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663 年、倭は海軍を朝鮮半島に派遣し、百済の再建を援助しようとしたが、白江口の戦 いで新羅と中国唐朝の連合軍に殲滅された。このあと倭国の国策と東アジアの国際関係に は相継いで大きな変化が起こった。「白江口の戦い」は歴史の転換点となったのだ。

前述のように、倭国は長期にわたって朝鮮半島の経略を積極的に行ってきた。一方、隋 唐は両代にわたって地理政治的な要因によって高句麗を攻撃、征伐していたとはいえ、隋 唐王朝が朝鮮半島情勢に介入していったのはむしろ、主として朝鮮半島の新羅が巧みに計 画、実行した統一戦略によって巻き込まれていったものだ。新羅の目的は朝鮮半島の大同 江以南の三韓故地を統一することであり2、そのため、同時期に朝鮮半島西部に併存してい た百済を消滅させることが主要な戦略的目的であった。

百済は最も古くは漢江南岸の慰礼城に建都し、後に高句麗の軍事的拡張によって、475 年 に錦江中流域の熊津(現在の公州)への遷都を余儀なくされた、また後の 538 年には再度 南行して泗沘(現在の扶余)に遷都した。この時、朝鮮半島東部の新羅がすでに台頭して おり、百済は朝鮮半島で最も弱小の国家となった。6 世紀中葉、新羅はまず百済と同盟を 結び、漢江下流域を攻撃、占拠して、高句麗の勢力を北方へ追いやった。新羅はひき続き 西方に勢力を拡大し、百済の西海岸を奪取した。百済は 554 年に反撃するが、百済の聖王

1 [日]鬼頭清明『白江口-東アジアの動乱と日本』(東京:教育社、1986 年)182 頁以下。[日] 西嶋定生

『日本歴史の国際環境』(東京大学出版会、1985 年)120 頁以下。[日] 森公章『「白村江」以後-国家危 機と東アジア外交』(講談社、1998 年(訳注:原文では 1999 年))14-5 頁。

2 拙稿「新羅北界と唐朝遼東」(『史学集刊』2005 年第 3 期)41-7 頁。

と 3 万の将兵は管山城で戦死する。これらのことに照らせば、百済は日本列島の倭国にや むなく頼ったのであり、ついにはかねてからの宿敵高句麗とも手を結び1、滅亡の運命から 脱しようと試みた。しかし百済が生き残りを賭けたこの戦略は政治的には短慮であり、は からずも東アジア国際関係のなかで百済自身を中国と対立する位置に置いたのである。特 に中国を統一した隋唐王朝が築かれてからは、百済のそうした劣勢はより一層鮮明になっ た。例えば、『旧唐書』東夷百済伝には、「(貞観)十六年(642)、義慈興兵伐新羅四十余城、

又発兵以守之、与高麗和親通好、謀欲取党項城以絶新羅入朝之路。新羅遣使告急請救、太 宗遣司農丞相里玄奨齎書告諭両蕃、示以禍福。及太宗親征高麗、百済懐二、乗虚襲破新羅 十城。(貞観)二十二年(648)、又破其十余城。数年之中、朝貢遂絶。高宗嗣位、永徽二年

(651)、始又遣使朝貢(貞観 16 年(642)に、義慈王は発兵して新羅の十余城を征伐し、

占領後に守備兵を置いた。さらに、高句麗と和議を結んでから党項城を攻め取ることによ って、新羅が入朝する経路を絶とうと謀った。新羅は使者を派遣して急を告げ救援を要請 した。太宗は司農丞の相里玄奨を派遣して書を齎して百済と新羅を諭し、禍福を示した。

太宗が自ら高句麗を討つに及び、百済は二心を抱き、隙に乗じて新羅の十城を襲撃した。

貞観 22 年(648)、さらに新羅の十余城を破った。その後、数年間、朝貢が途絶えた。高宗 が即位して、永徽 2 年(651)、使者を派遣して朝貢を再開した)」とある。

百済が置かれている状況とその戦略について新羅は充分に理解していた。新羅が勃興し 発展した時期にはちょうど高句麗が朝鮮半島で勢力を伸ばして対立していた。新羅は伽耶

(任那)を兼併し、近隣の倭国とも利害の衝突が生まれていた2。当然のことながら新羅に とって百済との戦いの最中に南北両面を敵に挟まれることは望ましくなく、またその状況 に甘んじていることもできない。こうした情勢の中で朝鮮半島の統一を進めようとするな らば、東アジア地域のなかでは中原王朝と行動をともにするしかない。後に新羅を統一す る文武王(661~681)はこの戦略の意図について次のようにはっきりと述べている。「往者 新羅隔於両国、北伐西侵、暫無寧歳。戦士曝骨積於原野、身首分於庭界。先王愍百姓之残 害、忘千乗之貴重、越海入朝、請兵絳闕、本欲平定両国、永無戦闘、雪累代之深讐、全百 姓之残命。百済雖平,高句麗未滅。寡人承克定之遺業、終已成之先志。今両敵既平、四隅 静泰(先に新羅は両国から侵攻されたので、北伐西侵し少しもやすまるときがなかった。

兵士のさらされた骨は野に積まれ、身と首はばらばらとなっていた。先王は百姓の被害を 憐れんで、千乗の貴さをすて海を渡って入朝し援軍を要請したのはもともと両国を平定し、

1 [韓]李基白『韓国史新論』(漢訳本、国際文化出版公司、1994 年)48-9 頁。実際、百済の聖王(523-554)

が再度熊津から泗沘(現在の扶余)に遷都したのは陸上で激しく追いやられたことのみと関係しているの ではなく、さらに海路を利用して盟友と連絡し侵攻に対抗しようとする意図があった。後の「白江口の戦 い」においても同様である。

2 [韓]千寛宇『伽耶史研究』(前掲)44-52 頁。

こののち戦闘もなく、代々の深き仇を雪ぎ、百姓の命を全うさせようとしたからだ。百済 は平定することができたが、高句麗はまだ滅びていない。私は高句麗を平定する事業を引 き継ぎ、ついに己成の先志を実現することができた。現在両方の敵が平ぎ、四方は安泰に なった)1」と。この史料からも新羅が朝鮮半島情勢の中で度々唐朝を巻き込んで行動した 主な理由がうかがえる。

実のところ、新羅が唐朝を巻き込んだ方法は単純なもので、何かにつけて唐朝に新羅だ けが東アジアの中で唯一信頼できる忠実な盟友であると思わせ、何事にも唐朝を頼みとし たのである。例えば、隋唐両朝が相継いで高句麗を攻撃、征伐した際、新羅は高句麗と盟 を結ばなかったばかりか、貞観 17(643)年には唐朝に対して、百済が「与高麗和親通好、

謀欲取党項城以絶新羅入朝之路(高麗と親しく通交しており、党項城を取って新羅が入朝 する進路を閉ざそうと目論んでいる)2」と告発している。また、永徽 6(655)年、「新羅 王金春秋又表称百済与高麗、靺鞨兵侵其北界、已没三十余城(新羅王金春秋はまた百済が 高句麗、靺鞨の兵と北側の国境に侵攻し、すでに 30 カ所以上の城が落ちたと上表した)3」 とあり、唐朝は新羅をこの挟撃の危機から救うために高句麗を挟み撃ちにする態勢を整え、

「欲滅高麗、故先誅百済、留兵鎮守、制其心腹(高句麗を滅ぼすために先に百済を伐って 兵を駐屯させ、その重要拠点を占領しようとした)4」ので、百済を消滅させようとするの は必然の成り行きであった。

顕慶 5(660)年、百済は唐・新羅連合軍に一挙に攻め滅ぼされた。その後、百済の旧将 福信と僧人道琛は周留城で抵抗し、もとの王子扶余豊を倭国より迎えて、これを王とし、

復国運動を展開した。前述のように、隋唐中国は倭国を地域情勢における対等な相手とは みなしておらず、第三回遣唐使が帰国する際には、「高宗降書慰撫之、仍云:‘王国与新羅 近。新羅素為高麗、百済所侵。若有危急、王宜遣兵救之。’(高宗は書を降してねぎらい、

「王の国は新羅に近い。新羅は高麗と百済に侵攻されている。もし危急のことがあれば、

王は兵を出して新羅を救うように」と述べた)5」。しかし倭国は自負心から、勧告を聞き 入れなかったばかりか、かえって唐朝に対抗しようという思惑をつのらせ、百済の復国を 助けるために敢然と出兵した。

663 年に朝鮮半島の白江口6で起こった戦闘については、『旧唐書』劉仁軌伝の記述が最も

1 『三国史記』新羅本紀第六、文武王。

2 『旧唐書』東夷伝百済条。

3 『旧唐書』東夷伝新羅条。

4 『資治通鑑』巻 200。

5 『唐会要』巻 99、倭国条。

6 この地名については、(新増)東国輿地勝覧』巻 18 によると、かつて唐将蘇定が百済を伐とうとしたと き、扶余の扶蘇山下の白馬釣江の蛟龍が風浪を鎮めた。それにちなんで同江を白馬と名付け、韓国人は現 在でもその名を用いている。漢文史料では白江とする。日本の史料では白村江と称するものが多いが、そ の理由は未詳。日本の学界ではこれまで多数の論文で「白村江の戦い」の歴史的意義について論じられて

詳細である。「俄而余豊襲殺福信。又遣使往高麗及倭国請兵、以拒官軍。詔右威衛将軍孫仁 師率兵浮海以為之援。仁師既与仁軌等相合、兵士大振。於是諸将会議,或曰:‘加林城水 陸之衝、請先撃之。’仁軌曰:‘加林険固,急攻則傷損戦士、固守則用日持久。不如先攻 周留城。周留、賊之巢穴、群兇所聚。除悪務本、須抜其源。若克周留、則諸城自下。’於 是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津 江往白江、会陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘。煙焰漲天、

海水皆赤、賊衆大潰。余豊脱身而走、獲其宝剣。偽王子扶余忠勝、忠志等率士女及倭衆并 耽羅国使、一時並降。百済諸城、皆復帰順(俄にして余豊が福信を殺害し、高麗と倭国に 使者を派遣して援軍を要請し官軍に抵抗した。皇帝は詔勅を出して右威衛将軍孫仁師に兵 を率い海路援軍を派した。仁師は仁軌らと合流するというので、大いに士気が上がった。

諸将の合議では「加林城は水陸の要衝であるから、まず先に攻撃しよう」と言う者もあっ たが、仁軌は「加林城は堅固で、攻撃を急げば兵士を損い守りを固められれば、長い持久 戦になるだろうから、先に周留城を攻めるのがよい。周留城は、敵の本拠地で、反乱分子 が多く集まっているから、そこを伐たねばならない。もし周留城を落せば、その他の城も 自然と落せるだろう」と言った。そこで仁師、仁願および新羅王金法敏は陸上で軍を進め た。仁軌と別将の杜爽・扶余隆は水軍と糧船を率い、熊津江から白江に向かい、陸軍と合 流して周留城に向かおうとした。仁軌はたまたま白江の河口で倭兵と遭遇し、四度戦って 勝利し、船四百艘が燃え、煙と炎が天を覆い、海水は赤く染まり、敵軍は壊滅した。余豊 は逃れたが、その宝剣を獲た。偽王子扶余忠勝、忠志らは、兵士、子女および倭の衆、さ らに耽羅国の使者を率いてみな降伏した。百済の諸城は、そのすべてが再び帰順した)1」。

引用史料の記述からも分かるように、唐・新羅連合軍は綿密に計画を練っており、本来は 水路の要衝である加林城を迂回し百済復国運動の中心地となっていた周留城を伐とうとし ていたのだが、結果として思惑が外れ、逆に加林城付近の白江口で倭の水軍との間に大き な戦いが起こる。この海戦は、唐の水軍にとってあきらかに思いがけないものであった。

唐軍にとっては、白江口で倭軍と戦闘が起こったことは全くの予期せぬ事態であった(そ れは史料が「遇」という字を用いてこの事件を記している理由でもある)。

こうしたことから、唐・新羅連合軍は百済が高句麗および倭に出兵を要請していたこと いるが、白江とは何か、白江口および周留城の具体的位置などについてすら明らかにされていない。([韓]

鄭孝云『古代韓日政治交渉史研究』第 4 章第 2 節「“白江戦闘”の問題点と対外関係」(漢城学研文化社、

1995 年、177-85 頁)、[日]森公章『「白村江」以後』、105 頁を参照のこと)。関連する地誌の記述を詳しく 検討すると、白江(『三国史記』巻 7 には「白沙」とされるが、字形の近似による誤りであろう)或いは 白馬江はその起点は金剛川が錦江と交わる所にあり、下流の終点は林川郡(現在の扶余郡林川面)古多津 であると考えられる。また史料に見える白江口とは白馬江の下流の終点(すなわち河口)の古多津であり、

往事の戦は古多津、江景一帯で起こったものであろう。詳しくは拙稿「白江口の戦相関史地考論」(拙編

『盛唐時代と東北アジア政局』、上海辞書出版社、2003 年)を参照のこと。

1 『旧唐書』劉仁軌伝。