中国と倭との往来には「空白の 6 世紀」が存在するが、6 世紀中期以後は、東アジアの各 地域の政治は大きく発展した。朝鮮半島南部の伽耶(任那)連盟は解体し、562 年には新 羅に大部分が併呑されている2。高句麗は大陸東北部から朝鮮半島北部に跨る大国となり、
北方の突厥および中原王朝とともに鼎立していた。589 年、隋朝(581~618 年)は長期に わたる中国の南北対立の局面を終わらせ、統一を実現した。ほどなく、倭国内部でも貴族 の政治的衝突が一段落し、593 年に推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政した。
倭国の聖徳太子は対内的には王権の強化、官吏による行政事務の整備をすすめ、礼制を 重視し実行に努め、仏教を尊ぶといった改革を実施し、対外的には積極的な外交を行い、
中国と対等な地域大国の地位を獲得しようとした。『隋書』倭国伝には「新羅、百済皆以倭 為大国、多珍物、並敬仰之、恒通使往来(新羅と百済はいずれも倭を大国とみなし、珍し い産物が多いとして、尊敬している。常々使者の往来がある)」とある。前述のように、倭 の五王の時期、倭王は望んで中国王朝の臣下であることを自任し、積極的に中国の冊封を 求めていた。しかし、隋朝が中国を統一したにもかかわらず、倭王はさらに冊封を求める ことも受けることもしなかった。そればかりでなく、国際的地位と文明程度の向上に伴っ て、対中関係の上でもますます主体意識を強め、中国と同等の地位を得ようとする態度を 露わにしていった。第二回遣隋使の国書では「日出処天子致書日没処天子(日が昇る場所 の天子から日が没する場所の天子に書を差し出す)」と記し、第三回遣隋使の国書では「東 天皇敬白西皇帝
(
東の天皇が西の皇帝におうかがいする)」と記したことにこうした態度が1 沈仁安「倭五王遣使除授考」、189-90 頁。同氏「四、五世紀日朝関係の若干問題」および「早期日朝関 係初探」(ともに前掲書『日本史研究序説』)192-217 頁。
2 朝鮮科学院歴史研究所著、延辺州翻訳組訳『朝鮮通史』上巻(第一分冊)第三章第二節「百済と新羅国 の成立および六伽倻」(吉林人民出版社、1975 年)106-9 頁。[韓]千寛宇『伽耶史研究』第 1 篇「復元加 耶史」IV「百済、新羅による加耶争奪と加耶の滅亡」(ソウル一潮閣、1997 年)37-54 頁。
明らかに表れている。唐代初期に至るまで、中国に遣わされる倭の使者のこうした政治姿 勢はまったく変化しなかった。
倭のこうした態度を、中国の皇帝は決して容認しなかった。『隋書』倭国伝には「其国書 曰:‘日出処天子致書日没処天子無恙’云云。(隋煬)帝覧之不悦、谓鴻臚卿曰:‘蛮夷書 有無礼者、勿復以聞。’明年,上遣文林郎裴(世)清使於倭国(その国書には「日が昇る 場所の天子から日が没する場所の天子に書を差し出す。つつがないでしょうか」などとあ った。隋の煬帝はこれを不快に思い鴻臚卿に「蛮夷の国の書に無礼なものがあれば、二度 と知らせるな」と言った。翌年、文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した)」とある。
これは隋の煬帝が倭王の国書を受け取っておらず、裴世清が倭に赴いたのも対等な国交の 答礼使としてではなく、単に遠くから使者を派遣し朝貢にやってきた蛮夷の国に対して褒 賞の意を表し勅諭を伝えるためだったに過ぎないと一般的に考えられている1。
その後、中国では隋、唐王朝の交替が起こった。舒明 2(630)年秋 8 月、倭国は大仁犬 上君三田耜(一説には犬上御田鍬とされる)や大仁薬師恵日らを中心とする第一回遣唐使 を任命して中国に遣わした。翌年、「使者入朝、帝矜其遠、詔有司毋拘歳貢2。遣新州刺史 高仁表3往諭,与王争礼不平,不肯宣天子命而還(使者が朝貢すると、皇帝は使者が遠路や ってくることを矜み、有司に詔して歳貢にこだわらなくてもよいとした。新州刺史の高仁 表を派遣し諭そうとしたが倭王と争礼が生じたため、天子の命を宣べることなく帰朝し た)4」。研究によれば、いわゆる‘争礼’とは、「天皇下御座、面北接受唐使国書(天皇、
御座を下り、北面して唐使の国書を受く)」という礼儀上の争いであった可能性が高い5。
「不平」とは礼儀問題が解決していないことを表し、これによって唐の使者は「不肯宣天 子命而還(皇帝の勅諭を伝えることなく帰り)」、中国と倭の国交は断絶することになった。
後に大化の改新が起こり(645)、また朝鮮半島における新羅の斡旋もあり6、倭国は 20 年の国交断絶の後、653 年に第二回遣唐使を派遣する。随行人員の構成から見ると、第二
1倭国の第三回遣隋使のいわゆる「東天皇敬白西皇帝」国書は後の『日本書紀』の編者による偽造だとする 研究者さえいる。徐先堯『二王尺牘と日本書紀所載国書の研究――隋唐期中日関係史之一章』第三-五章
(台北:芸軒図書出版社、2003 年)143 頁以下を参照のこと。
2 「歳貢」とは本来国内の地方と中央の関係制度であるが、ここでは一種の比喩でしかなく、実際には『漢 書』地理志の記述に倭人諸国が「歳時来献見(定期的に来朝して見えると云う)」とあるように、中国人 が倭人の活動規律に対して抱いていた認識と予想を表したものにすぎず、また拘束力のある制度でもない。
言い換えると、唐太宗の意図は倭人が遠路はるばるやってきたことから、便宜を図ってやりその都度応接 するというものだった。
3 『旧唐書』東夷伝倭国条には「高表仁」に作る。
4 『新唐書』東夷伝日本条。
5 沈仁安「唐日関係の若干の問題」(前掲『日本史研究序説』)231 頁。
6 『旧唐書』東夷伝倭国条に「至(貞観)二十二年(648)、又附新羅奉表、以通起居。(貞観 22(648)年 になると、また新羅の使者に附して上表を奉じ、通交を行った)」とある。日本の歴史書によれば、第二 回遣唐使は 653 年に出発しているが、貞観 22 年は 648 年であり、それは新羅が斡旋仲介したと考えるこ としかできない。
回遣唐使は多くの学問僧と留学生を含んでおり1、これは「大化新政権が構想する国家建設 のために唐の仏教、制度などを学ぶという文化の導入の任務を帯びていた」と一般に考え られ、史書の記載に「奉対唐国天子、多得文書、宝物(唐の皇帝を奉じ、多くの文書や宝 物を得た)」とあるのもこの時の遣使が文化的色彩を帯びていたことを感じさせる。しか し、この時の倭国内部での唐朝中国に対する認識には依然として大きな隔たりがあった。
例えば、これより 2 年前の 651 年、新羅の使者が日本へ赴いた際に「著唐国服、泊于筑紫。
(倭)朝廷悪恣移俗、訶責追還(唐の衣服を着て筑紫に停泊した。倭の朝廷は勝手に服装 を改めたことを悪み、とがめて追い返した)2」ということがあり、こうした傲慢な態度は かつて遣隋使が携えていった国書に「日出処天子」と称していたことに一致する。この時 期の倭国では高向漢人玄理ら帰国留学生が積極的に活動していたとはいえ、自国を尊崇す る王権側の保守的勢力が依然として強い影響力を保っていたことがうかがえる。
第二回遣唐使を派遣した翌年の 654 年、前回の使者がまだ帰国しないままに、倭国は慌 ただしく第三回遣唐使を派遣する。この時の使節と随員の官位はその他の時期の使者より も明らかに高位であり、留学生や学問僧も伴っておらず、派遣も急であった。明らかにあ る種の政治的使命のためであった。この遣唐使が長安に到着すると、唐朝の役人が日本国 の地理等の情報を詳細に聞き取り、帰国の際には「高宗降書慰撫之、仍云:‘王国与新羅 近、新羅素為高麗、百済所侵、若有危急、王宜遣兵救之。’(高宗は書を与えて慰撫して云 った。「王の国は新羅に近く、新羅は常々高麗や百済に侵攻されている。もしも危急のこ とがあれば、王は兵を派遣して新羅を救うように」と)3」。こうしたことから、この時期 に倭が使者を中国に派遣したことは、当時の緊迫した東アジア地域の国際情勢と密接に関 連していることがうかがえる。
しかし、その後 659 年に派遣された第四回遣唐使では、当時の倭国が自負心を強めてい たことが再び露わになる。『日本書紀』斉明 5(659)年秋 7 月丙子朔戊寅の条に「遣小錦 下坂合部連石布、大仙下津守連吉祥、使於唐国。仍以道奥蝦夷男女二人、示唐天子(小錦 下坂合部連石布と大仙下津守連吉祥を使者として唐に派遣した。道奥の蝦夷の男女二人を 帯同し、唐の天子に見せた)」とある。倭国は唐と新羅が百済を滅ぼす(660 年)直前に唐 へ使者を派遣し、唐の皇帝に対して蝦夷国が「毎歳入貢本国之朝(毎年我が国に朝貢にや ってきます)」と述べ、依然として自分たちは中国と同様に夷狄を臣服させている大国で あると誇示しようとした。「これは中国から輸入された華夷観念という大国ショーヴィニ ズムにより、権威付けを図ろうとしたためだ)」と考える者もある4。だが、ここまでの両
1 『日本書紀』白雉 4(653)年夏 5 月条。
2 『日本書紀』白雉 2(651)年是歳条。
3 『唐会要』巻 99、倭国条。
4 [日]堀敏一『隋唐帝国と東アジア』(雲南人民出版社、2002 年)47 頁。