第 7 章 信 仰
第3節 信仰される小社
(1)家内の屋敷神等
[屋敷神]
屋敷神を祀る例は新沼の多くの家でみられ、敷地 の一角に小さな祠を立てて祀り、よくオミョウジンサ マ(お明神さま)と呼ばれる。基本的に家ごとに祀る ものであり、本家・分家であってもそれぞれに祀る。
また、勧請した小社を祀る家もこれと別に屋敷神を 祀っている。
祠は、北西に置く例が最も多いが、家によって北東、
南西、家の鬼門、南などさまざまである。正面の方向 についても南に向ける、母屋に向ける、若宮八幡神社 に向けるなど家ごとの違いがみられる。稲荷を祀る家
が多いが、雷神・竜神を屋敷神とする家もある。家内 安全や豊作・商売繁盛を祈願するとされ、ヤシキガミ・
ウジガミサマ・ゴセンゾサマ・オキツネサマ・オイナ リサマ・タケコマサマ・オダノカミサマなどの呼び名 も聞かれた。
供物を毎朝供えて参拝する家のほか、ミクニチと いって 9 のつく日に供えるとの家も多い。水・塩・白飯・
油揚げをはじめ、生卵・尾頭付きの魚・餅などを供え る家もある。また、祠の移動や改修をする際もミクニ チにするのが良いとされる。
不幸があると日が悪いとしてオミョウジンサマへ のお供えを控える家がある一方、位置をずらして祀れ ばよいとの話も聞かれる。
後述の雷神など、ほかのきっかけで祀るようになっ た敷地内の小祠は、これら屋敷神とは別に祀られる。
[雷神]
雷神は、雷が落ちたところに祀るとされ、オミョウジ ンサマとは別に祀られる。下沖のある家では田のフルハ カに、上宿のある家は庭石にかつて雷が落ちたことから、
これを雷神様として祀っている。上沖の天神宮にある石 塔や、中谷地の雷公天神のように、実際に雷が落ちた 場所から移して祀り続ける例もみられる。
図 7-14 屋敷神 図 7-13 屋敷神
[観音堂]
ある家では 1935(昭和 10)年頃の早春に、田で 作業中に土中から出た小さな観音像を祀るようになっ た。始めは神棚に収めていたが、オガミヤから祀るよ う助言を受け、2000(平成 19)年に堂を立てた。堂 を建てた際は、関係があった妙城寺の和尚を呼んで拝 んでもらったが、その後は特に祭日は決めずに、毎朝 の飯、水、茶とシキミを供えて太鼓を叩いてオツトメ をしている。かつては地域の婦人会や、近隣のブラク からも寄付が集まったが、次第にそうしたことはなく なった。
[弁天]
現在は特に祭りをしていないが、上宿のある家で は、家の隣にある沼のほとりに弁天の碑と祠が建てら れている。この沼はかつて新沼が広大な湿地であった 頃の名残の沼とされ、北谷地の北沼、中谷地の沼と底 が繋がっている底なし沼とされる。若宮八幡神社創建 の頃、この広大な沼に赤飯の入った鉢が流れ着き、以 来この地域が飯沼と呼ばれたものが転じて新沼になっ たとされる。
[諏訪神社]
下宿の諏訪神社はオスワサマなどと呼ばれ、古い 木製の社にシデと鈴を垂らした注連縄を張り、その内 部に布をぶら下げ、奥に賽銭箱と女性型の神像を置い ている。社の周囲には、湯殿山塔をはじめ、耕地整理 で集まった石碑が並んでいる。
長野の諏訪神社から勧請したものと伝わるが、小 社としては明治期に若宮八幡神社に合祀されている。
現在は下宿のある家が祀っているが、これは同家が移 り住む前より社だけ残っていたものを、同家の先代の 妻が神像を彫って納め、御神酒・榊・塩・水・飯を供 えるようになったものである。
(2)勧請した小社
新沼には、屋敷神とは異なり、いずれかより勧請 した小社がいくつかみられる。こうした小社は、祭日 を設けて若宮八幡神社の神職を招いて定例の祭りを行 なう。祭りに参加する家は、勧請元のほか、その親戚 や近隣の家などである場合が多いが、中には利益があ るとされて他地域からの参詣者が来るようになったも のもある。また、正月の元朝参りには若宮八幡神社の ほかにこれらの小社を巡る人もいる。
[愛宕神社]
愛宕神社は下宿にある小社で、近世に肝入を歴任 した瀬戸家がその屋敷内に祀る小社である。瀬戸家の 祖先が勧請したとされ、同家とその分家が氏子として 祀ってきたといい、1869(明治 2)年改築の社殿を 持ち、神像を神体とする。同社の神は子どもの姿をし ているとの話が聞かれるが、『三本木町史 下巻』に は、神像が童子の姿となって当家の代かきを手伝った との伝説が紹介されている(宮城県志田郡三本木町史 編纂委員会 1966b:186)。同社は子どもの神様である から、子どもが遊んでも怪我をしないとの話も聞かれ る。また、同社は戦勝祈願や安産祈願の利益があると され、一族以外の参詣者も多く賑わったという。
かつては旧歴 6 月 24 日に愛宕講や精進講と呼ば れる祭りをしていたが、現在は 6 月に参道と社の掃 除のみ行なう。瀬戸家とその分家を中心に、近隣も加 わるなどして多いときで 15 戸ほどの家が関わって祭 りをした。古くはもち米 1 升、のちに相当の現金を 持ち寄って納めたといい、往時には獅子舞や出店が出 て賑わった。
図 7-15 観音堂の本尊
図 7-16 諏訪神社
祭祀は若宮八幡神社の神職があたり、前夜祭と本 祭の 2 日に渡って祭りが行なわれ、神職が湯立神事 もしたほか、お告げをだす場合があったという。本祭 では、瀬戸家の床の間に祭壇を設けて愛宕様の掛け軸 を下げる。祭壇には神饌としてキュウリ、ナス、ササ ゲ豆、こんにゃくを竹串に刺して樹木のような形にし たものと、キュウリ・カラダケ・こんにゃくなどの夏 野菜に食紅を吹き付け醤油で味を付けた野菜御膳、幣 束を立てた赤飯一対、紅白の餅一対、藁に包んだ麩菓 子、御神酒を供える。麩菓子を藁に包むのは同社が馬 の神様だからとの話もある。これらを氏子が裃を着て 口に半紙を咥え、愛宕神社まで運ぶ。この祭りは女人 禁制で、供物や直会の料理は男性が作る。同家に不幸 が続いたことなどから、祭りを続けるのが困難になり、
1993(平成 5)年以降に祭りは開催されていない。
[薬師堂]
愛宕神社の裏に薬師如来を祀る祠があり、「安永風 土記」にも当時既に勧請の仔細は不明であった。
眼病など目に利益があるとされ、祈願する者は「目」
「め」の字や、目玉の絵を年の数だけ書いた板や紙札 を奉納する。『三本木町史 下巻』には、祠の脇の桜 の由来として、盲目同然の人が祈願の末に回復し、捨 てた杖が桜になったとの伝説が紹介されている(宮城 県志田郡三本木町史編纂委員会 1966b:199)。
[天神宮]
上沖の天神宮は、上沖のある家の敷地内の天満大 在天神祠と刻まれた石碑を神体とし、同じ一角には雷 神塔・愛宕塔・山神塔・一宮月三参塔と、同家のオ ミョウジンサマも置かれている。天神宮は元々、上沖 某家の先祖が天明期に 5 年連続で不作が続いた際に 祀るようになったものとされ、場所も現在とは異なっ
ていた。当時は勧請した本家やほかの分家と、その周 囲の数戸の家々を中心に天神宮の祭りをしており、こ れを天神講と呼んだ。また、これを由来に、この区域 は天神囲いと呼ばれた。昭和の町村合併時に、合併先 を巡って意見の対立があり、丁度天神囲いのあたりが 2 派の境になったことがある。このことは、天神囲い 周辺の家々による天神契約講と上沖契約講に契約講を 分裂するきっかけとなり、また、これに伴って天神講 に天神契約講でない家が加わらないようになったこと があった。これと前後して、土地改良に伴う耕地整理 をきっかけに、天神宮の石碑を移動する必要に迫られ た。一度は石碑を若宮八幡神社に納めたのだが、子ど もの不幸が続いて上沖に戻すことになったという。ヤ クガミ ( 厄神 ) とされ引き取り手探しが難しかったが、
勧請元の分家に当たる上沖のある家の敷地へ移し、同 家が祀るようになった。
もとは旧暦 9 月 25 日を祭日としたが、現在は新暦 11 月 25 日付近に祭りをするよう改めている。天神宮に は尾頭付きの魚・米・酒・季節の野菜・菓子・初穂料・
果物の 7 品を供え、直会で刺身や煮物、酒などが振舞 われた。以前の祭りでは若宮八幡神社の神職によって 湯立神事が行なわれ、その後も他地区から神楽を呼ぶ などしてブラクの多くの人が集まり賑わった。
図 7-18 薬師堂 図 7-17 愛宕神社
図 7-19 天神宮
[道祖神]
下沖の道祖神は、上沖と下沖を東西に走る幹線路 と、上宿と下宿から南北に走る幹線路との丁字交差点 に建立された、下沖のある家が管理する小社である。
もとは小さな祠だったが、現在の社は 60 年ほど前に 姑の遺言に従い、同家のイナニオを置いていた私有地 に神体を移し、社を建てたものである。同家の小社で もあるが、祭には下沖の家々も加わっている。また、
下沖地区内の石碑が耕地整理や道路拡幅のたびに移さ れて集まった。鳥居が事故で損壊した時は、下沖ブラ クとしてこれを奉納している。
幹線路の分岐点に立地しており、神体の陽物は道 案内の神様とされるほか、子宝や男児の誕生を願って 奉納された陽物が多数納められている。子を授かりた い人が陽物を借りて舐め、叶えば家長が陽物を彫って 倍返しする。風邪を引いた子どもに舐めさせると治る との話もある。
祀っている家の女性が毎朝白米を社に供えて拝み、
その後敷地内の石碑にこの飯を小分けして供える。正 月はツトを作ってこの上に餅を供え、神体と石碑に赤 飯とカワリゴハン(変わりご飯)を供える。また下沖 の家々が神体を洗い、注連縄を飾る。正月 7 日がす ぎると、飾りを下げて祀っている家でこれを焼く。以 前は祭日まで社の中に取り置いておき、神職に焚き上 げてもらっていた。
祭日は 10 月 29 日で、その前後に若宮八幡神社の 神職を招いて祈祷を受ける。社に注連縄を張り、赤飯、
1 升酒、菓子、白飯、果物、塩、水を供えて祝詞を奏 上する神事を行ない、直会をする。以前は近隣の人が 集まり、ブラクの子どもらが学校で習った神楽を披露 したこともあったが、現在は祀っている家の住民だけ が参加する。
[三吉神社]
下沖コミュニティーセンター横の小社である三吉 神社は、「みよしじんじゃ」のほか「さんきっつぁま」
と呼ばれることも多い。下沖のある家が毎朝拝礼して 米・塩・水を供えている。以前は、年に 1 回 6 月頃 に大崎市古川堤根のオガミヤに同家が依頼して祈祷し てもらっていたが、オガミヤが体調を崩して以降は行 なっていない。
この小社は、現戸主の祖父の代に建てられたもの と伝わっている。ここは当時所有する田であったが、
そこに行き倒れた者があったため祀ったとされる。行 き倒れた者は、秋田の三吉神社の札を配り広めようと した人だと伝わっているが、ここに住み着いてしまっ た三吉がしばらくして亡くなったためとの話もあり、
詳らかにできない。
[百古(びゃっこ)稲荷神社]
下沖の百古稲荷神社は古い小祠を鞘堂で覆ってお り、日々の世話を下沖のある家の妻がしているほか、
近隣数軒も祭りに加わる。1582(天正 9)年 9 月 9 日建立とされ、新沼城敷地内にあったものと伝わるが、
朽ち果ててしまったものを 1934(昭和 9)年に当時 の近隣 4 戸が発起人・世話役となって建立し、祀る ようになった。社の中には陶製の稲荷像が 1 対、鏡、
大黒像、恵比寿像、不動明王像、小石などが神体とし て並べられ、それぞれの由来は詳らかにできなかった が、かつて下沖にあった白鳥神社とされる小祠を百古 稲荷神社に納めて祀るようになったとの話が聞かれ た。また鞘堂の脇には「昭和三十年九月吉日 龍神 古川市高倉下沖婦人会一同立之」とある龍神塔や、「大 正十四年 六月十七日 水神 小野寺某立之」とある 水神塔があり、複数の異なる小社や神体、塔が集めら れている。
図 7-20 道祖神 図 7-21 三吉神社