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15・16 世紀の東アジア国際秩序と日中関係

王新生

15、16 世紀はまさに中国大陸の明王朝の時代にあたり、明主導の朝貢体制が当時の東ア ジア地域の国際秩序を形成し、日本もその体制内に入っていった。しかし結局、各自の利 害、内部事情、「倭寇の侵攻」、地域貿易などの問題により、二国間には摩擦が絶えず、戦 争状態にあるところさえあった。「勘合貿易」を継続できなかったうえ、最終的には 300 年 に及ぶ国交断絶にまで至ったのである。

一、明代の朝貢体制

近代以前のそれぞれの時期、東アジア地域の国際秩序は程度の違いはあったが中国大陸 の王朝を中心に形成された朝貢体制にあり、「冊封体制」、「朝貢制度」、「朝貢貿易体制」、「天 朝礼治秩序」、「華夷秩序」など1とも称されたが、ここから賞封(賞賜)、朝貢、貿易、礼儀、

秩序なども内包されていたことが分かる。文字から意味を解釈すると、「朝」は天子に謁見 すること、「貢」は物品を献上すること、「賞」は物品を回賜すること、「封」は称号を授与 すること、「貿易」は朝貢国が朝貢の過程で交易を行なうこと意味する。具体的には、大陸 の王朝政権の周辺諸国の国王が使節を派遣し、中国大陸の王朝の皇帝に謁見し、朝貢品を 献上し、その返礼として、皇帝が使節とその国家の国王・王后・大臣に礼品を与え、一部 の国の国王などを冊封した。賞賜する礼品の価値は朝貢品をはるかに上回り、朝貢の過程 で貿易を行うこともできたため、朝貢を一種の有利な貿易活動とみなしていた朝貢国もか なりあった。

特に説明が必要なのは、高度に発展した農業文明国家として、中国大陸の王朝は守勢型 の外交政策を比較的多く採用し、「羈縻」という手段を通して地域内の平和を維持したこと である。このためこれを中心に構成された朝貢体制は以下の特徴を有していた。中国大陸 の王朝が多く政治的権威を強調するのに対し、朝貢国は経済的利益を重視するという非対 等性。中国大陸の王朝の朝貢国に対する「来る者は拒まず、去る者は追わず」とした寛容 性。中国大陸の王朝と朝貢国が同心円的な関係で徐々に弱まって行く拡張性などである。

そのほかに、周辺の諸国や民族の統治者は、自らの統治者としての地位を固めたり、自ら

1西嶋定生『西嶋定生 東アジア史論集 第 3 巻 東アジア世界と冊封体制』、岩波書店、2002 年;李雲泉

『朝貢制度史論——中国古代対外関係体制研究』、新華出版社、2004 年;浜下武志『朝貢体制と近代アジ ア』、岩波書店、1997 年;黄枝連『天朝礼治秩序研究』(上、中、下)、中国人民大学出版社、1992、1994、

1995 年;何芳川「“華夷秩序”論」『北京大学学報(哲学社会科学版)』1998 年第 6 期。

の勢力を拡大したりするために、中国大陸の王朝の権威を借りることがよくあったが、中 国大陸の政権も朝貢体制による自身の権威増大を必要としていた。特に漢の武帝以来、「四 夷は服従し、万国は来朝する」ことが、王朝が強大か否かをはかる基準となった。明代朝 貢体制は比較的盛んな時期を迎えたが、これには伝統的要素だけではなく、次に述べるい くつかの現実的要因もあったのである。

第一には、明の建国者の朱元璋は中国史上唯一の貧農出身の皇帝であり、「万国が来朝す る」ことでよりいっそう自らの権威増大を望んだ。三代皇帝の明成祖は甥から帝位を簒奪 したために、「朝貢」で政権の合法性を示す必要性がさらに増大した。第二に、北方の元朝 残存勢力及び沿海地域の海賊・倭寇を防ぎ平定するために、周辺地域の安定を必要とした。

そのため和平外交を積極的に進め、日本を含む十五の「不征の国」を指定するに至った。

第三に、宋・元時代のわりあいと活発な海外自由貿易と比較すると、明朝は厳格な「海禁」

政策を取ったため、中国大陸と貿易を望む周辺諸国は「朝貢」を通じてしか目的を果たす ことができなくなった。第四に、明前期の強大な国家権力と経済力によって「厚往薄来(回 賜品は多く、朝貢品は少ない)」という政治的外交が可能になった。

洪武元年(1368 年)正月、明朝が建国されたが、国内はまだ完全に統一されていなかっ た。明太祖朱元璋は同年十二月、安南・高麗へ使臣を遣わし新王朝成立を知らせるととも に、両国が使節を明に派遣して称臣し朝貢するように促した。安南国王の陳日煃と高麗国 王の王顓は、前後して洪武二年(1369 年)六月と八月に使節を派遣し、表文を封じて賀し、

特産物を朝貢して、あわせて封爵を求めた。明朝は翰林侍読学士の張以寧、典簿の牛諒を 使節として安南へ遣わし、陳日煃を冊封して安南国王とし、同時に符宝郎の偰斯に詔書・

金印・誥文を携えさせて高麗へ遣わし、王顓を冊封して国王にした1

洪武二年正月・二月、朱元璋は続けて二回使節を日本・占城・爪哇・西洋諸国へ遣わし、

元から明への王朝交代と新皇帝の即位を海外諸国へ告知するとともに、『大統暦』及び各種 の絹織物を持って行き、諸国王へ賞賜した。そして、諸国王に対して明朝の「正朔」を奉 じ、明朝に遣使して称臣し朝貢するよう促した。朱元璋が統治した 1368 年から 1398 年の 間、合計 24 ヶ国が朝貢した2

そのほか、「海疆不靖(沿岸地域の治安悪化)」を理由に、朱元璋はさらに「海禁」政策 を取った。「海疆不靖」は主に二つのことを表している。一つは他の反元勢力の残党がまだ 存在し、明政権に対して脅威となっていたことがある。元朝末期の農民蜂起では、張士城・

方国珍など群雄が割拠して朱元璋に対抗していた。彼らは次々と朱元璋に敗れたとはいえ、

その残党は海へ逃亡し、「しばしば島人と結託して山東の沿海州県を荒らした」。そのため、

1 万明『中国融入世界的歩履——明与清前期海外政策比較研究』、社会科学文献出版社 2000 年 3 月,63 頁。

2 李雲泉『朝貢制度史論——中国古代対外関係体制研究』、新華出版社、2004 年 9 月、62—63 頁。

「沿海民が密かに海に出るのを禁止したのは、時に方国珍の残党が海上で略奪行為を行っ たためである」1としている。

「海疆不靖」のもう一つの側面は日本の海賊である倭寇の侵攻である。14 世紀初、鎌倉 幕府末期に日本社会は混乱し、1338 年に室町幕府が成立した後も日本列島は南北朝の動乱 期にあった。そのため、西日本の一部の武士・商人・農民・漁民などが経済的欲望を満足 させるため、朝鮮半島・中国大陸の沿海部で武装し略奪行為を働いていた。これを歴史上

「前期倭寇」と言う。また、朝鮮半島・中国大陸も当時まさに元末明初の混乱期にあり、

海防が緩み海賊が跋扈するにまかせてしまった。いくつかの地方勢力もそれに加わり、例 えば「張士誠・方国珍の残党が倭寇を率いて海上に出没し、居民を焼き払い、貨財を略奪 した。これは北は遼海・山東より、南は福建・浙江・広東まで及び、沿海地域でこの被害 を受けない年はなかった2」。

洪武四年(1371年)十二月、明太祖は「さらに沿海民が勝手に海に出るのを禁止ずる」3 詔を出した。これは明代最初の「海禁」の記録である。これと同時に、福建興化衛指揮李 興などが密かに人を遣わして密貿易を行ったことに明太祖は激怒し、「朕は、海道は外国に 通じているため、嘗て往来を禁じた。……禁令を出さなければ、人は皆利に惑わされ刑に 触れる行いをする」4とした。このことから「海禁」は海賊対策のほかに、民間の海上貿易 禁止の目的もあったことが分かる。そのほかに朝貢国の貢期・貢納品の制限を設けると同 時に、国家によらない海外商人による貿易も禁止した。洪武五年(1371 年)、明太祖は高麗 の貢期と貢納品に対して規定を作り、洪武七年(1374 年)には対外貿易を主管していた寧 波、泉州、広州などの地の市舶司を廃止した。また「四夷(異民族)が中国へ入貢する際 には必ず表文を奉ずる」措置を大いに強化し、表文を奉じない国家によらない朝貢貿易を 締め出した。

洪武十四年(1381 年)十月、明太祖は「沿海民の海外諸国への私出禁止」5命令を再度発 し、洪武十六年(1383 年)には勘合制度を実施、朝貢のため来訪する国へ憑拠を発給した。

洪武二十三年(1390 年)には「外蕃(外国)との交通を禁ずることを申厳」し、洪武二十 七年(1394 年)には「民間人の蕃香・蕃貨の使用禁止」命令を出した。同時に明太祖は口 実を設けて「海外の諸夷(異民族)は不正行為が多いため、往来をやめる。琉球・真臘・

暹羅だけは入貢を許す」6との措置を行った。明太祖逝去の前年、すなわち洪武三十年(1397

1 晁中辰『明代における海禁と海外贸易』、人民出版社、2005 年 4 月、35 頁。

2 谷泰応『明史記事本末』巻五十五、上海古籍出版社、1994 年 4 月版、217 頁。

3 『明太祖実録』巻七十、洪武四年十二月丙戌。

4 『明太祖実録』巻七〇、洪武四年十二月乙未。

5 『明太祖実録』巻一三九、洪武十四年十月已巳。

6 『明太祖実録』巻二三一、洪武二十七年正月甲寅。