• 検索結果がありません。

古代中国文化の日本における伝播と変容

宋成有

古代において中国は東アジアに先立って開化し、日本文化の発展に対して重要な働きを した。これは疑いようのない事実であり、絶対多数の日本の学者も同様に認識している。

内藤湖南は「東洋史はすなわち支那文化発展の歴史である」と認識し1、古代においては「支 那と同一圏に属する日本は、支那文化の刺激を受けて自らの文化を形成した」としている2。 戦前には、似たような観点を持った様々な研究の著作が大量に出版された。戦後、広島大 学教授の木宮泰彦により『日華文化交流史』が出版され、研究の新しい局面を切り開いた。

両国の学者が長年にわたって研究を進め、多くの成果が得られた。1966年には周一良氏と 中西進氏の二人の著名学者が主編し、両国総勢80人以上の学者が共同で『中日文化交流史 大系(日中文化交流史叢書)』を書いたが、これは中国語版と日本語版が浙江人民出版社と大 修館書店からそれぞれ出版されている。大系は歴史、法制、思想、宗教、民俗、文学、芸 術、科学技術、典籍、人物など10巻に分かれ、約 300 万字を有する大著であり、研究領 域が網羅されいて、一里塚と称するに足る学術的成果である。

1990年代以降、日本国内の新民族主義とある種の「嫌中国」の社会的感情の反映として、

中国古代文化の日本への影響を極力軽視しようとする観点、文化における「脱中国化」を 宣揚する観点が登場した。こうして本来なら問題とすべきでない問題が生じたのである。

抜本的な策を講じるために、そのような見聞を一掃するために、本章では古代の日中両国 の文化の関係を如何に理解し捉えるべきか、すなわち古代中国文化の日本への伝播、古代 日本の中国からの異質な文化に対する導入過程における適応と創造、日本文化の形成とそ の特徴、古代中国文化と日本伝統文化の関係などのいくつかの問題をめぐって、一つの見 方を提示し、共に討論を広げることを期待したい。

第一節 古代中国文化の日本への伝来 1.日本に伝わった中国古代文化の要素

日中古代文化交流の歴史は長く2000 年に及び、関わってくる内容は極めて豊富である。

そのうち、日本の伝統文化の発展に強烈な影響を与えた古代中国文化の要素、すなわち文

1 内藤湖南『支那上古史』緒言(小川環樹『日本の名著』内藤湖南、中央公論社、1971年、262ページ)

2 内藤湖南「支那人の支那未来観およびその批評」『内藤湖南全集』第8巻、筑摩書房、1969年)、163 ページ。

化の膨大な体系を支える根幹あるいは鍵となる要素としては、主に以下のようなものがあ る。

1.漢字

周知のように、漢字は原始時代の陶文単字を起源とし、今から3400年余り前の殷(商)

王朝時代に使われていた甲骨文字で初歩的な形が作られた。紀元前 3 世紀に秦始皇帝が六 国を滅ぼして「書同文」、つまり文字を統一して以来、2300年余りの間、漢字は篆書から隷 書、楷書へと字形を変えながらもその根本は変わらず、字の構成の仕方を受け継ぎ、元の 意味から離れることはなかった。たとえ、21 世紀の高い科学技術がすさまじい勢いで発展 を続け、また情報化社会が前進する速度を速めつつある今日にあっても、なお漢字は取っ て変わることのできない巨大な影響を発揮し続けている。古代エジプトの象形文字や両河 流域の楔形文字が埋もれて名も知られなくなったのと比べると、漢字が今に至るまで使わ れ続け、いまだ活力を持っているのは、世界の文字史上における奇跡と言える。漢字が古 代の長い時間をかけて伝播していく中で、南はベトナムから中国大陸を経て、東は朝鮮半 島、日本列島に至る広大な漢字文化圏が徐々に形成されていった。 漢字は発祥の地から 徐々に周辺地域へと順次伝播していく論理によって、北東アジアでは朝鮮半島に入り、そ れから日本へ入っていった。この過程は『史記』や『漢書』など多くの文献の記載に見ら れる。例えば、紀元前11世紀に殷が滅亡して周が興った際には、箕族が東夷の故郷に帰還 して漢字伝播の先行役を果たした。紀元前 3 世紀、秦と漢の時代の境目には、大陸の人々 は秦の労役と戦乱から逃れるために次々と朝鮮半島に移住し、日本列島に南下していった。

渡来人として、漢字を弥生時代の日本に持ち込んだのである。紀元前 2 世紀末、漢四郡が 設置され、倭人が遠く楽浪にまで献見することで、絶え間なく漢字が日本列島に入るため の機会がますます増えていった。後漢、魏晋南北朝の数百年間は倭奴国、邪馬台国、倭五 王が中国漢族の王権と絶えず交流し、大陸から帰化した人々が倭人の漢字を扱う水準を引 き上げた。『宋書』に記載される流暢な倭王武の上表文はその良い例である。こうした時代 の考古学的発見としては例えば、弥生後期の土器に刻まれた漢字、「漢委奴国王」の金印銘 文、熊本県江田船山古墳から出土した鉄刀銘文、和歌山県隅田八幡宮の銅鏡銘文、埼玉県 稲荷山古墳の鉄剣銘文などの出土品があり、漢字が日本に入った事実を実証している。

文化を伝播するツールとして、漢字の伝わるプロセスは人物往来のプロセスでもあった。

文明の運搬役たる漢字が伝わるのに伴い、礼儀と倫理、宗教と学理、教育と科学技術、文 学と芸術、典籍と文書の交易、年中行事と生活習慣などといった非常に豊富な内容を持つ 中国文化が日本に伝わり、古代日本人が文明時代へと入っていく歩調を速めた。8世紀初頭 には、漢字により記された『日本書紀』などの官製の国史が登場し、日本は自らの国で編 纂した国史を持った。漢字が伝えられたことで、民族文字の創造にとっての基礎が築かれ

た。

2.儒学

儒家は「留意于仁义之际(仁と義の関係に留意する)」、「祖述尧舜,宪章文武,宗师仲尼,

以重其言,于道为最高」(尭、舜の行いに従い、文王武王の法令を信奉し、孔子を尊び、其 の言を重んじ、道を最高と為す)」もので、「助人君,顺阴阳,明教化(君を助け、陰陽に 従い、教化を明らかにする)」など多くの効用がある1。孔子の後には、「有子张之儒,有子 思之儒,有颜氏之儒,有孟氏之儒,有漆雕氏之儒,有仲良氏之儒,有孙氏之儒,有乐正氏 之儒(子張の儒有り、子思の儒有り、顔氏の儒有り、孟氏の儒有り、漆雕氏の儒有り、仲 良氏の儒有り、孫氏の儒有り、楽正氏の儒有り)」など先秦時代の儒学がある2。前漢後漢に なると、董仲舒と劉歆が今古経文儒学を提唱し、讖緯(しんい)の学がそこに入り込む。

魏晋南北朝時代には、魏の夏侯玄、王弼、何晏などが老荘思想により儒家の教義を解釈し、

玄学化させた。隋、唐の時代には、儒学者は章句の解釈、訓詁を盛んに行うようになり、

道統の復興を目指した。日本では国家創建期にあたり、この過程で漢、唐の儒学が続々と 日本に伝わって日本での初期儒学の基本となっている。

日本書紀には、応神16年(285)、自らを漢の高祖の後裔と称する百済人博士の王仁が『論 語』などの典籍を携えて南の倭国へ渡ったことが記載されているが、これが儒学が日本へ 伝えられた最も古い記録である。皇太子の菟道稚郎子は王仁に師事し、様々な典籍を学ん だ。3この記載内容の真偽は定かではないが、儒学が朝鮮半島を経て日本に伝わった経路や 百済と倭国の頻繁な往来などから察するにまったくの作り話ではあるまい。6 世紀の継体、

欽明両天皇の時代には、五経博士段楊爾、五経博士王柳貴、易博士王道良などが百済王の 命を受け、相次いで日本へ赴いた。この他、高句麗の五経博士高安茂、南梁の司馬達など も渡日し、前漢後漢の儒教の経典が絶え間なく日本へ伝えられた。日本に渡った儒学者の 多くが原籍を中原の楽浪王氏としているのは決して偶然ではなく、また基本的には信じら れることである。少なくとも、先に述べた記載内容を否定する史料が発見されない限りは、

しばらくこの説に従うしかない。

大化改新の後、天智天皇の時代に大学寮と国学など、国と地方の両クラスによる教育機 関が設立され、明経博士が漢や唐の訓詁学を講義し、『論語』、『孝経』、『周易』、『礼記』、『毛 詩』など儒学の経典は、律令体制下における五位以上の官人の子弟が教育を受ける際の基 本教材となって、儒学はこれまでになく盛んになった。751年に編まれた『懐風藻』は、王

1『漢書』芸文志、諸子略序。

2 『韓非子』顕学。

3 『日本書紀』巻十、応神天皇十六年春二月条。