もいる。

講では掛け軸を預かるヤド(宿)を決め、その家 に年 1 回集まった。これを上宿と下宿ではマワリヤ ド(まわり宿)、上沖と下沖ではヤドマエ(宿前)も しくはマワリヤドといい、1 年交代であった。ヤドは、

上宿の山の神講では加入した順に務めたが、下宿や上 沖、中谷地は特に順序を定める決まりは聞かれなかっ た。下沖では、妊娠した女性の家をヤドとした。

講の日には、掛け軸を床の間にかけ、灯明を付け て拝んだ。掛け軸は美里町(旧小牛田町)の山神社で、

講員が資金を出し合って購入した。拝んだ後はヤドの 家が赤飯や酒を振る舞った。このほかに講員が一品ず つ持ち寄ることもある。中谷地では精進料理でなけれ ばならないといわれる。下沖では、ヤドになった家が、

次のヤドが決まるまで掛け軸等を預かった。

出産の際には講から灯明を借り受け、枕元に置い た。灯明が短いほど、出産も軽くなるといわれた。

また、毎月積立をして旅行に行っていたが、嫁に は高額の積立金であったため、実家からもらった金銭 をあてる人もいた。

2017(平成 29)年現在、下宿の東北自動車道の 東側(シモ)、上沖の天神山の神講、下沖は解散して いる。介護や仕事等の都合により、加入する人が減り、

継続が困難になってきたからである。天神山の神講は 2014(平成 26)年に解散し、掛け軸は山神社に納め た。下沖の山の神講は約 25 年前に解散し、掛け軸を 山神社に返納しているが、現在も山の神講と称して集 まって旅行に行ったり、嫁が妊娠すると仲の良い友達 を自宅に招いて食事を振る舞ったりしている。

上記以外の地区は現在も続けられているが、会場 をブラクの集会所に移す、料理は持ち寄らずに出前に するなどして、講員の負担を減らす工夫がなされてい る。

[妊婦の生活]

妊娠中は、力仕事は良くない、あるいはしてはな らないと言われたが、臨月も普段通り働いていたとい う人もいる。食事ではナス、カキ、ナシなどは体を冷 やすと言われて避けたが、それ以外には特に決まりは なく、家族と同様のものを食べた。自分で用意する場 合もあれば、姑が用意することもあった。餅を食べる と母乳の出が良くなるとも言われた。

また、産婆が半月からひと月ごとに様子をみに訪 ねて来るので、納戸で触診などを受け、腹帯の締め方 なども指導された。出産が近くなると、産婆は週に 1 回程度様子をみに来た。

[妊娠に関わる言い伝え]

妊婦は火事をみること、葬儀に関わることは避け た。火事をみると胎児に痣ができると言われた。葬儀 の際には、死者の顔をみることは避け、火葬場には行っ てはいけないとされたが、鏡を懐に入れておけば葬式

に参加することはできるとも言われる。

(2)出産

[産婆]

旧三本木町には、トキタ、マジマ、カドワキの 3 名の産婆がいた。産婆は助産婦や看護師の資格を持っ ていて、医師が不在の場合、産婆が対応することもあ る。1960 年代以前に生まれた子どもの多くが、産婆 に取り上げられた。産婆は付き合いのある家を自転車 で回り、妊婦の様子や体調を確認した。産婆との付き 合いはオシチヤに招待して、姑から謝礼金を渡すと、

区切りがつく。

[場所]

出産するための小屋などを新たに設けることはな く、嫁ぎ先のナンド(若夫婦の寝室、裏座敷)もしく は実家で出産した。冬期に自宅で出産する際には、大 きな釜で湯を沸かし部屋を暖めるなどの工夫をした。

1965(昭和 40)年頃から、大崎市民病院(旧古川市 立病院)、伊藤医院(三本木町内)などで出産するこ とが増えた。生まれる直前まで働き、産後の入院中 は、実母や実姉が食事などの世話をしてもらったとい う人もいる。1970 年代には自宅で出産することは稀 になった。

[出産]

産まれそうになると、夫か周囲の人が産婆を呼び に行った。夫は出産に立ち会わずに別室で待っていた り、仕事をしていることが多かった。

自宅で出産する場合には、布団にビニールを縫い 合わせて敷いておき、T 字体のオコシを数枚準備した。

産婆は泊り込みで出産を介助することもあった。子ど もの頭がみえてきたら、産婆はカギ(吸盤に紐が付い たもの)を子の額につけて引っ張ることがあった。そ のために子の額に丸く赤黒い痣ができることもあっ た。産婆は産まれた子どもの顔を母親にみせ、湯浴み をさせた。

ある女性は、伊藤医院に向かって移動する車中で 出産した。出産は後部座席に乗っていた助産婦が世話 をしてくれた。当日病院に医師が不在であったため、

泊まり込んでいた産婆に世話をしてもらった。