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王 勇

第二節 情報伝達と物の流通

紀元589年、数世紀の南北分裂を経て、隋朝は陳を滅ぼして中国を統一した。東アジアの 政治構造が一変し、周辺諸国は厳峻な外交選択に直面しただけではなく、内部に潜む様々な 矛盾もまたこれに随って浮上した。

日本列島もその余波を受け、激動する不安定な時期に入った。この時、日本にはひとりの 賢明な政治家——聖徳太子が登場し、内憂外患の中、推古朝政を管掌し、対外的には遣隋使を 派遣して、大陸との直接的な交通を開拓し、先進文化を吸収して向上しようとつとめた。対 内的には制度改革を実施し、憲法と官制を制定し、天皇に集権して国家の基礎を固めた。日 中間の交流は、ここから新しい局面が開かれた。

1. 遣隋使から遣唐使へ

『日本書紀』(巻二十二)推古十五年の条に「秋七月戊申朔庚戌、大礼小野臣妹子を大唐 に遣わし、鞍作福利を以って通事とす」とある。このときの遣使についてはまた『隋書·倭 国伝』大業三年の条にもあるため、学術界では一般に遣隋使は紀元607年に始まったと認識 している。

しかしながら、『隋書·倭国伝』の開皇二十年「倭王(中略)使を遣わして闕にいたる」

という記載によれば、日本は早くて紀元600年にすでに第一回目の遣隋使を派遣しているこ とになる。この時の遣使に関しては、日本の学術界も多く疑義があるところで、これは九州 の豪族が私的に遣わした使であると推測する者もいれば、607年の遣使の重複誤記だと疑う 者もいる

『隋書』の中のふたつの遣使に関する記事を対照させると、まず、テキストによって倭王 を「多利思比孤」または「多利思北孤」と表記することもあるが、「比」と「北」は字形が 互に近いので、二回の使節を派遣した者は同一の倭王であり、地方豪族の使節と中央政府の 使節という区別はない。次に、開皇年間の倭使は「高祖」文帝に謁見しているが、大業年間 の倭使は煬帝に朝見しており、文帝の在位は仁寿四年(604)までであり、正史が帝号と年 号をいい加減に記載することはない。さらに、文帝は「所司に命じてその風俗を訪ねさせ」

たが、煬帝の時にはこのような内容はなく、これもまた開皇二十年の倭使が初めて到来した ということの左証である。

江戸時代の本居宣長が『馭戎慨言』の中で「西辺の人が行った」という説を提出した。この「西辺」と は九州一帯を指す。木宮泰彦『日華文化交流史』(冨山房、1965 年)は、朝鮮半島に駐在していた日本人が なしたものだとする。

同じ遣使が日中双方の正史に記載されるのは、遣唐使の事例から判断してさえ、その確率 はそれほど高くはない。『隋書·倭国伝』では開皇二十年の倭使についての記述は具体的 であり、内容は大業三年の記事と基本的には重複しておらず、そのため遣隋使は紀元600年 に始まったと考えるのが割合妥当である。

小野妹子を大使とした第二回の遣隋使では、隋の煬帝に向かって「海西の菩薩天子が仏法 を重んじ盛んにしているとお聞きしましたので、朝に遣わされて拝礼し、沙門数十人もとも に仏法を学びに参りました」と来意を表明している。第一回の遣隋使には留学僧は随伴し なかったが、おそらく「海西の菩薩天子が仏法を重んじ盛んにしている」という情報を持ち 帰り、そして「沙門数十人が仏法を学びに来た」という後の話につながったのだろう。

前に見た「倭の五王」は南朝に使節を遣わし、後に見る遣唐使は西に赴いて長安に行った が、遣隋使はその中間に位置し上を受けて後に展開したのである。遣唐使に関する論著の多 くは遣隋使を前奏として触れることもあるが、「倭の五王」の関連研究は基本的には遣隋使 に言及しない。遣隋使の背景を考察するに、一方では「倭の五王」がしばしば南朝に使節を 遣わして以来、日中間の断交はおよそ百年に及んでいたこと、もう一方で、隋王朝が起こ って十数年も経っておらず、中原統一王朝というものは倭国がいまだかつて体験したことの ないものであったことに留意すべきである。そして、前期遣隋使はしばしば失策したのであ る。

第一回の使者が鴻臚寺の諮問に対して、倭国の政情について「倭王は天を兄とし、日を弟 としている。天がまだ明けない時に出て聴政し、跏趺して座る。日が出れば便ち務めをおさ めるのをやめて、我が弟に委ねると言う」と紹介したところ、文帝はそれを「大変義理に適 わない」と斥け、また「これを改めるよう訓令した」そうである。第二回の使者は朝貢の 規範に従い国書を携帯したが、煬帝は「日出づるところの天子より、書を日没するところの 天子に致す、恙無しや云云」の字句をよろこばず、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼があれば、二 度と上奏することのないように」と命じた。この国書は通常、日本の平等外交の証拠だとさ れるが、その実は日本の早期外交の一大失策だとみなすべきである。

日本正史(六国史)の記載では、実際に行われた遣唐使は 16 回だったが、『旧唐書』と『新唐書』の日 本(倭国)伝ではわずかに 12 回が記載され、その中の 2 回は日本の正史には見えず、双方で重複している のはただ 10 回だけである。

『隋書·倭国伝』大業三年の条。

一般的な認識では「倭の五王」の最後の遣使は、『宋書·順帝紀』昇明二年(478)五月の記事であるが、

しかし『南斉書·倭国伝』建元元年(479)五月の条、『梁書·倭伝』天監元年(502)四月の条にもまた倭王 を封号したという記録があり、倭国が使節を遣わし冊封を求めたかどうかは、考察を待つ。

『隋書·倭国伝』開皇二十年の条。

森克己は著書『遣唐使』(至文堂、1955 年)の中で、遣隋使の携帯した国書を例として、日本が平等外 交と「求めざる者は強し」(8頁)という具体的な方法を堅持していたと考えた。これに対し、池歩洲は

『日本遣唐使簡史』(上海科学院出版社、1983 年 6 月)の中で、反論して「もちろん当時の国際関係或い は両国間の文化の差異から言って、強弱と高低は火を見るよりも明らかである。遣唐使という盛挙の出現

大業四年(608)四月、裴世清は小野妹子を送り使節として倭国へ行き、「皇帝が倭王に問 う」という国書をもたらしたところ、倭王は大いによろこんで「私は海西に大隋という礼 義の国があると聞いたので、使節を遣わして朝貢した。我々夷人は海の隅に僻在しており、

礼義を聞いたことがない(中略)今そのために道をはらい清め館内を飾り、大使を待ち、大 国惟新の化を聞くことを願う」と言った。隋朝にお世辞を使い「礼義の国」として、自ら を「礼義を聞いたことのない」「夷人」だと言って、聖徳太子が隋の煬帝と対等に振舞おう としたなどというのは、後人の憶測に過ぎない。

倭王がよろこんで「大国惟新の化」を聞いた後、一続きの動きがあった。同年九月に第三 回の遣隋使が出発し、携帯した国書の措辞は「東の天王、西の皇帝に敬白す」と改められて おり、前回の国書がもたらした負の影響を取り除いた。注意すべきは、今回の遣隋使には 4人の「学生」と、4名の「学問僧」が随伴していたことである

聖徳太子が摂政に任ぜられて以降、多岐にわたる内政外交の改革を進め、島国から抜け出 そうとする心理状態、これが彼が外交使節を出した内因であると思われる。「海西の菩薩天 子が仏法を重んじ盛んにしていると聞いた」というのが、遣使が隋に入る時「沙門数十人も ともに仏法を学びに来た」外因である。裴世清は「大国惟新の化」という知識を倭国にも たらし、聖徳太子は「礼義」を学ぶことの重要性を深く感じ、ゆえに「学問僧」のほかに等 量の「学生」を追加し、この後それが定例となった。

隋朝に派遣された留学生、学問僧は陸続として学業を達成して帰国し、彼らが伝えた新し い情報は、また遣唐使の誘因となった。『日本書紀』推古三十一年(623)七月の条には「新 羅が大使の奈末智洗爾を遣わし、任那は達率奈末智を遣わしてともに来朝した。(中略)こ の時大唐の学問僧の惠斉、惠光及び医者の惠日、福因など、智洗爾たちに随って来朝した。

そして惠日などが共に奏聞して曰く、『唐国に留まった学者は、みな学業を達成したので、

呼び戻そう。かつ大唐国は、法式の十分に定まった珍しい国である。いつも目標としよう』

と」と記されている。

舒明天皇が即位した翌年(630)、犬上君三田耜、薬師惠日を大唐に派遣し、これが第一 回の遣唐使であった。第二回の遣隋使は仏教を専修する沙門を中国に送り、第三回の遣隋使 は、当時の日本が確かに大唐に対して求めるところがあったことを証明するのに充分である」と言った。

(13 頁)

『日本書紀』推古十六年八月の条は「倭皇」に作るが、『経籍後伝記』は「倭王」に作り、『異国牒状記』

は「和王」に作っているので、原文はたぶん「王」であって「皇」ではないだろう。

『隋書·倭国伝』大業四年の条。

『日本書紀』推古十六年九月の条は「東天皇」、しかし『異国牒状記』は「東天王」に作る。この国書は 何も紛糾を起こさなかったことから見れば、『異国牒状記』の記載するところを是とすべきである。

『日本書紀』推古十六年九月の条には「唐国に遣わす学生は倭漢直福因・奈羅訳語惠明·高向漢人玄理·

新漢人大国、·学問僧は新漢人日文·南淵漢人請安·志賀漢人惠隠·新漢人広斉など、あわせて八人である」と みえる。

『隋書·倭国伝』大業三年の条。