王 勇
第一節 大陸移民の東渡
大陸移民の東への移動の始まりについては、年代が古く史伝は詳らかではなく、今日とな ってはほとんど考察する手がかりがない。しかし日本列島の早期文明の幾度かの躍進は、ま さに外来移民が持ち込んだ進んだ金属器や生産道具、紡織技術などとの関係が密接である①。
たとえば、紀元前後の弥生文化の遺跡に出土した炭化した籾そして貨泉や漢鏡など、5 世 紀前後の古墳遺跡で発見された三角縁神獣鏡や銅鐸そして馬具などは、すべて日本列島に原 生した物ではなく、大陸と半島から伝わった「舶来品」か、もしくは外来文明の刺激のもと で変異してきたものである。
① 中国移民の東渡の歴史については、沈殿忠等著『中日交流史のなかの華僑』(遼寧人民出版社、1991 年)
に系統的な叙述がある。
それでは、だれがこのような「舶来品」を携えてきたのだろうか。外来文明の刺激はまた どこから来たのだろうか。この時期の錯綜した歴史を整理し、伝説と史実のもつれをはっき りさせよう。
1. 徐福と「秦王国」
徐福伝説については、虚実定かではなく、これまで日中両国の間にまたがる手に余るほど の「懸案」であり、同時に文学と歴史の双方から熱心に議論されてきた話題であった。もし 民間伝承の中で敷衍されて出来た虚構の部分を除き、徐福を秦漢移民群のひとつのシンボル とみなして考察を加えれば、その中から屈折して映し出されたいくつかの史実は依然として 関心を持つ価値がある。
古代中国人の世界認識の中で、倭人は東海島嶼に生息する民族であり、それゆえ「東夷」
と称した。許慎『説文解字』には「夷は東方の人、大に従い弓に従う」とある。段玉裁が『説 文解字注』の中で示すところによると、蛮・閩・狄・貉・羌などの民族はみな動物を偏や旁 にもって構成されるが、ただ「夷」だけが「人」を意味する「大」の字を含有し、それゆえ
「夷の俗は仁、仁の者は寿、君子不死の国あり」という結論を導き出している。
「君子不死の国」とは古代中国人が夢にまでみたユートピアであり、茫々とした東海の果 てが神話の舞台に様変わりし、人々に「扶桑」や「瀛洲」または「蓬莱」などと称され、移 民が戦乱を避け生きる道を求めるのに真っ先に選ばれた地であった①。また一般の民衆だけ ではなく、孔子でさえもそのようなことを考えていたようだ。『論語·公冶長第五』には以下 のようにある。「孔子曰わく、道行なわれずんば、桴に乗りて海に浮かばん。我に従わんも のは、それ由かな。子路これを聞きて喜ぶ」と。
孔子は「いかだに乗りて海に浮か」んで、どこへ行こうとしたのか。『論語・子罕第九』
には孔子が「九夷」に赴こうとし、この問題をめぐって以下のような一段の対話がある。「子、
九夷に居らんと欲す。或ひと曰わく、陋しきこと、これを如何。子曰わく、君子これに居ら ば、何の陋しきこと有らん」と。
孔子は九夷が「君子が住む」ところ、つまり隠居して身を寄せるためのひとつの理想的な 地であることを信じている。「九夷」の指す地区については、漢代の李巡が『爾雅』に注疏 をつけて、「夷には九種あり。一に玄菟、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に 索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙」と説明している。
『漢書・燕地』の中に「楽浪の海中に倭人あり、百余国に分かれ、歳時を以って来たり献 見すと云う」とあるのは、誰もが知る倭人の記事である。しかし論者は往々にしてこの記事
① 古代中国の日本観については、王勇著『中国史のなかの日本像』(農文協、2000 年 9 月)を参照された い。
の前提とする前置きを見逃している。つまり「倭」を孔子が「いかだに乗りて海に浮か」ん で行こうとした九夷の地であるとみなしているのである。
東夷の天性は柔順にして、三方の外と異なる。故に孔子は道行われざるを悼み、海にい かだを設けて、九夷に住まんと欲す。(中略)楽浪の海中に倭人あり、百余国に分かれ、
歳時以って来たり献見すという。
この例によると、遅くとも後漢までに、倭は九夷の一つであり、君子が住んでいるだけで はなく民の性質が柔順であると見なされている。『史記』や『海内十洲記』などに伝えられ る、徐福が東渡し仙薬を求めたことは、もしかするとこのような心理状態と世相を反映した ものなのかもしれない。
徐福は童男童女を携え海に出て帰らず、伝聞では「平原広沢」を得て住み、その王として 留まった地は、昔から祖洲・瀛洲・夷洲・澶洲・亶洲・紵嶼などの諸説があったが、それら の説が明確に日本と関連づけたのはだいたい隋唐時代から始まる。大業四年(608)、裴世清 が命を受け倭国に行き、自ら云うには、「その人は華夏と同じ」である「秦王国」を経由し、
これが伝聞の徐福が留まり住んで帰らなかった「夷洲」なのではないかと疑ったという①。 後世往々にしてこの「秦王国」を直接的に日本に比定した。たとえば五代の時の義楚は、徐 福の子孫が「蓬莱」(富士山麓)に集住し、故国の生活習俗を保持しているので、「今の人物 ひとしく長安の如し」と認定している②。さらにたとえば明代の薛俊などは、徐福が「少年 少女数千人」を引き連れて倭国にとどまり、自ら「秦王国」を号し、そのため中国人はそれ を総称して「徐倭」としたと言う③。
徐福伝説のひとつの巨大な変化は、元明以後に、「徐福日本東渡説」から敷衍して「徐福 倭人始祖説」が出たことである。元人の王惲『汎海小録』の叙述によると、元軍が日本に出 征し、「三神山」の一帯に到着し、「その俗は徐姓のもの多く、自ら言うには、みな君房の後 なり」とあり④、周致中『異域志』では「その国は秦の始皇帝の時に徐福が連れてきた少年 少女が創始した国である」と断言するばかりではなく、また「その時福が連れてきた人は、
諸々の工人、技芸を持つ者、医者、巫者、占い師など皆揃っていた」という。
徐福が東渡したというのは結局のところただの伝説で、しかしこのような伝説は秦漢の間 に大陸移民が日本に東進した史実を屈折して映し出しており、このような移民の中には技芸
① 『隋書・倭国伝』には「上は文林郎裴清を倭国に遣わせた。百済にわたり、竹島に至り、南に耽羅国を 望み、都斯麻国を経由し、大海の中を廻った。さらに東に一支国に至り、また竹斯国に至り、さらに東に 秦王国に至り、そこの人は華夏と同じであるから夷洲とみなしたが、明らかにすることはできないだろう」
と載せる。
② 義楚『釈氏六帖』卷二十一「国城州市部」。
③ 薛俊『日本考略・沿革考』。
④ 王惲『汎海小録』、『秋澗集』卷四十。「君房」は徐福の字であり、これによると「徐福始祖説」は日本人 の口から出たものである。楊維楨「送倭僧還」中の二句の詩が証拠となる。すなわち「倭師は自ら徐福の 後だといい、船のへさきに太陽を見ると車輪のようであった」とある。
を身につけた工匠や農民が進んだ大陸文明と生産技術をもたらしたばかりでなく、音楽・宗 教・書籍の類などの精神文明さえもある程度まで伝播するに至った①。
2.「呉の泰伯の後裔説」
呉と越はともに江南にあったが、古くより戦争がやむことはなかった。紀元前 473 年、越 王勾践は呉王夫差を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十 五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫 支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四 散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。
倭人が自ら呉の泰伯の後裔だと称するのは、最も早くは魚豢『魏略』の「倭人自ら太伯の 後と謂う」という記述に見え、この説は唐宋時代に『翰苑』、『梁書』、『通典』、『北史』、『晋 書』、『太平御覧』、『諸蕃志』など様々な史書に採録されることとなり、かなり広く流伝して いたことがわかる。
泰伯(太伯)は古公亶父(周太王)の長子であり、礼によって天下を三男末子の季歴に譲 り、孔子から「至徳」(『論語』)と誉め称えられた。泰伯と次男の仲雍は父のために薬を採 るという口実で、遠く荊蛮の地に逃れ、髪を散らし、入れ墨をし、土人を教化し、義を慕い 帰順するものはだんだん増え、そして自ら国を建て「句呉」と号し、都を呉中(現在の蘇州 市)に建てた。春秋後期に句呉の国力は強勢となり、北上して晋国と中原をめぐって争った。
紀元前 473 年、越王勾践は臥薪嘗胆し、兵を興して呉の地に攻め入り、句吴は遂に夫差の代 で亡ぶ。「呉の泰伯の後裔説」が形成された下限は、『魏略』が成立した 3 世紀の後期にあた り、その時日本は中国と「使訳通ずる所三十国」であり②、その中で女王が統率する邪馬台 国が最も強勢であった。
「呉の泰伯の後裔説」は日本民族の起源に関係すると同時に、大陸移民の東渡にも関わる ので、学界で注目を浴び、激烈な論戦が交わされた。たとえば村尾次郎氏は中国人の「曲筆 空想」だと指摘し③、大森志朗氏はこれは「漢民族の中華思想の産物だ」とみなす④。また 千々和実氏は綿密な考証を経て、3 世紀の倭人の部落が対内的には王権を強化するために、
対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人泰伯に結びつけたと指摘
① 欧陽修が作ったとされる『日本刀歌』には「聞くところによるとその国は大島にあり、土壤は肥沃で風 俗もよろしい。その先に徐福は秦民を欺き、薬を採り留まって子供も老人となった。百工五種をもってと もに住みつき、今に至るまでその器玩は皆精巧である。(中略)徐福が出発したときはまだ焚書にあって おらず、逸書百篇は今なお存している」とある。この詩の作者は一説に銭君倚(公輔)であるという。
② 『三国志·倭人伝』。
③ 村尾次郎「呉太伯説研究」、『建武』五—五、1940 年。
④ 大森志郎「呉太伯後裔説」、『文化』第八卷第十号、1941 年。