王 勇
第三部 第二章
1、 中国の科挙制度
科挙制度は、官僚を選抜する一種の試験制度であり、経済社会と文化がある水準まで発 展した所産である。中国ではすでに漢武帝の時に、一種の察挙制度がつくられた。漢朝の 初期には、二千石以上の大官と、十万銭の財産を保有し、かつ商人ではない資産家だけが その子弟を朝廷に送って「郎」とすることができた。これが、「任子制度」であり、「貲選 制度」である。高位の官僚は多く、これら二千石以上の子弟によって担われた。郡県の主 要な官吏は朝廷によって任命されたが、一般の官吏は長官に辟召(地方長官が私的に属官 を任用する制度)された。漢の武帝のときに、察挙制度が実施に移された。皇帝が臨時に 詔を下して賢良を察挙する特科と、郡国が毎年、孝廉を推挙する常科とがあった。漢武帝 はまた京城に太学を設け、博士弟子50人を置いて勉強させて、試験合格したものは官職を 授与する。このように、普通の庶民の子弟は察挙と学校を通して官職を得ることは、貴族 の世襲任命官から庶民の才能任官に変わった過程である。
後漢中期よりも後となると、察挙と辟召とは、有力豪族によって独占されるようになり、
最後には魏晋の九品中正制度に発展した。出仕して官職を与えられるには、両漢から行わ れている察挙や辟召といった過程を経なければならなかったが、察挙・辟召を受ける条件 はまず家柄であった。家柄が、官僚となる先決条件であった。
南北朝以来、有力士族が衰退するにつれて、能力に応じて官吏を選任するという課題が、
改めて提出され、察挙制度は再び重視された。南朝と北朝とはいずれも秀才・孝廉を推挙 する制度を復活させ、明経の推薦制度も、実施された。同時に社会では、私学が興り、国 子学も一般人民の子弟を受け入れるようになりはじめた。
隋朝が、成立して後、隋文帝が九品中正制を廃止し、州郡長官が属官を辟召する制度も 廃止した。各級の官吏は地方の属官も含めて、すべて中央が任免することとしたのである。
官吏の任用はもはや家門の制限を受けることがなくなった。
開皇七年(587)正月、「制州ごとに毎年三人を推挙する」(1)と定め、毎年実施する定期 的な選抜制度が正式に設立された。
隋文帝の時に定期的に行われた試験には、主に秀才と明経があった。秀才は、魏・斉・
梁・陳では主に文学の才能を試験した。北周が北斉を滅ぼして後、宣帝の宣政元年(578年)
に「州に、高才博学の者を推挙して秀才とする」と詔し、才能・学問を秀才として選抜す る上での基準とした。隋に至って、秀才については「方略を試験し」(2)ており、さらに政 治的見識の方面についても要求されるようになったのである。
隋の煬帝が即位して後、秀才・明経科を残し、同時に新たに進士科を設立し、引き続き 孝廉の察挙を行った。
このように何百年という展開を経て、試験制度は隋煬帝の時に、いくつかの段階からな り、評価基準もそれぞれ異なった完全に体系的な制度となったのであり、国家が純粋に才 能・学問を基準として文士を選抜して官吏に任用する試験制度となった。科挙は、完全に 試験の成績によって選抜し、それ以外の付加条件はなにもない。科挙制度はついに、察挙 制度の母体中から脱けだし、しだいに唐朝以後の官吏選抜の中心的な制度となっていくの である。
唐朝の官吏選抜制度は、「選挙」制度と呼ばれる。「選」とは官吏の選授(官僚ポストの 割り当て)をいう。「挙」とは貢挙をいい、一般にいうところの「科挙」である。選挙制度 と結びついた制度として、そのほかには学校がある。唐朝政府は、各段階の学校によって 人材を育成し、科挙によって人才を選抜して、選授によって官吏を任用した。
唐高祖の武徳七年(624年)四月の一日、新たな律令を頒布した。令の二十七篇三十巻の 中、十は選挙令であり、十一は考課令である。選挙制度はこのときに最終的に固まったの である。
唐朝の官吏登用のコースは主に三種類がある。一は門蔭である。朝廷の五品以上の官員 の子孫は父祖の官位の高低に応じて、品階違いの官職を得る。門蔭は門第とは異なり、当 該王朝の高級官員に与える政治的特権である。第二は、雑色流入であり、主に、流外流入 である。流外官とは、中央各部門の吏(正規の官に含まれない下位の役人)であり、なに がしかの試験を経て、合格すれば、官職に選任するための試験に参加できる。第三が科挙 である。
唐代における官員の選授は、五品以上の官吏については吏部が指名し、宰相に送って審 議し、通れば、皇帝に上奏して批准を求め、そのうえで官職が授与される。『唐六典』巻二
「尚書吏部」に「五品以上は名聞をもって、中書門下に送り、制授をゆるす」とあり、こ れは開元十一年、政治堂を改め中書門下としてから後の制度である。これより以前は、政 治堂での宰相による審議を経ていた。五品以上の官は、授官に際してこれ以上評定は行わ れない。五品以上の官に評定は無いが、五品に入る前には、そのたびごとに評定を経るの であり、不断に昇進し続けてやっと五品に至るのである。しかも、官職を授与する前に、
やはり宰相の審議を経る必要があり、その上で皇帝に批准を求めることになる。その才学・
政治的実績に対して厳格な審査が行われるのである。
三品・五品となるには、一定の決まりがある。武徳から乾封に至るまで(618―668 年)、 三品にのぼるのは特別な恩典によるものであって、一般の官員が三品となるのは困難であ った。五品に進む者は、銓選の際に進階の状況を調べて、もし従五品の下の階に進むこと ができる場合には、批准を申請する。この時点では、毎年、一定の定員だけという制限が あったが、しかし、官の履歴のない官員が何回の評定を経ていなければならないという制 限はなかった。武則天のとき、出仕任官してから後の評定を経由した回数に規定がつくら れ、以後、不断に増加した。五品となるために経由すべき評定の回数は、8回から12回に 増え、開元の時には16回以上に増え、しかも必ずまず六品以上の官にあって、本階は正六 品上であることが条件であった。三品に進むには、25回から30回以上まで増え、しかもま ず四品以上の官にあって、本階は正四品上でなければならない。これは、門蔭を通じて入 仕する皇親貴族や高官の子弟の昇進に対して、制約がよりいっそう強化されたということ である。
六品以下の官は尚書省が管轄し、そのうち文官は吏部に、武官は兵部に属する。これを 銓選という。
唐朝の規定では、一般の官員は、等級を飛び越えて抜擢されることはない。監察御史、
左右拾遺、大理評事それに県の丞・簿・尉等都畿官、清望官で、三度任用され10回以上の 評定を経たものだけが、品階を飛び越えて官を授けられる。流外や視品出身といった清流 でない者は、清資の官には任用しない。そのうち、中書主書・門下録事・尚書都事は、考 詞・使状を歴任し、清干・徳行・言語があれば、書・判・吏を兼用し、16回の評定を経た者 が、寺・監丞それに左右衛、金吾長史といった清資の官に任用されうる。(3)
官吏を選任するのに、唐朝には回避制度があった。「凡そ同事聯事および勾検の官は、皆 大功已上の親に注するを得ず」。(4)
銓選は冬十月上旬から下旬に始まり、春三月に終わる。
如何なる出身問わず、銓選のとき、職事官を授与する条件に足りなければ、散官を授与 する。四品以下、九品以上の散官は、吏部・兵部で当直にあたる。一回ごとに45日、当直 する。都省が人に符を送らせる場合、諸司が送らせる場合には、兵部・吏部の散官をわり あてる。二回以上当直してはじめて銓選に参加できる。及第しなければ、引き続き当直に あたり、多い場合でも6回を越えることはない。
唐朝は門下省に弘文館を設立し、太子左春坊に崇文館を設立し、皇族・宰相・尚書と一 部分の三級以上の高級官吏の子孫を受け入れて学生とした。
国子監はその下に六学を設置し、それぞれの学校が学生を受け入れるにあたっては厳格 な等級の制限があり、そのうち、国子学は文武三品以上と国公の子孫を受け入れた。太学
は四・五品以上の官吏と郡公・県公の子孫、四門学は六・七品の官吏と侯・伯・男と一部 の庶人の子孫とを受け入れた。
国子監・太学・四門学の学生はすべて二種の儒家経典を学ばなければならない。試験に 合格すると、尚書省に送られて貢挙試験に参加しなければならない。
唐代の科挙は常科と制科とに分かれている。
常科は、秀才・明経・進士・明法・明書・明算の六科からなる。常科に参加する受験者 には、館学の生徒と、自分で申し込み、州県で受験する「郷貢」とがいる。
明経は二種の儒家経典に通じていることが求められるので、二種の経典について試験さ れる。進士は、唐代の初期には、時事策五問が出題された。唐の高宗のとき、進士には雑 文二種の試験と、帖小経を加えることとした。中宗のときに三段階の試験が確立する。『唐 六典』巻四「礼部尚書侍郎之職」条によると、「凡そ進士はまず帖経し、それから雑文二種、
時事の策五条の試験をする。文は美しく内容のあるものが合格し、策は筋道が通ったもの が合格することになっている」。これは開元年間前後の制度である。雑文については、当初、
試験するのは士子たちが学び覚えた籤、表、銘、賦であったが、天宝年間(742―756)に なってから詩・賦のみを用いるようになった。
唐代の進士と明経は合格しても、出仕して官となる資格を得るだけであって、それだけ では官職を与えられない。官僚になるには、さらに吏部で銓選を受けなければならず、銓 試に合格して、そこでやっと官職を与えられるのである。
科挙出身者が官職を授けられるときの叙階法は「秀才に上の上で合格した者は、正八品 上。以下、順に一等ずつ下がって、中の上で合格すると従八品下。明経は秀才より降るこ と三等。進士・明法の甲種合格は、従九品上。乙種合格は、一等下がる。もともと恩蔭の 高位者で、秀才・明経に上で合格した者は、もともとの恩蔭の位階に四等を加える。以下、
一等ずつ降す。明経で二経以上に通じる者は、一経ごとに一階を加える。」(5)
制挙というのは、皇帝が臨時にコースを決めて実施する試験である。試験コースは非常 に多く、「才堪経邦科」、「文以経国科」などがあった。制挙は、一般人と在官者のいずれも が参加できる。制挙に参加するには、唐玄宗の開元年間より前には、推薦を経ることが必 要であったが、開元より後は自己推薦によって、自分で申し込み參加できるようになった。
制科に合格した後、一般人は「文章作文にすぐれた者は特別に名誉ある官を授ける。その 次のものは、出仕資格を与える」。現任の官僚はすぐに官職を昇進させる(6)。
唐代にあっては、科挙は官吏を選抜するいくつかのルートの一つにすぎなかった。時期 によって、科挙が官吏選抜と人材育成の上に占める位置と果たした役割は、それぞれ異な っている。
唐朝初年、科挙で毎年登用される人数は非常に少なく、科挙により出仕した官員もわず