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王 勇

第三節 唐人の渡航の背景及び動機

隋唐時代の日中交流の非対称性は、一つの一貫した顕著な特徴であり、「人」と「物」の 移動という面に現れている。

まず「物」を例にとれば、日本から中国に伝わったものの多くは粗雑な加工品や生活消耗 品で、量も少なく、そこに含まれる文化的価値や芸術的価値は低かった。逆に唐王朝から日 本に輸出したものの多くは技術の粋を凝らした傑作や、きめ細かな芸術品で、量も多いだけ でなく、そこに含まれる文化的価値も高かった。

また「人」を例にとれば、日本の遣隋使や遣唐使は朝鮮半島や西域諸国と比べても特に目 立つことはないのだが、言うまでもなく唐人の日本渡航と比べると人数のみならず頻度も常 に遥かに多かった。遣隋使や遣唐使が中国に来たのは国策によるものであり、強い主体的な 能動性を持って行われ、先進的な文化を摂取するという重大な使命を担っていた。しかし唐 王朝の使節が日本に渡航したのは概ね受動的なもので、多くは儀礼的な訪問に属し、一般に 文化を吸収するという使命は担っていなかった。日本の使節に随行して渡航する者は、多く は個人的な動機を抱いていたのであり、鑑真の渡航は例外に属する。

しかし唐人の日本渡航の人数が多くなかったとはいえ、特殊な歴史的意義や社会的影響が あったのは客観的な事実である。唐と日本の遣唐使とは相互に密接な関わりがあり、隋唐時 代の日中交流においては無視できない重要な側面と言える。

1.頻発した航海事故

天宝十二年(753)、藤原清河が大使となった第十二次遣唐使が都入りし、玄宗皇帝に蕭穎

『新唐書・崔祐甫伝』に「時に李正己は徳宗の権威と徳を畏れ、銭三十万貫を献上する。徳宗は上奏を 受けたいと思ったが、正己を信用できないため、これを留めているだけで、受け入れもしなかった。迷い ながら宰相に問うた。祐甫はそれに答えて『正己はなんとずる賢いことか。まさしく聖慮のごときもの。

上様は、淄青へ使節を遣わして将校と兵士を慰問し、正己が献上した銭を軍人に錫賚するとよろしいでし ょう。そうすれば彼等も上様の徳に感謝と尊敬の念を抱き、諸蕃へも朝廷が財貨を貪っていないことを知 らしめることができます』と言った。皇帝はこれを喜びその通りにしたところ、正己は大いに恥じて、徳 宗に心服した」という。このくだりを証拠とする。

士を国師として招聘したいとの要求を申し出た。蕭穎士の文章は当代第一で、「外国の夷狄 でも穎士の名をを知っている。(中略)その名はこのように中華の人をも夷狄の人をも感動 させる」と言われるほど、名が遠近に知れわたった学者であった。

蕭穎士の招聘要請に関しては新羅によるものか倭国によるものか、中国および日本の学界 でもいまだ議論がなされている。唐に訪れて招聘を要請したのがどこの国であろうと、結 局のところ蕭穎士は要請に応じて行くことはなかった。その間の原因について述べれば、『新 唐書』蕭穎士伝は「中書舎人の張漸らが聞き入れないよう諫めたので取り止めた」と理由を 説明している。ただし『全唐文』巻三百九十五に引かれる劉太真の「蕭穎士の東府に赴くを 送るの序」によれば、蕭穎士は「病によって従わなかった」とする。

近頃、東の倭国の人が海を越えて客としてやって来て、国を挙げて蕭穎士に師となって くれるよう願った。私的に要請することはせず、天子に文章を捧げて願い出た。蕭穎士 は病気として辞退しその命令に従わなかった。

蕭穎士が病に託けて辞退したのには様々な原因があったろうが、渡航を恐れていたとい うのがきっとその原因の一つであろう。このように尻込みする気持ちは蕭穎士の個人的な ものではなく、唐代の士大夫には普遍的にあった現象のようである。他にも玄宗時代の赫々 たる名士であった李邕は、開元年間に海州の刺史に任ぜられ、ちょうど貢物を満載した遣 唐使の船が領域内に漂着したのに遭遇した。そこでその財宝を貪り「珍貨数百万」を奪い もう一度船を雇って使者を帰国させようと企んだ。出発前になって、彼は船員に対して自 ら心構えをこう説いた。「日本への道は遠く海には風と波があり、どうして無事に戻って来 られようか。前途はそなたらに任せるので臨機応変に対応せよ」と。ここからは唐人が、

日本への道は遥か遠く大海原には無情にも冷たくされ行ったらほとんど帰る者はいない、

と考えていたことが窺える。

唐朝の国力が最盛期にかかると、周辺の国家を引きつける力はとても大きくなった。『新 唐書』と『旧唐書』の記載を総合すると、唐に来て朝貢する国家は 50 余りあり、外国の 使節は途絶えることなく、唐人も頻繁に国外へと出かけて行った。使者が一旦君命を受け れば航海がいかに困難で危険なものであろうとも、蕭穎士のように病に託けて断ることな どできないし、李邕の思っていた通りで中途で帰ることなどできないのである。唐朝から 日本に赴いた使者は強力な推進力に動かされて国の門を出たのであり、その意識は遣唐使 と同日に語ることはできない。

『旧唐書・蕭穎士伝』

池田温『東アジアの文化交流史』(吉川弘文館、2002 年)、東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992 年)、王勇『聖徳太子時空超越』(大修館書店、1994 年)の関連する章を参照。

『太平広記』巻二百四十三「李邕」の条。

『唐六典』や『唐会要』などによれば、唐王朝と使節を交換して交流のあった国家は多い時は 70 余りに 達する。

前に述べたように、舒明天皇が派遣した第一次遣唐使は貞観五年(631)に長安に到着し た。唐の太宗は「その道のりが遠いことを気の毒に思い、担当の長官に歳貢させるなと詔 勅を下し」て、翌年新州刺史の高表仁に節を持たせて日本に派遣し慰問させた。高表仁は 道中難儀であり海中を漂うこと数ヶ月でようやく到着したが、国に帰ってからは思い出す 度に顔色を変えて怖がるほどであった。

地獄の門を通ったと言い、上を見上げて顔色が青白くなり、のろしを上げるかのよう にして金属を鍛える時のような奇声を発する。使者はこれを聞いて危惧しないものは ない

歴代の史書には高表仁に対する批判が多い。「外交官としての才能がない」とか「(日本の)

王子と礼を争い、朝廷の命令を伝えずに帰ってしまった」とか非難される。実際、高表仁は 茫漠とした大海原の中で船に揺られて漂流すること数ヶ月、ついには「地獄の門を通る」な どの恐るべき幻覚が生じるようになった。心身ともに疲労の極に達していたことが想像でき、

正常な人、通常の精神から考えて彼を責めることはできないのである。最後の一句の「使者 はこれを聞いて危惧しないものはない」というのは、さらに多くの後の唐人を尻込みさせた。

高表仁は九死に一生を得たのでまだ幸運であったが、約 150 年後に、宦官の趙宝英が命令を 受けて日本に赴き、その命運はとても悲惨なものとなった。

大暦十三年(778)正月、第十三次遣唐使が揚州から北上して長安に至り、小野石根一行 85 人が手厚くもてなされ、三月には代宗皇帝に謁見して、四月に南下して帰国の途に就く ための準備をした。この時、代宗が勅旨を下し、趙宝英に「答礼の品物」を持たせて日本国 へと遣わした。趙宝英は内侍省掖庭令の地位にあったので、彼を使者として派遣したのは唐 王朝が日本をどれほど重視していたかを示している。しかし小野石根は却って心配して代宗 に進言した。「本国までの道は遥か遠く、風の流れも定まらない。今、中使が行くと申すが、

波濤を冒して渡り万一問題が起これば、王命に背くことになるのを恐れる」と。小野石根 の予言は不幸にして当たった。船が外洋に出て暴風にぶつかり、一艘の大きな船が二つに割 れ、小野石根ら遣唐使 38 人と趙宝英らの唐の使者 25 人は、僅かの間にその身を海底に沈め ることとなった。

『旧唐書・倭国伝』

『冊府元亀』巻六百六十二。これはわざと相手を驚かせようとした言葉ではない。空海の『性霊集』に 記載する遣唐大使の藤原葛野麻呂が福州観察使に宛てた書簡に「幸いにも命を受けて、一身を顧みること なく死を冒して唐に行った。既に本国の地の果てを去り、いよいよ道半ばまで来ている。激しい雨は帆を 穿ち、切り刻むような風は柁を折る。小さな船が長く跡を引き(中略)波のままに浮いたり沈んだりし、

風に任せて南に行ったり北に行ったりする」とあり、わずか数語のうちに航海に出ることの難儀を吐露し ている。宋の龐元英の『文昌雑録』ではこの文を読んだ後に感嘆して、「世間には地獄について言う者が多 いが、これは本当のことで妄言ではないであろう」と言い、ついにこれは本当だと信じたのである。

『続日本紀』巻三十五、宝亀九年(778)の条。