王 勇
第四節 日中間のブックロード
西洋人がシルクは「羊毛樹」①から採取されると固く信じていた頃、朝鮮半島および日本 の先人はすでに養蚕と桑の栽培を始めて、シルクを生産していた。中国の史書を紐解くと、
邪馬台国の女王が何度か班布②、倭錦、綿衣、絳青縑③、帛布、異文雑錦④を魏に朝貢して献 上した、ということを早くも 3 世紀から見つけることができ、それは生産規模と生産技術が 一定水準に達していたことを示している。
世界各地の文明の内実には違いがある以上、文化交流の形式は画一的ではあり得ない。19 世紀末、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが提唱した「シルクロード」の概念を、もし漢 唐以来の東西文化交流を描くのに用いるのならば、その名前は実際を表していると言える。
しかしこの概念をそっくりそのまま古代東アジア地域の文化交流に当てはめると、必ずしも ぴったりと当てはまるわけではない。
① 古代ローマ、ギリシャの「羊毛樹」の伝説については、戈岱司編、耿昇訳『希腊拉丁作家遠東古文献輯
録』(中華書局、1987 年)を参照。
② 染色されたまだらの布。――訳者注
③ 赤地に青い刺繍の絹か。――訳者注
④ 紋様の異なる様々な錦の錦か。――訳者注
1.正倉院珍宝
2001 年 10 月、第 53 回「正倉院展」が奈良で開幕し、翌日には人々を驚かせたある情報 が伝えられた。展示品の『成唯識論』巻四の巻末に、「顕慶四年閏十月廿七日」という墨書 の文字が発見されたのである。正倉院には「海のシルクロード博物館」という美称があるが、
上述の発見は人々に様々な反省を促した。
『成唯識論』10 巻は、玄奘がインドに仏法を求めに行き持ち帰った仏典だが、顕慶四年
(659)十月から漢訳が始まり、同年十二月に完成しており、弟子の窺基(慈恩)が筆受(口 述筆記)を担当した。「顕慶四年閏十月廿七日」という墨書は、巻四の訳が完成した時を表 しており、一般的な手順から考えると、もう一度翻訳を美文に整えて清書し、それからよう やく朝廷に奉ることになる。
現在正倉院に所蔵されている『成唯識論』巻四は、まだ美文に直す作業と清書を経ていな い窺基の手稿である可能性がとても高く、仏教史上大きな意味を持っている。同じ時期の日 本の入唐僧を調べると、道照(道昭とするものもある)和尚は玄奘の門下で学んだことがあ ったが、帰国する時に玄奘が「持っていた舎利、経論を皆和尚に授けた」し、道照が帰国し て禅寺を創建したことについては、「この寺には経論が多くあるが、筆跡は全て好く、間違 いもない。これは皆和尚が持って来たものである」①とされる。ここから考えると、この『成 唯識論』はおそらく帰国の時に玄奘が贈ったものであり、これは日中文化交流史上にまた一 つ美談を付け加えることになる。
正倉院は元来、奈良時代東大寺の校倉であったが、天平勝宝八年(756)聖武上皇が世を 去ると、光明皇太后が先帝の貯蔵した「国家珍宝」600 点余りを寄贈し、その後光明皇太后 は四度にわたり宝物を寄贈した。これら皇室の至宝は多くが遣隋使および遣唐使が持ち帰っ た文物で、例えば六朝から隋唐の詩文を抄録した『雑集』、光明皇太后が書写した『楽毅論』
と『杜家立成雑書要略』、王羲之および王献之の真筆の書、王羲之の書を模写したもの 20 巻等々がある②。
正倉院の宝物は様々な種類に及ぶ。書籍・文具・礼器・仏具・玩具・服飾品・食器具・薬 物・武器などが含まれ、シルク製品が少なくないとは言え、金銀器・ガラス製品・漆器と比 べてもとても見劣りするほどであり、至宝中の至宝としては文献典籍に勝るものはない。
正倉院に収蔵される文献典籍は、数量では何万にもなる。例えば、仏教書籍を所蔵した「聖 語蔵」は、隋代の写経 22 巻、唐代の写経 221 巻、宋版 114 巻、総数では 4960 巻にも及ぶ。
既に言及した『成唯識論』巻四はその中の一巻に過ぎない。正倉院の珍宝を前にすると、人
① 『続日本紀』巻一、道照薨伝。原文の「楷好」は「皆好」の書き間違いではなかろうか。
② 『東大寺献物帳』
は考え込んでしまう。日本文化に大きな影響を与えたもの、日本人の精神に深く浸透したも のは、結局色彩の鮮やかなシルクの断片なのだろうか、それとも奥が深く難解な漢文典籍な のだろうかと。
2.遣唐使の使命
日本は 630 年から遣唐使を派遣し始めたが、造船技術の遅れと航海知識の欠乏のために、
航海途中に船が壊れ人命が失われる事故が頻繁に起こった。ここから考えれば、日本人は激 しい波濤を敢えて乗り越えたのであり、重大な使命を負っていたに違いない。確かなのは、
彼らは西域から来た使節と異なり、シルクを買い求めるのが主要な目的ではなかったことで ある。
唐代の日中関係史料の中からは、遣唐使が大量にシルクを輸入したという記録は見当たら ず、逆に遣唐使が持って来た貢物はシルク類を主としており、日本の朝廷が使節の構成員に 支給した経費も全てシルクや織物の類であった①。遣唐使がシルクを携帯し貢物および貨幣 とした以上、彼らが遠い道をやって来たのは何を得たかったからであろうか。『旧唐書』日 本国伝はすでにその答えを示している。
開元年間の初めに、また遣唐使が来朝して儒者に経を授けてくれるよう請うた。皇帝は 四門助教の趙玄黙に詔を下して鴻臚寺で教えるよう命じた。そして玄黙に幅の広い布で 束修の礼を行わせると、その布を「白亀元年の調布」と称した。人々はそれは偽物では ないかと疑った。手に入れた賜り物は全て書籍を買うのに使い、海を渡って帰った。偏 使の朝臣仲満は中国の風俗を慕い、中国に留まって帰らず、姓名を朝衡と改め、中国の 朝廷に仕えて左補闕・儀王友となった。衡は都に留まること五十年、書籍を好み、帰郷 を許しても逗留して帰らなかった。
日本の使者は「幅の広い布」で師に入門する際に行う束修の礼を行い、手に入れた賜り物 は「全て書籍を買うのに使っ」ており、その「書籍を好む」様はこのようであった。遣唐使 は遣隋使に由来していて、日本の歴史上両者は連続している。通算約 300 年の間、日本の使 節団が負っていた具体的な使命は、全く変わらなかったわけではないが、書籍を買い求める のはずっと彼らの主要な任務であり、これは中国および日本の文献の中から十分な証拠を見 つけることができる。例えば『善隣国宝記』(巻上)の引く『経籍後伝記』に以下のように ある②。
小治田朝(今案ずるに推古天皇)十二年甲子の歳、正月朔日に初めて暦を用いた。この
① 『延喜式』大蔵省(諸使給法・入諸蕃使給法)。
② 『経籍後伝記』は『儒伝』とも言い、原書はすでに失われ、佚文が『善隣国宝記』や『政事要略』など に散見する。
時国家には書籍がまだ多くなく、そこで小野臣因高を隋に派遣して書籍を買い求めさせ、
また隋の天子を訪問させた。
これは文献の記載する最初の、日本が中国に派遣した書物を求める使節団である。これ以 後日中間の書籍流通のルートが開かれ、そして遣唐使の時代にはそれがさらに拡張された。
3.書籍東伝の道
東アジア諸国は使者を派遣して唐に入り書籍を求めたが、これは遣唐使を派遣した地域で は珍しい現象である。白居易が『白氏文集』を編纂した時に「『白氏文集』には五種類の本 がある。(中略)日本、新羅の諸国および両京①の人たちが書写したものはこれに含まれて いない」と感嘆した。『旧唐書』張薦伝は盛んに張鷟の文章が天下に聞こえていることを称 して「新羅、日本や東の諸外国は、最も張鷟の文を重んじ、使者を遣わして入朝するたびに、
必ず財貨をたくさん出してその文章を買う。その才名はこのように遠くまで広まっている」
とある。
ここからわかるのは、唐代の著名な文人の詩文が「遠く海外に広まる」と言っても、実際 は主に東アジア文化圏内で東に伝播したのであり、これはまさに「書籍の道」つまりブック ロードの存在を証明している。日中両国のブックロードにおいては一貫して遣唐使が主役を 演じていたのは疑いない。彼らは書籍を買う費用を国家から提供されていたし、唐王朝から 優遇を受けていたので、書籍を求めるという使命を比較的容易に達成できた。例えば留学僧 の玄昉は、一度に仏教の経論 5000 巻余りを持ち帰ったが、これは開元大蔵経の総数に匹敵 する②。また留学生吉備真備は、帰国する時『唐礼』、『大衍暦経』、『大衍暦立成』、『楽書要 略』など合わせて 150 巻余りを持ち帰った。この他、「入唐八家」と称される最澄・空海・
常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡が中国に行って手に入れた経巻は何千にも上り、編纂 されたそれぞれの「将来目録」は今にまで伝わっている。
遣唐使が主役を演じたとは言え、それによってその他の脇役を忘れてはいけない。その最 たるものは、中国や新羅および日本の商人の東シナ海での活躍であり、日中間の書籍の交流 には多様なルートが出現した。ここに以下の証拠を挙げる。
(1)個人の贈り物。最澄・空海・円仁・円珍ら入唐僧の伝記を調べると、ほとんど皆唐 人からの贈り物である書籍を手に入れている。現存する仏教経疏の序や跋、例えば石山寺蔵
『遺教経』、大正新修大蔵経本『肇論疏』、法隆寺宝物の『小字法華経』などは我々にこうい った証拠を提供してくれる。
(2)日本に渡った唐人が身につけて持ってきた物。日本に渡った唐人は多くはないが、
① 両京とは、長安と洛陽のことを指す。
② 唐代に編集された「開元蔵」(『開元釈教録』のこと)は全部で 5048 巻である。