王 勇
第三部 第二章
一. 皇帝と天皇
皇帝と天皇は中日両国の古代政治体制における最高位であり、国家の代表、象徴である。
もし日中両国の古代政治構造について比較を進めるならば、まず皇帝と天皇について比較 してみることがまったく必要なことである。
言うまでもなく、皇帝は中国の、天皇は日本の呼称だが、例外も存在する。唐の高宗(650
-683年)はかつて自らを「天皇」と称し、死後の諡号は「天皇大帝」であった(1)。そし て『続日本紀』は桓武天皇(781-806 年)を「今皇帝」と記している。これはそれぞれに 独立して起きた偶然の現象ではなく、両国の政治体制の内在的なつながりを示す必然的現 象として考えるべきである。李氏の唐朝が道教を振興し、「道教の教祖老子は李氏の祖先で あり、李氏は“神仙の後裔”である」と宣伝することで、皇権を神格化した。唐朝が道教 を振興したことの影響を受けて、日本の天皇および天皇制も道教と密接な関係を持つよう になる。中国文化を厚く尊崇した桓武天皇は亡くなった早良皇太子に「崇道天皇」を追贈 し、また中国の皇帝が天を祀る方式を模倣して、二度にわたって長岡京の南郊外に壇を築 き、天神つまり「昊天上帝」を祀った。桓武天皇のこのような施策は不思議なことではな い。
皇帝と天皇はいずれも自らの神格化を志向するが、その神格性には異なる点がある。中
国では、出身を問わず、いったん皇帝となれば、「天子」すなわち「天帝の子」となり、こ れによって、最高神たる「昊天上帝」の化身、天帝の意志を伝える代理者として、神聖不 可侵の絶対的権威となった。日本で『古事記』、『日本書紀』が成立するより前は、天皇の 位置づけはまだ明確化されておらず、遣隋使は「倭王は天を以って兄とし、日を以って弟 とする」と述べ、国書中では、「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書を送る」
と称したのは、おのずと隋の文帝と煬帝の不興をかっただろう。皇帝祭祀の儀式のうちで も、祭天儀礼はもっとも重要であり、ランクも一番高い。日・月を祭るのは、いずれも第 二等の儀礼である。この後、日本の統治者は、「天子」としての中国の統治者からは区別す るという目的もあってか、『古事記』、『日本書紀』が成立する前後に、編纂した開国神話を 利用して、天皇を、太陽神を祖先神とする天孫として位置づけ、大嘗祭などの儀式を通じ て、神霊の附体を求めた。天皇はこうして、女性の太陽神の化身、すなわち「現人神」と なったのである。
中国の初代の皇帝はまちがいなく紀元前 221 年に秦帝国を成立させた始皇帝である。天 皇の登場はそれよりかなり遅く、7世紀の初めになってようやく現れる。事実としてはそう であるのだけれども、近代に至るまで、天皇はずっと「万世一系」であるとされており、
現代の日本でも人によってはこれを宣伝し深く信じている。中国の皇帝はといえば「易姓 革命」のために絶え間なく姓が変わる。皇帝の「易姓革命」は文字通りであって、貧乏人 も乞食も一旦玉座に座ればすなわち皇帝となることができる。天皇は代々受け継がれ、天 皇家の血統でない者は決して天皇になることはできない。しかしいわゆる天皇の「万世一 系」もまた信じるに足りない。『記紀』が作り出している天皇の系譜のうち、第 15 代天皇 応神天皇以前の記述は信用性が極めて低く、このことはすでに広く承認されている。それ 以後の天皇の系譜にも問題はある。例えば、第 48代天皇称徳女帝と第 49代天皇光仁天皇 はそれぞれ第34代天皇舒明天皇から派生した支系のうちそれぞれ五代と三代後の子孫とさ れているが、律令の規定によれば五親等から外れている。第50代桓武天皇については、2001 年12月23日、現在の天皇明仁が68歳の誕生日の際に、「桓武天皇の生母は百済武寧王の 子孫であり、『日本書紀』に記録されたことのことについて、私は韓国との縁を感じました」
と述べている。確かに、『日本書紀』の多くの似たような記述から、天皇が継承されてきた 過程で朝鮮半島との密接な関係を有したことは容易に推察しうる。(例えば、『日本書紀』
には舒明天皇が百済川のそばに「大宮を造る」よう命じ、「13年冬10月天皇は百済宮で崩 御した。宮の北側に遺体を仮に安置したのであり、これを百済大殯という」と記されてい る)。このためようやく韓国の複数の学者が「日王」(韓国では現在でもこう天皇を称す)
と朝鮮半島の起源上の関係を重視することを説くようになり、日本では水野祐の王朝交替 説(応神王朝は朝鮮半島から海を渡ってきた征服王朝であるとする)や江上波夫の騎馬民
族征服王朝説(崇神天皇は朝鮮から九州へ、その子孫である応神天皇は九州から畿内へと 発展したとする)が登場した。ただし、天皇の血統は皇帝に比べると遥かに長く続いてい ることも事実である。
中国の古代史にあっては、皇帝は最高統治者であって、「朕こそが天下」であり、その一 言に千金の重みを有した。実際には往々にして権力を他者に委ね、場合によっては権力が 周囲の手に移り、太上皇や外戚の専権が行われたり、宰相、宦官が「皇帝一人の下にあっ て万民の上に立ち」、天下を壟断するのを許すこととなった。権力と地位を争うために日本 古代史にあっては、天皇は神話世界の存在から現実の存在となり、いったんは日本の最高 統治者となった。その後最高権力は周囲の手に移り、院政や外戚による専権は、頻繁に見 られた。中世に至ると、国家の最高権力は、幕府の将軍の手にわたり、天皇は日本の封建 的政治構造のうち、宗教的・象徴的部分のみを担った。前期天皇は、国家権力の中心的部 分に位置していたため、国家権力をめぐる宮廷闘争も熾烈であった。中世以後は、天皇は 国家権力を喪失したので、宮廷闘争も相当に緩和された。ただし、幕末に至ると、天皇は 新たに現実政治における闘争の渦中に巻き込まれ、孝明天皇についての「毒殺説」が説か れることとなった。
北京の紫禁城と、京都御所とを比較するなら、両者がそれぞれに体現する政治文化の雰 囲気がまったく異なることが見て取れる。紫禁城は「豪華の美」にあふれているし、京都 御所はといえば「簡素の美」をうちに秘めている。「豪華の美」は東アジアの中心に位置す る巨大な皇権の統一への志向をあらわしているし、「簡素の美」はと言えば、東アジアの東 偏地域に独立していた皇権の備える進取の精神を体現している。しかし、外見的に表現を 異にするとはいっても、天皇であれ皇帝であれ、統治を維持するためのイデオロギーは同 じであり、儒教・仏教・道教を統治の手段として利用した。無論、時代によって重点に変 化はある。その中で、「道」というのは、中国の道教と日本の神道をいう。呼び方は異なる とはいえ、「道」という点では共通しており、掘り下げて検討してみなければならない。
天皇勢力が日本を統一した後、天皇を神格化できる宗教によってその統治を支える必要 があった。中国大陸における道教と仏教の闘争と、道教の発展は、日本に対して重要な影 響をもたらした。ただ、仏教は天皇を神格化することができず、崇仏派の蘇我氏勢力が打 撃を受けたために、革新勢力は、唐朝の皇帝が道教を利用して政権の基礎を固めた方法に 倣って、道教の教理・儀式と日本固有の宗教信仰と天皇家の伝説とを結びつけて、意図的 な改変を加えて天皇を神格化し尊崇する主旨の神道教を次第に形成した。「神道」の語は、
『易経』の中の「天の神道を観て、四時忒(たが)わず、聖人神道を以って教えを設けて、
天下服す」という句に由来している。史籍によれば、『易経』が早くに日本に伝来して、重 視を受けたほか、その他の道教経典も後に相次いで日本に伝来し、その中の多くの教理は、
天皇を神格化する日本の開国神話を作り上げる上で、重要な影響を与えた。
道教は中国伝統文化の基礎として、その内容ははなはだ多岐にわたっており、広義に解 するならば、以下の四つに大別できる。(1)哲学思想類:道家・玄学・陰陽説などを含む。
(2)科学技術類:方術・星象・医学など。(3)祭祀風俗類:儀式・神仙・節慶などを含 む。(4)教派制度類:道観(道教寺院)・道蔵(道教経典集成)・教派などを含む。藤原佐 世が朝廷の命を受けて編纂した『日本国見在書目録』(891年)の「道家」条の下には、『老 子』『荘子』『抱樸子』『広成子』『鶡冠子』『太霄琅書』など62部458巻が収録されており、
もし「兵家」(60部242巻)「天文家」(85部461巻)「暦数家」(54部167巻)「五行家」(156 部919巻)「医方家」(166部1309巻)中の道教類書籍をも数え入れれば、その総数は驚く べきものである。李唐王朝が道教を特別に尊崇したことを考えれば、遣唐使が切り開いた 日中交流の盛期に、道教が埒外に置かれるということはありえない。そのほか、『日本書紀』
欽明十四年(553年)条によれば、百済に使節を派遣して、医博士・易博士・暦博士などを 日本に派遣することを求め、翌年、百済は要請どおりに、易博士施徳王道良・暦博士固徳 王保孫・医博士奈率王有凌陀らを日本に派遣したという。この記事から、易学と易学者が 日本に入ったのが歴史的事実であることがわかる。遣隋使・遣唐使より前に日本に伝わっ た経書・典籍は、見当たらないからといって伝わらなかったとは言えず、おそらくは日本 に伝わった後に災禍にあったからであろう。或いは大化の改新の時には、無数の貴重な典 籍が蘇我蝦夷によって焼かれてしまったのか、それとも『古事記』『日本書紀』が成立して のち、日本の統治者が世論をコントロールするために始皇帝に倣って焚書を行ったのか、
判断するのは難しい。
道教が日本に東伝したのは、はやくは弥生時代にまで遡ることができる。卑弥呼がたず さわった「鬼道」とは、「鬼道によって民を教え、自らは師君と称した」(2)という張魯と 関係があると考えられている。実際、「容貌にすぐれ、兼ねて鬼道を行った。」(3)という張 魯の母の役割とはいっそうの類似が見受けられる。弥生時代の遺跡から出土している漢代 の神獣鏡は、道教の知識をすでに断片的に日本に伝えていた。古墳の副葬品の中で多く出 土する三角縁神獣鏡は、「東王父」と「西王母」のイメージが日本人に膾炙していたことを 物語る。
しかし、道教がイデオロギーとして日本人の間に受容され始めたのは、聖徳太子に端を 発してであり、7世紀中葉の斉明天皇に至って皇室に受容された。天智天皇を経てさらに天 武天皇に至って、日本の政治体制を構築する精神面での素材となったのである。
聖徳太子、593年から朝政を代行しており、『日本書紀』はその学問の源泉について、「兼 ねて未然を知り、内教は高麗僧恵慈に学び、外典は博士覚架に学び、すべてに通暁した」(「兼 知未然、習内教于高麗僧恵慈、学外典于博士覚架、并悉達」)と記している。ここでいう内