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徐復観の危機認識――近代化による価値観の崩壊

第四章 徐復観と殷海光における中国伝統文化に関する論争

第三節 「中国文化危機」の成因と解決方法

二 徐復観の危機認識――近代化による価値観の崩壊

文化危機が中国伝統文化の後進性とその後進性を利用する復古主義者によるものだとい う殷海光の所論に比べて、徐復観は、中国文化の不振は科学技術の飛躍や近代化の副作用に よる中国人の精神価値の崩壊が原因であると指摘している。

「今日中国文化上的危機」(「今日中国文化上の危機」、1959)と題する論文に徐復観は、

中国文化が危機に至った原因を「人間地位の動揺」という言葉で表現する。つまり、中国の 伝統的価値体系の根源とする「人為万物之霊」(人は万物の霊と為る)373という理念が動揺 することによって、中国人の精神は内部から崩壊してしまうということである。徐復観は、

「人為万物之霊」とは人間が自然万物を凌駕する支配権を持つという意味ではなく、人間が 自覚的に自分と自然万物と区別しようとする意味であると主張している374。そして、この自 覚の上には二つの価値体系が形づくられる。一つは西洋人が持つ自然万物に対して全てを 解明しようとする「知識の自覚」であり、もう一つは中国における自然万物に対して道徳的

371 前掲:殷海光(1959)「胡適与国運」『殷海光全集 14・学術与思想』p919)

372 同上、p919。

373『尚书·泰誓上』「惟天地万物父母、惟人萬物之霊」。通訳:一体天地は万物の父母であり、一体人は万 物の霊長である。小野沢精一(1985)『書経(下)』p451,明治書院。

374 徐復観(1959)「今日中国文化上的危機」『徐復観全集・論文化(一)』334 頁)。原文:『東風』第一巻 第七期、1959 年 3 月 2 日号。

110 責任を負うべきだと考える「道徳の自覚」である375

しかし、近代化にともない、人間が動物と同一視され、人間の思想・精神すら、科学によ って研究しようとする風潮が起きた(この課題については第五章で詳述する)。こうした風 潮の下に、科学さえあれば一切を打倒できるという科学万能的な考え方が起こった。伝統文 化の担い手になるはずの若者世代がこれらの問題に直面した時、道徳をほとんど念頭にお かず、価値決定の基準を亡失している現状について徐復観は憂慮している376

一方、非難された儒家思想の復古主義的性格について、徐復観はこの課題を詳しく論じて いないが、「復古主義的性格」に対する否定は常に彼の思想の背後にあることが考えられる。

例えば、本論の第二章でも取り上げた「復性与復古」(「復性と復古」、1950)という論文に よると、儒家の「復性」は昔の状態に戻ろうという復古の意味ではなく、人間の持つ善的本 性に復帰することと徐復観は示唆している。ここで、「復性」と「復古主義」との区別に関 するもう一つの議論について触れてみたい。

1978 年に中国大陸の『光明日報』は、「孔子思想的再評価」(「孔子思想の再評価」、1978 年)と題する社説を発表し、孔子の教育思想を高く評価した。徐復観はこの社説を好意的に 受け止め、大陸の孔子に対する認識の重大な進歩と評し、社説に触られた幾つかの問題につ いて自らの意見をまとめた「孔子思想的性格問題」という文章を作成した。

『光明日報』の社説は、「克自復礼」を「復周礼」つまり周代の礼儀規範の回復と解釈し た上で、孔子を「世情が古代のように純朴ではないと嘆いた保守思想家」と評価した。それ に対して、徐復観は「克自復礼」について説明し、「儒家思想は復古的だ」という俗説が孔 子思想についての誤解に基づいたものであると次のように否定している。

「克自復礼」の「復」とはよく現在の人に「回復」の意味だと誤解されるが、実のと ころ『説文』の「二下」に「復、往来也」と記されてあり377、段玉裁が「往而仍来」と 解釈し378、桂馥の『義証』には「謂往来復重也」と記され379、朱駿生は『通訓定声』で

375 同上、p335。

376 同上、p340。

377 『説文』いわゆる『説文解字』は後漢の許慎が著した中国最古の字書、100 年頃成立と言われる。

「復、往来也」とは「復が往来であるという意味」である。

378 段玉裁(1735-1815)は清朝中期の考証学者。『説文解字』の注釈書『説文解字注』 (30 巻・1807) を 著し、字音・字義の推移に詳細な注釈を加えた。「往而仍来」とは「行ったりまだ来たりすること」で ある。

379 桂馥(1737-1805)は段玉裁と並び「段桂」と称された考証学者。その代表作である『説文解字義証』

は豊富な資料と用例を用いて字義を詳しく解釈する。「謂往来復重也」とは「往来・重複と謂う」こと である。

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『易・復卦』の「反復其道」を更に引用して解釈している。このことからわかるように、

いわゆる「復礼」は「反復於礼」という意味であり、すなわち『礼記』の「楽記」と「祭 義」で言われる「礼楽不可斯須去身」380である。381

引用から見られるように、徐復観は「復礼」を人が自分自身を高めるために「礼」を規範 として常に自分を反省する状態と解釈している。

さらに、彼は『論語』の「樊迟問仁、子曰、居処恭、執事敬、与人忠」382と「仲弓問仁、

子曰、出門如見大賓、使民如承大祭」383と即して、「礼」の中核が「敬」であると指摘する。

「敬」というのは二つの側面があり、「一つの側面は收斂の側面であり、これは精神を乱雑 や邪念から解放することである。もう一つの側面は集中であり、やるべきことや配慮すべき ことに精神を集中させることである」という384。そして、人と人の隔たりは人それぞれが持 つ私智や私欲によって引き起こされるものであり、それゆえに、「克自」は私智、私欲を克 服、抑制することであると徐復観は述べている385。そのため、「克自復礼」は人間を野蛮な 状態から救い出す修身法であり、それ同時に「仁」に到達するための具体的な実践方法であ り、「復古主義」とは何ら関係がないとする386。そして、真の儒家思想の性格はまさに「復 古主義」とは正反対の実践性にあると徐復観は指摘している。それについては第七章で詳し く述べることとしたい。

では、儒家思想はこれまで歴史への反動による復古主義者ではく、また儒家思想を研究す る人も、西化派にレッテルを貼られた「復古主義者」でもない。前文で言及した殷海光の「重

380『礼記』「楽記」:礼楽不可斯須去身。致楽以治心,則易直子諒之心油然生矣。通訳: 礼楽は少しの間も 身から離してはならない。音楽を修め、それによって心を安らかに保つことに努めれば、正直で順良な 気分がおのずから湧き出して来るのである。竹内照夫(1977)『礼記(中)』p599,新釈漢文大系,明治 書院。

381 原文:“復礼“的“復”,今人往往誤解為“恢礼”的意義。実則《説文》二下:“復,往来也。”段玉 裁注“往而仍来”,桂馥《義證》“謂往来復重也”,朱駿生《通訊定声》更引《易・復卦》“反復其道”作 解。由此可知所謂復礼,乃是反復於礼,亦即《礼記》的《楽記》和《祭義》両篇所説“礼樂不可斯去其 身”。徐復観(1978)「孔子思想的性格問題」『徐復観全集・徐家思想与現代社会』p217)。初出:『華 僑日報』1978 年 9 月 28 日・29・30 日付。

382 『論語』「子路第十三」樊迟問仁、子曰、居処恭、執事敬、与人忠。通訳:樊遅が仁についてたずね た。孔子は言った「家にいる時には行儀よくし、仕事をする時には慎重にし、人との交際いは誠実にす ることだ」。前掲:平岡武夫著(1980)『論語』,p373。

383『論語』「顔淵第十二」仲弓問仁、子曰、出門如見大賓、使民如承大祭。通訳:仲弓が仁についてたずね た。孔子「家の門を一歩出ると、何人にも国賓に会見するかのようにし、人民を使うときには国家の祭 りに奉仕するかのようにする」。同上:p330。

384 原文:敬一方面是收斂,把精神從雑乱,邪弊中摆脱出來。另一方面是集中,把精神集中到応作的事,

応存的心上面。前掲:「孔子思想的性格問題」(1978)『徐復観全集・徐家思想与現代社会』p217)

385 同上、p217。

386 同上、p218。

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整五四精神」が発表された後、徐復観は直ちに「歴史文化与自由民主―对於辱罵我們者的答 复」(「歴史文化と自由民主―私たちを辱めののしる人に対する答え」、1957)と題する反論 を執筆した。この反論において、徐復観は殷海光の文章が偏見と歪曲を羅列したものである と抗議している。また、伝統文化を提唱する人を復古主義に固執するものとして批判する殷 海光に対して、徐復観は歴史文化を研究することと「復古」がイコールではないと強調する ほか、歴史上の事実から見れば、伝統を徹底的に打倒しようとする人たちこそが独裁統治者 の共謀者であると反駁している387

中国文化不振の原因が中国人固有の共同信仰たる儒教的価値観の衰退にあると考える徐 復観は、さらに盲目的な伝統文化否定がその衰退を促すと批判している。徐復観は、「文化 的中与西」(「文化から見る中国と西洋」1952)において、近代以来、西洋の衝撃を受けた中 国が国家解体の危機を克服しようとする過程の中で、理念の相違によって中国知識人の内 部の分裂が深まったと指摘している388。西洋の衝撃から生まれた西化主義者は西洋思想文 化を受容した際、自分の内面に根をはる伝統文化と西洋思想文化を持続的に対決させる意 識を持たない。彼らは自身の劣等感から自分の思想の主体性を放棄するとともに、中国文化 の個性を否定し、中西文化の無区別論を主張するに至っている389。徐復観の文章にはこうし た西化派に対する反感が随所に吐露されている。

例えば、彼による「五十年来的中国学術文化」(「五十年以来の中国学術文化」1961)で は、専制政治を排除するために、伝統文化を全面的に否定する胡適らの主張は民族虚無主義 による狭隘的な見方であり390、胡適らの「西化論」は体系的な思想というよりも、一種の

「革命的感覚」に過ぎないとしている。そのため、「西化派」は伝統の学問を軽視する一方、

「打倒孔家店」、「白話がすなわち文学」、「玄学鬼」のような「偏見のあり急進的で浅薄な」

口号しか出せなかった、と徐復観は喝破している391

また、反伝統主義者に対して、徐復観は「歴史与民族」(「歴史と民族」)と題する文章で、

ナショナルな使命意識によって次のように熱く批判している。

387 徐復観「歴史文化与自由民主―对於辱罵我們者的答复」『徐復観全種・学術与政治之間』、p511)

『民主評論』第八巻十期,1957 年 5 月 16 日付。

388 前掲:徐復観「文化的中与西―答友人書二」『徐復観全集・学術与政治之間』、p77)

389 同上p77。

390 徐復観(1961)「五十年来的中国学術文化」『徐復観雑文補選第二冊・思想文化巻(下)』,p152)

初出:『聯合報』1961 年 1 月 1 日付。

391 同上、p152。