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科学研究における伝統知識の復権

第五章 科学と道徳に対する認識の相違

第二節 徐復観における科学と道徳

二 科学研究における伝統知識の復権

殷海光は、科学研究が「経験」と「論理」という二つの要素によって構成されたものと考 えている。それに対して、徐復観が主張した科学研究の方法論は、結論から言うと、観測・

実験により得られた研究対象の枠を越え、古代人の経験の蓄積である古書典籍が研究対象 とする十分な価値があることを認識すべきだということである。

1964年、「反科学的科学宣伝家」と題する文章で、徐復観は、胡適らが科学を名目にして 中国伝統医学を軽んじることを批判し、中国伝統医学が経験的・実践的な知識として極めて 大きな研究価値を持っていると主張している。この文章からは科学に対する徐復観の認識 を看取できる。まず、文章の冒頭で彼は科学を以下のように規定している。

科学を構成する基本的条件は、人間生活の中で積み重られた実際の経験である。経験 を合理的に処理することを通して、その中に含まれる錯覚および無関係な要素を明確 化し、その経験の構成要素および関連関係を抽出し、法則性がある説明を得る。さらに このような説明に従って、実験室でその経験を再現し、反復的に実現させる。それが科 学というものである446

445 原文:它要掃蕩人類歴史所蓄積的一切観念,最後帰結到電脳。徐復観(1963)「観念的貧困与混乱」

『徐復観全集・論文化(二)』p599)。初出:『華僑日報』1963 年 9 月 8 日付。

446 原文:構成科学的最基本条件,是人類生活中所積累的実際経験。把経験加以合理的処理,將其中所含的 錯覚,及並無真正関係的因素,加以澄清,以抽出構成此一経験的基本因素及相関関係,因而得出法則 性的説明;更能根拠這種説明,在実験室中,將此一経験重加構成,使其反復実現、這便是科学。徐復 観(1964)「反科学的科学宣伝家」『徐復観雑文補編・第二冊・思想文化巻(下)』p256)『華僑日 報』1964 年 5 月 29 日付。

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引用の如く、徐復観は科学を経験科学のみとして捉え、経験がなければ科学も存在しない と考えている。こうした考えを踏まえて、徐復観は中国伝統医学が、その研究方法が厳密に 言うと非科学的であるが、数千年の実践的な医療活動を背景に持つ経験的蓄積であると指 摘している447。そのため、「中国医学は科学的に処理をされていない医学の経験の宝庫であ る」448という。医療問題が数多く存在する今日において、その解決にあたっては中国伝統医 学の価値を重視すべきであるというのは徐復観は主張である449

また、「人類文化学的新動向」(「人類文化学の新しい動向」、1965 年)において、徐復観 は、「文化決定論」450を主張するA.L.クローバーによる文化が個人を凌駕する自立的存在で あり、個人が文化の前では無力であるという所論に沿って、こうした考え方が「文化を創造 する個人を無視し、文化を発展させる人性を忘却してしまう」と批判する451

そして、1930年代以後、アメリカにおいては、「文化決定論」を是正しており、研究者は 自らが採る分析理論と収集したデータに基づいて原始人の活動に対する知的探求に取り込 んでいるが、その結論が依然として文化起源の諸像を充分に把握できない、と徐復観は考え ている452。何故かと言うと、人類の行為は動物的欲求だけではなく、習慣・制度や価値規範 との関連において成立するものである。そのため、人間の行為の説明は、必ずある歴史的文 脈を背景にしなければならない、と彼は言う453。また、人間の心理活動に根本的な違いが存 在していないため、調査と統計の方法による原始人の心理活動を研究するのみで、各々の文 化の起源を明らかにしようとするのはそもそも不十分である。各々の文化の特質を捉える ために、文化と深く結びついた共同体における様々な事象を考察すべきである、と徐復観は

447 同上、p257。

448 原文:中医是沒有經過科学処理的有関醫学上的経験宝庫。同上、p256。

449 同上、p258。

450 文化決定論(cultural determinism)とは多くの人類学者が多少なりともかかわり合う人間と文化との 関係を捉える学問的・理論的立場であるが、大別して二つの捉える方がある。一つは文化的唯物主義

(cultural Materialism)とでもいうべき立場であり、文化進化主義とも深く結びついているが、シ ステムとしての文化が人間の物事認識と行為を支配すると主張する。信仰や価値や倫理や習俗も、す べて唯物的な文化のシステムから生まれたもので、それは生 態的環境との関係によって左右される。

古くは L.A.ホワイト,またその系統のサーリンズ,サーヴィ ス,さらによりラディカルにハリスなど によって提唱されている。いま一つは、「文化とパーソナリティ」学派によって主張された点で、人間 の性格がその生態環境と密接に結びついた文化システム(育児様式を生み出す)によって、きわめて 早い時期(幼児期)に決められてしまうと指摘する。いずれも、人類学的な文化理論の極端なタイプ を代表するが、以上にかぎらず、「文化」に対して人類学者は一様に、その決定的な影響力(人間に対 する)を多少なりとも評価するものである。(森岡清美・塩原勉ほか編〔1993〕『新社会学辞典』「文化 決定論」より,p1296,有斐閣)

451 原文:過去的文化人類学,忽視了創造文化的個人,忘記了使文化発展的人性。徐復観(1965)「文化人 類学的新動向」『徐復観全集・論文化(二)』p620)。初出:『華僑日報』1965 年 5 月 2 日付。

452 同上、p621。

453 同上、p621。

134 指摘する454

さらに、文化研究において、データ分析のみに偏重する方法は細分化された部分の問題を 把握できるかもしれないが、雑多な要素を含む文化を解明するために、部分的把握だけでは 不十分であり、全体的かつ包括的な方法が必要であると徐復観は考えている455

自然科学研究はその方法に従えば信憑性のある成果を獲得できるのに対して、人間に関 わる学問分野は、自然科学研究方法への固執からの脱却に向けて新しい視点と方法を模索 しなければならない。そのため、徐復観が取り上げる方法は古典文献の解読や上古から今日 まで受け継がれてきた伝統文化をも研究することである。

終わりに

以上の論考を改めて整理すると、殷海光は経験的実在を重んじ、論理的思考方法を堅持し、

客観性を損なう感情的・精神的・価値判断的なものを一切排除し、中立ないし無価値的思想

――「無色的思想」を追求すべきであると主張している。人々は「無色的思想」を用いて伝 統・倫理道徳・イデオロギー・感情などを物事から切離すことによって初めて、客観的な見 方が可能となり、権威の支配から人を解放できるようになるのである。

それに対して、徐復観は、知識としての科学技術が「無色的」であることを認めるが、人 間行為としての「科学」と、道徳・理想・価値など精神の諸事象といずれも、人間の所産で あるため、「科学」と「道徳」と直接に関係していると主張する。社会のレベルにおいては、

精神的価値を保有する文化が自由思想の基盤を強固にし、科学の発展を促進し、個人のレベ ルにおいては、道徳を持つ科学者が科学の悪用を防ぐことができる。そして、科学の限界を 常に意識しながら、従来の科学の枠を越えた倫理道徳・芸術・哲学などの要素を吸収するこ とで、新たな領域を開拓すべきである、と徐復観は指摘している。

また、本研究は先行研究で看過されてきた科学理解に関する両者の独自性も明らかにな った。殷海光は社会生活における道徳の役割を否定したわけではない。ただ、彼は、科学で 検証されない道徳はその有効性の保障ができないし、人を圧迫する道具として悪用される

454 同上、p621。

455 徐復観(1962)「中国文化的層級性」『徐復観全集・論文化(二)』p576-577)。初出:『華僑日報』

1962 年 9 月 22 日付。

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恐れがあると考えている。そのため、殷海光は「科学」に依拠すれば、実践的な問題への解 決能力のある「道徳」を創出することができ、社会・文化・道徳などの問題に直面した際も、

厳密な実証的精神に始終しなければならないと主張している。こうした思考の中に、あらゆ る事象を分析対象として捉え、理論化のために研究するという近代科学の操作を含んで、科 学の領域を拡張させる意図が伺える。

一方、徐復観は人間精神の領域を自然科学的方法で研究する可能性に疑問を呈し、科学万 能主義のために矮小化された人間の尊厳を取り戻そうとしている。従って、徐復観と殷海光 とに介在する根本的な違いは、中国伝統道徳に対する態度ではなく、「科学」と「道徳」と の関係に対する理解の相違であると考えられるのである。

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