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実際のところ、白江口の戦闘が起こるまでは、倭の側ではつとに闘志を昂揚させ、唐朝 中国と優劣を争おうとしていた。661 年 1 月、倭の斉明天皇は九州に赴き、自ら唐・新羅 連合軍との戦闘を指揮しようとしたが、長旅の疲労により病に伏し逝去した。そのため倭 軍の朝鮮半島出征計画は実行を延期せざるを得なかった。研究によれば、白江口の戦闘に おいても、倭軍の自負や、自軍の実力への過大な評価、唐・新羅連合軍の実力の軽視など によって、無鉄砲な戦いを挑み、結果として惨敗を喫することになったことが分かってい る。

白江口海戦の惨敗は、倭国朝廷が全く予想していなかったことであった。心情的には自 信満々で唐に対抗しようとする興奮状態から、一気に閉塞状態へと落ち込んだ。唐朝の一 挙一動のすべてが、倭国朝廷を恐怖に陥れ、大軍が国境に押し寄せ、列島の安全を脅かす のではないかと不安にからせた。『日本書紀』の記述によれば、664 年 5 月、百済駐屯の将 軍は郭務悰を使者として倭国に派遣した。12 月、郭が立ち去った後、倭王は命令を下して 対馬島、壱岐島、筑紫国に防人と烽火台を設置させ、また筑紫国には水城も造らせた。翌 年 8 月、さらに筑紫国に大野、基肆の両山城を築いて唐軍の来襲に備えた。667 年 11 月、

唐の使者司馬法聡が倭に到着する。まもなく、倭国は対馬海峡一帯に高安、屋島、金田の 三城をそれぞれ築いた。総章元(668)年に唐朝が新羅とともに高句麗を滅ぼすと、唐朝 が倭国に出兵すると噂されたため、倭は一方では河内鯨を使者として唐朝に派遣して虚実 を探らせ、一方では高安城などの守りを固めた。天智天皇はこうした危機的な国際的環境 の中で、心労から病を得て逝去したのであった。

『新唐書』日本伝の記述には「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,悪倭名,

更号日本。使者自言,国近日所出,以為名。或云日本乃小国,為倭所并,故冒其号。使者

1 『三国史記』新羅本紀第六、文武王。

不以情,故疑焉(咸亨元(670)年に、使者を派遣して来て高句麗を平定したことを祝っ た。後に次第に中国の言葉を理解するようになって、倭という名を嫌って日本と改めた。

使者の言葉では、国が日の出の場所の方角にあるので名前にしたという。日本はかつて小 国だったが倭を併呑したので国号を改めたともいう。使者は実情を述べなかったので、こ れは疑わしい)」とある。倭国が日本へと改名した理由とその時期については、学界では すでに多数の研究が行われ多くの学説が存在している。いま東アジア国際関係の視点から この問題を検討すると、倭国が日本へ改名したのは、戦争による打撃を回避するためであ った可能性が高い、とする説にほぼ同意したい1。一般的に、改名は 670 年前後に行われた と考えられているが2、遅くとも河内鯨が派遣された 669 年すなわち唐と新羅が高句麗を滅 ぼした翌年には行われただろうと私は考えている。なぜなら、時期的に、百済と高句麗が 相継いで滅亡したことは倭国が新たな国名に変えようとするに充分な動機になり得るし、

河内鯨が出使して「賀平高麗(高麗を平定したことを祝った)」ことは国名を改めたとい う情報を広めるのに恰好の機会であったからだ。そして、この後 701 年に第八回遣唐使が 派遣されるまでの間、三十年間あまりにわたって日本と中国の間には一度も使者の往来が なくなるが、その理由は、主に両国と統一新羅との関係が転倒したからである。

すでに 657 年に、倭国が新羅と百済の紛争において百済に肩入れしたことから、新羅は 倭国との正式な通交を断絶していた。しかし高句麗が滅んだ後は、高句麗の南部領土の帰 属をめぐって唐と新羅との間に確執が生じ3、新羅は同(668)年のうちに日本に使者を派 遣した。その後 700 年までの 32 年間に、新羅は日本への使者を合計 29 回派遣し、同時に 日本も新羅へ使者を 11 回派遣しており、両者の往来は平均で 1 年 1 回以上となり、常な らぬ密接さを見せている。この時期の新羅は唐朝に対抗するという目的のために、日本と の良好な関係を必要としていたことが明らかである。また日本も地域政治のなかで勢いに 乗じる機会とみなして、唐朝と関係を改善する機会を放棄してしまったのである。ところ が 7 世紀末に唐と新羅の関係が次第に好転してくるのに従い、新羅と日本との関係は再び 冷え込み、日本人もついに目を醒ますこととなった。

1 台湾の研究者徐先堯氏は「『旧唐書』日本国伝あるいは『三国史記』文武王 10 年(670 年)12 月の記述 によれば、新たな国号日本は、すなわち倭国が劉仁願の遣使による示威行為を受けて唐への使節を停止し てから後、唐朝によって白江戦役の責任を追及されることを恐れて行われたものである。倭国は対内的に は国名を「ヤマト」(すなわち「山門」あるいは「山戸」)としており、対外的に「日本」を用いたのは、

特に対中外交における必要性によるもので、かつての「日出処」という観念を引き継いで成立したもので ある。(同氏前掲書『二王尺牘と日本書紀所載国書の研究――隋唐期中日関係史之一章』197 頁)とする。

しかし、いわゆる「劉仁願遣使」とは 664 年の郭務悰が倭に遣わされた後、668 年に高句麗が滅亡する前 のことであり、倭国は 665 年と 667 年の 2 回、唐に使者を送ってもいる。そのため、倭国の改名はおそら く白江戦の後に責任を追及されることを恐れたためばかりではなく、高句麗の滅亡を受けて同様の運命を たどることを恐れたからである可能性が高い。

2 主に『三国史記』新羅本紀第六記載の文武王 10(670)年 12 月「倭国更号日本、自言近日所出(倭国は 名を改めて日本とした。日の出の場所に近いからだと言っている)」に基づく。

3 拙稿「新羅北界と唐朝遼東」43-4 頁。

7 世紀と 8 世紀の変わり目に東アジア国際関係の重大な転機が現出したのは、主として 中国東北部に渤海国(698~926)が現れたことによるものだ。

高句麗滅亡の後、唐朝はさらなる経略を行わなかったばかりでなく、設立したばかりの 安東都護府を朝鮮半島の平壌から遼東へと撤退させた。それは唐朝の戦略に限界があった

(和平共存という中国の伝統的思惟の影響があった)ばかりでなく、西方で吐蕃王朝(629

~846)が台頭してきたからでもあった。670 年、薛仁貴率いる唐軍十万の兵は青海の大非 川で破られ、この時から、唐朝と吐蕃は青蔵高原および西域において長期にわたる戦いを 続けることになった。吐蕃の屈強さは東突厥にも復興の機会を与えることになった。東突 厥は唐初の貞観 4(630)年に北突厥を滅ぼした後に幽州(現在の北京)から霊州(現在の 寧夏霊武)に至る沿辺地区に配置された突厥の降部である。50 年が過ぎると、彼らは唐朝 が軍事力を西北方に振り向けて吐蕃と激しく対立しているのに乗じてしばしば反乱を起こ し、ついに 682 年には東突厥汗国(682~745、学界ではこれを突厥第二汗国または後汗国 とも称している)を建国した。東突厥の本営は漠北の烏徳鞬山(または郁督軍山とも言う。

現在のモンゴル国杭愛山)に築かれたとはいえ、度々南下して略奪を繰り返していた。特 に黙啜が可汗となった時代(691~716)には、東西万里にわたって領域を拓き、北狄諸族 を悉く支配し1、四十余万の弓兵が毎年のように唐との国境に侵攻し、さらに吐蕃とも呼応 し、東突厥汗国の最も強大な時期を迎えた。

東突厥の復興によって唐朝の辺境で大きな騒擾が生じ、唐朝は東部の防衛線をさらに収 縮させざるを得ず、東北部の辺境防衛に当たっていた営州(治は現在の遼寧省朝陽)の兵 力をも東突厥の平定に振り向けることになった。営州という地は歴代の中原王朝が東北地 域を治めるための前衛基地であり、その領域内には奚、契丹など多数の民族が雑居してお り、唐は平盧軍を置いて室韋、靺鞨を鎮撫し、安東都護府との連絡を保っていた2。武周延 載元(694)年には「臘月甲戌、默啜寇霊州。室韋反、遣右鷹揚衛大将軍李多祚撃破之(12 月甲戌の日、黙啜が霊州を襲った。室韋も反乱したが、右鷹揚衛大将軍李多祚を派遣して これを平定した)」。3営州で騒擾が起こったことは、東北アジアの政局に大規模な連鎖反応 を引き起こした。万歳通天元(696)年、まさに武周の朝廷が吐蕃、突厥の双方との戦い

1 『旧唐書』突厥伝上「契丹及奚自神功(697)之後,常受其徴役(契丹と奚は神功年間(697 年)以後に 度々突厥の徴発を被っていた)」『新唐書』北狄伝室韋の条に「其国無君長,惟大酋,皆号‘莫賀咄’,摂 筦其部而附于突厥(この国では君長がなく、大酋があるだけで、それを皆は『莫賀咄』とよび、その部族 を率いて突厥に帰属している)」とある。同書北狄伝渤海条に黒水靺鞨は「異時請吐屯於突厥,皆先告我

(渤海に道を借りて唐と通交するときや、吐屯となることを突厥に要請するときは、全て渤海に告知して きた)」とある。吐屯とは突厥が属国や別部に派遣して賦税の徴収や取締りを統監させていた官吏。『新唐 書』突厥伝下を参照のこと。

2 『旧唐書』地理志一、平盧軍節度使条。同書 39「地理志」二、柳城条。営州が唐代の東北辺境防衛で担 っていた地位と役割については、拙編『盛唐時代と東北アジア政局』所収の「唐代平盧軍と環渤海地域」

を参照されたい。

3 『通鑑』巻 205。