第 2 章 米脂窰洞四合院の歴史と成立
2.1 米脂古城の歴史
2.1.1 古城の空間利用
古城は現在の米脂県中心部から 2k m 東にあり、北を盤龍山、南を金堰河に囲まれた東西 約 0.93k m 南北約 0.8k m の区域である ( 図 2-1)。中国風水によれば、「背山面水」の立地は 理想的な町の場所とされる。古城は、地域の交易拠点として発展してきたために、豊かな 商人も多く、将軍李自成や教育者杜斌丞をはじめ、多くの人材を排出したことでも知られる。
現在、米脂古城は住宅以外、県文化局に所属する古城保護所、県立学校 ( 幼稚園、小学校、
中学校 ) があり、県道に面する百貨店やホテルなどの商業施設、公衆トイレ、浴場などの 施設も見られる。また、手作りお菓子や日常品を販売する小売店が道路に沿ってに分布し ており、四合院の「庁房」( 北京四合院の倒座と当該するもの ) を利用する事例が多い。現 在の政策は維持と保護を中心に、建物の改修や設備の導入が許可されているが、建物の建 て替えと新築ができない。
米脂県古城の街路は大きく「大街」、「巷」( 及び湾 ) と「路」の 3 つのレベルで構成され ている ( 図 2-1)。北京や西安のようなグリッド状の都市と異なり、傾斜地に形作られた古 城の街路は、等高線に沿って曲線を描く骨格を中心に徐々に広がったと考えられる。図 2-2 に清光緒年 (1875 年~ 1908 年 ) と現時点の街路を比較して見れば、「路」の相違が見られるが、
大街と巷の構成には清時代の街路体系を維持してきた。「東大街」、「西大街」、「北大街」三 つの比較的広い大通りは明時代からあった重要な幹道であり、店舗や四合院住宅が道路に 沿って、密集している。「巷 (xiang)」と呼ばれる道路の多くは南北方向に走る道路であり、
大街と山頂を繋いでいる。町の発展過程から見れば、巷はおそらく住居と農地を繋ぐ道路 として、宋時代から最初に作られたものであると推測できる。「路 (lu)」は街区内部を細分
図 2-2 清・光緒地図 図 2-3 清・康熙地図
化する細い道であり、名称がほとんどなく、袋小路が多く見られる。現在古城内街路の幅 が狭いため車は少なく、短時間のとまりばや週末市場として利用されている ( 図 2-4)。
2.1.2 町の発展過程
宋時代から、米脂県と遊牧民族の領域が隣接したため、軍事防衛の要地であった。米脂 図 2-1 古城の配置図
小学校 地蔵菩薩庵
幼稚園 小学校
中学校 華厳寺
党校 華厳寺巷
華厳寺巷
城隍廟巷 城隍廟巷
城隍廟湾城隍廟湾
石坂巷石坂巷
安巷子
安巷子 儒学巷儒学巷 新民巷新民巷
枣园巷 枣园巷 市口巷
市口巷 華厳寺湾華厳寺湾
西大街 西大街
東大街 東大街 北大街
北大街
東城路 東城路
馬号疙台路 馬号疙台路
城壁 (現存してない) N
学校建築 宗教建築 政府機関 商業施設 大街 巷 路 凡例
10 50 100(m)
Jinyan River
県道
図 2-4 古城道路写真
県古城に関する歴史的な古地図は「米脂県誌・清・光緒」と「米脂県誌・中華民国」に記 録されている。諸文献の記録とヒアリング調査のもとに、米脂県古城の形成過程を以下の 5 つの段階にまとめる ( 図 2-5)。
①村の建設。
宋時代 (960 ~ 1279) の初めから山の斜面を利用して、横穴型式の靠山式窰洞住宅が建設 され、川と隣接する土地が畑として利用され、農作物を作っていた。最初に「畢家寨」と 呼ばれていたが、宋・宝元 2 年 (1039 年 ) に「米脂寨」に変更した。崇寧四年 (1105 年 ) から、村の外側に防衛用の土塀が設置され、また元泰定 3 年 (1326 年 ) に土塀の増築と修 繕が見られ、版築の城壁となった。
②住宅地範囲の拡大。
明成化年 (1464 年 ) になると、人口の増加と伴い、住宅用地は足りなくなり、平坦地に 地上式窰洞住居が建設された。城壁に保護されてなかったため、遊牧民族に財産と家畜が 奪われる事件が多発した。
③商業の発展により町の繁栄。
明嘉靖年 (1521 ~ 1572) になると、居住地の範囲が金堰河まで拡大し、西大街と東大街 に沿って、地上式窰洞住居が建設されていた。嘉靖 23 年から 25 年 (1543 ~ 1545 年 ) にか けて、タタールから県民の財産を守るため、川に沿って城壁を建設した。最初の城壁は石 と土で建設され、高さは 2.5 丈 (7.8m)、奥行きは 1.6 丈 (5m) であり、城門が 4 つ設けられ た。万歴元年 (1573) になると、城壁の高さを 2.9 丈 (9m) まで増築し、全体の修繕も行った。
土塀
商業 土塀
土塀/城壁 店舗/商業
学校 城壁
城壁 遺跡
学校
農地
村 村
農地 川
農地
村 村
農地 川
農地
城 城
城 城
農地
城 住宅地
住宅地 住宅地
住宅地
城
川
川 川
①村の建設 ②住宅地範囲の拡大 ③経済の発展により町の繁栄
④学校と店舗の建設 ⑤土地改革と古城の近代化
城壁の完成により、古城は現在の形と近くなり、歴史上「米脂城」と呼ばれるようになった。
県庁の設置により、古城は米脂県の政治と経済の中心となってきた。県誌では、万歴年古 城の様子を「列市肆、恵賈通商」( 露店が多く , 貿易が流通し、商売が盛んでいる ) と書い てある。この時期から、住民は農業を主とする生活から商業を主とするようになってきた。
明時代の末から、経済的に余裕である家族により、地上式窰洞を母屋とする窰洞四合院が 建設された。
④学校と店舗の建設。
清時代 (1644 ~ 1911) から、他地域からの移住者が増えつつあり、川の南側の土地で住
中国の多くの地域において、1950 年から土地改革が行われた。「米脂県誌」によると、米脂県は 1946 年から「解放区」となり、1947 年から土地改革についての政策を会議で議論し、1948 年から県政府が 実施した。
注 1)
当時の中国における基層組織である。都市部においては、「単位」とは工場、政府、研究所、文化団 体などの総称である。
注 2)
居が建設され、店舗や飲食店も多くなった。
私塾は大家族の子供が教育を受ける場所とされていたが、1904 年に東大街に公塾が設置 され、普通な家族から出身しても通うことができるようになった。その後、中華民国 8 年 (1919) に女子塾が設置され、現在でも一部の建物が保存されており、北街小学校として利 用している。
⑤土地改革と近代化。
また、ヒアリングと統計データから以下のことが分かった。1948 年米脂県で土地改革注 1) が行われた。古城においても資産家である「地主」の土地と住居が土地を持たない県民に 配分され、それ以降、数家族が共同で居住する事例が増加した。その時期から伝統的な住 居が分割され、1 院の住居は 1 家族の利用から数家族の共同利用となった。また、防衛上の 機能を失った城壁が撤去され、県道を建設した。1965 年から 1980 年にかけて、古城におけ る単位注 2)所有の庁舎と職員の住居として地上式煉瓦窰洞が建設された。
1980 年から、県道に面して、百貨店と飲食店とホテルなどの商業施設が建設された。
2000 年以降、米脂県新城 ( 新市街地 ) の開発を契機に、多くの住民が新城に転出し、古城 は農村部から流入した家族の受け皿となってきた。それによって、さらに賃貸化が進み、
住居が細かく分割された。2008 年に古城の保存を目的として、住居の増改築を禁止する政 策が実施された。