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王 勇

第三部 第一章

中国人と日本人の相互認識

王暁秋

日中の相互認識は、中日関係史を研究する上で非常に重要な課題である。ある意味では、

日中関係史は、両国間の相互認識の歴史であると言える。なぜなら、相互の往来、交流が なければ、互いの理解や認識は生まれないからだ。そして相互認識が、仲の良し悪し、好 き嫌い、平和と争いなど両国間の相互関係を決定する。さまざまな形式の相互関係を通し、

相互認識を更に深めることで、互いの認識に変化が生じ、それがまた日中関係の発展や変 化を推進していく。

日中の相互認識は動態的、発展的であり、歴史的に異なる時間、空間、環境の変化に伴 い、その認識も変化する。相互認識は主として次の三要素から影響を受ける。第一に、中 日両国の国内政治、経済、軍事、文化、思想、概念などの変化がもたらす影響である。第 二に、日中両国間の外交関係、文化交流、経済貿易、人的往来、双方の国力の対比、政策 の相互作用などの変化がもたらす影響。そして第三に、国際関係、国際環境、特に東アジ ア地区の戦略的局面、東アジア各国の多国間関係などの変化がもたらす影響である。その ため、日中の相互認識は静止的、固定的なものであり得ず、絶えず変化を続け、徐々に深 化するものである。また裏返して見れば、日中の相互認識は両国の歴史、両国関係の発展 や変化に重大で深刻な影響を与えることも認識すべきだ。他者への認識は、往々にして自 己を認識する上での鏡でもある。日中の相互認識は、日中両国史の発展を推進する中で重 要な役割を果たしてきた。

また、日中の相互認識は多元的、多層的である。両国内の様々な身分、地位、利益の階 層、集団、個人は、異なる認識を有しているだろう。君主、貴族、官吏、諸侯、武士、文 人、商人、庶民など、ややもすればそれぞれが異なる認識を有しており、その表現方法や 表現手段も異なる。

歴史を鑑として未来に向かう。我々は真剣に、深く掘り下げ、具体的に研究しなくては ならない。二千年の日中関係史において、両国はどのように互いを認識してきたのか?そ うした認識はどのように生じ、どのように表現されてきたのか?そして両国関係や両国史 の発展にどのような影響を与えたのか?また、こうした相互認識は時代によりどのような 変化を遂げたのか?相互認識を促進、あるいは阻害してきたのはどのような要素なのか?

その中からどのような歴史的経験の教訓を汲み取ることができるのか?我々はどのように

してさらに全面的、客観的、科学的に相手を認識することができるのか?そして、相互認 識、相互理解を深め、さらに健全で安定し、友好的で協力的な日中関係を築くには、どう すれば良いのだろうか。

今日まで、日中の相互認識に関する研究は、近現代や個別の研究に集中しがちであった。

そこで本文では前近代の中国人の日本認識を出来るだけ全面的に述べてみたい。

一 前近代における中国人の日本認識の概況と特徴

本文で述べる前近代の中国人の日本認識は、主に秦漢時代から清朝中期の中国人の日本 認識、あるいは前近代の中国人の日本観と言っても良い。

1.特徴

前近代の中国人の日本認識には、簡潔にまとめると、以下のような特徴がある。

(1)前近代の中国が世界で最も早く日本を認識し、その歴史を記録した国家であり、

また二千余年にわたり日本に関する記録を絶やしたことがない。最も古くは紀元前一世紀 に成立した『山海経』に始めて登場した「倭」に関する文献の記載である1。西暦一世紀に 著された『漢書』地理志には、中国史籍の日本に対する最初の明確な記載がされている。

そして西暦三世紀に著された『三国志』魏書倭人伝は、世界で最も古い日本の国情に関す る具体的な認識である。漢代から清代の中国前近代の正史(俗称二十四史)の中で十六部 の正史に日本の倭国伝あるいは日本伝を特別に記載してある。また歴代の各種野史、私的 著作物、筆記記録、詩文にも日本に関する記載が多くある。

(2)前近代の中国人の日本認識は比較的緩慢に進展した。それは徐々に深まりを見せ たものの、実際の考察に欠け、華夷思想の影響なども受けていたために、しばしば旧説を 踏襲した信憑性の低いものに終わっていた。明代になると、防倭抗倭の必要から、日本に 関する認識は進展し、深まりを見せた。そして清代前期に入ると中日ともに鎖国したこと から、日本に対する認識は停滞し、後退した。

(3)前近代の中国人の日本認識は、概ね友好的、肯定的であった。理想や神秘的イメ ージも込められ、日本を『神仙之島』、『君子之国』、『珠宝之国(宝物の国)』などと表現す るものもあった。特に中国を訪れた日本の文人、僧侶に贈った詩文の中に多く見られる。

元、明代には、倭寇が中国沿海で襲撃、破壊活動を行ったことで、倭寇の残忍さ、狡猾さ

1 『山海経』の「海内北経」には「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」と書かれている。こ れは中国前近代の文献中で初めて登場した「倭」という文字の記載であり、その方向が中国大陸の東方で あったことを指す。その後「倭」は次第に中国人の古代日本に対する呼び方に特定されるようになった。

学者の考証によれば、「倭」と「委」の意味はほぼ同じで元来は従順の意味を持ち、また人という部首であ り、当初は悪い意味はなかった。参照:沈仁安『日本起源考』26-28頁、崑崙出版社、2004

と言った否定的イメージが出現した。

(4)前近代の中国人の日本認識は、多元的であった。統治階級の見解を表現し、世論 の主流を主導していたのは、歴代の官撰正史の日本伝であった。しかし唐、宋、元、明、

清代の大勢の中日の文人や僧侶が互いに贈り合った詩文や、明、清代の日本に関する民間 の私的著作物を軽視することはできない。日本に渡った商人、文人、そして漂流船民の見 聞録にも中国一般大衆の日本観が反映されている。

2.歴史段階

歴史発展の軌跡に沿って見ると、前近代における中国人の日本認識の変遷は、おおよそ 以下の数段階に分けることができる。

秦、漢期(紀元前三世紀~西暦三世紀)。この時期の中国人の日本認識は、まだ曖昧な段 階であった。東海に倭国があるということが漠然と分かっているだけで、その記載も神話 伝説的な色彩を帯びているものが多い。

魏、晋、南北朝期(西暦三世紀~六世紀)。前近代の中国人が日本と初期の交流を持ち認 識するようになった段階である。中日間では主に政治面で朝貢と冊封としての往来が見ら れ、邪馬台国や倭の五王に関するなど、日本の上古の歴史について最も古い記録が残され た。

隋・唐期(西暦六世紀~九世紀)。古代中日文化交流が旺盛な時期であり、日本認識に進 歩があった時期でもある。官撰正史における呼称も倭国から日本に変わっている。唐代の 詩人は日本の友人に大量の送別詩歌を寄せており、中国と日本の人々の間の真摯な感情が 表現され、日本からの使節、留学生、留学僧に対する良好なイメージが作られた。

五代・宋・元期(西暦十世紀~十四世紀)。前近代において両国の民間貿易が最も栄え、

文人、僧侶の交流が頻繁だった時期である。中国人は中国にやって来た日本人に聞いたこ とから日本を理解し初め、両国の文人、僧侶は詩歌を唱和して友情を表現し合った。日本 から中国に伝えられた日本刀、扇などといった品により、また中国人の日本に対する好感 が増した。しかし元寇や前期倭寇が雰囲気を悪化させた。宋、元の正史における日本伝の 扱いは、四夷伝から外国伝、そして外夷伝へと変わって行った。

明、清期(西暦十四世紀~十九世紀中期)。この時期、中国人の日本認識には一定の進展 が見られた。明代は倭寇による被害が大きく、凶暴で野蛮なマイナスのイメージが生まれ た一方で、同時に日本を理解したいという要求も強まった。明、清代には日本研究に関す る私的著作物も現れ、日本に対する認識は一層深まった。文人、僧侶同士の詩文の唱和の 他に、商人や漂流民による日本旅行記や筆談記録が現れた。

3.ルートとチャンネル

中日の相互認識のルート、チャンネル、方式から見ると、中日双方の使節団、文人、学

者、日本からの留学生や留学僧、そして中国から日本へ赴き交易した中国の移民商人、船 民、文人や漂流民などの往来がある。認識のチャンネルには外交としての遣使、文化交流、

商業貿易、宗教活動、戦争対立、漂流救助などさまざまなルートがある。

4.形式

またその表現方法、すなわち文字による記録の形式を見れば、歴代の官撰正史、私的著 作物、各種随筆、日記、旅行記、そして詩、詞、曲、賦、劇、小説など各種文学作品の他、

漂流記や筆談記録などがある。

二 中国の前近代の紀伝体正史における日本の記載

中国前近代では歴代、官撰正史を編纂する伝統があり、王朝が交替すると、新王朝が前 王朝の正史を編纂した。これら紀伝体の正史は、私人によって編纂され王朝に認められた 少数のものを除くと、多くは王朝の意を受け、あるいは政府が特別に施設や官職を設けて 大掛かりで編纂したものだ。それらは主に当時の統治者の立場や史観を現しており、往々 にして強烈な封建的正統思想と華夷意識が露になっていた。

1.『史記』と『漢書』

中国の前近代の最初の紀伝体正史は、紀元前一世紀前漢に司馬遷が著した『史記』であ る。倭や日本はまだ直接取り上げられていないが、同書の「秦始皇本紀」や「淮南衡山列 伝」には、始皇帝により、方士の徐福が多数の男女や百工(訳注:技術者)を引き連れ、

東シナ海の「三神山」に不老不死の薬を探しに遣わされたが、結果、徐福は行ったきり中 国には戻らず、「平原広沢」を探し当て、自ら王となったと書かれている。司馬遷は徐福が 日本に着いたと明確に書いてはいないが、後にこの演義から、徐福が日本に渡ったという 伝説が数多く生まれた。徐福は上古の日中文化交流であり、中国からの移民を通じて日本 に先進文明が伝播したことの象徴的人物となっている。同時に、上古の中国人の日本観に 神話伝説や神秘的仙島といったぼんやりとした色彩が少なからずあったことを反映してい る。

中国前近代の二番目の正史は、西暦一世紀に班固が著した『漢書』である。同書の「地 理志燕地条」に「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云(楽浪海中に倭人有り。

分かれて百余国をなし、定期的に朝貢に来る)」という記載がある。これは前近代の正史で 初めて登場した日本を表す「倭」という文字である。漢の武帝の時代、朝鮮の北部に楽浪 郡が置かれており、漢代の中国人はすでにここを窓口として日本を知っていた。『漢書』で は「倭人」とは中国東側の大海にある民族であり、当時は部落や小国が林立した状況で、